第32話
「ま、まって!」
僕は彼女に詰め寄った。
「確かに、僕が悪かった。人の日記を読むなんて、失礼だった。本当にごめんなさい。でも──
僕は彼女の顔をまっすぐ見て、その瞳に訴えた。
「やっと、分かった。翡翠が、どうしていつも辛そうな顔をしているのか分からなかったけれど、それが、ようやくわかったんだ。」
「──」
「僕は、翡翠が人間として生きていたかったと、そう思っていた。それは単純に人柱になってしまったから、もっと未来を見て見たかったんだと、そう思っていたんだ。
確かに、それはあった。
けれど……それだけじゃ、なかったんだね。」
「……めろ」
「翡翠は、大事な人と……
「やめろ!」
翡翠は叫んだ。
目に涙を浮かべながら。
「私は──私は、神霊だ!!もう、その人間の記憶など、ない!!」
「でも……翡翠の心は、人間だよ。」
「──ッツ!!」
「君は、好きになった人を──ずっと想い続けた。その人との思い出を大切にしようとしてきた。
だから、その人が語ってくれた世界を──憧れた世界を、君は否定されたくなかったんだ。
だから、君はここから出ることを止めたんだ。
そして──君は、諦めてしまったんだね……」
「──」
翡翠は怒りと悲しみが入り混じった目で僕を睨む。
彼女は歯を食いしばり、うなるように言った。
「私は、神霊だ。人間などでは、もう、ない。
何を──何をしようと、人間には、もう、戻れないんだ。」
「翡翠、僕は──」
僕は、言葉が出なくなった。
彼女の頬を、どこまでも澄んだ、透明な雫が流れていった。
「碧、もう、ここには来るな。」
「──」
「本当は知っているのだろう?私は、私の命は、残りあとわずかだ。
私は、もうすぐ消える。この都と共に。
だから、何を見ても、何を聞いても、何をしても、
「……」
「だからもう、私の前に、現れるな。
お前を見ていると、胸が張り裂けそうになる。」
「翡翠──」
僕の言葉は、濁流によってかき消された。
戸の奥からなだれ込んできた水が、僕を家具ごと外に押し出した。
「ひす──」
決壊したダムのようにあふれ出したその流れは、鉄砲水のように強く、激しく広がった。
そして、その水はひどく──熱かった。
◇
「翡翠……」
雨が頬を打つ。
足元に広がる水面に波紋が広がり、その境界があやふやになっている。
僕は、動けなかった。
何をどうすれば良いのか、分からなかった。
「──でも……」
心の中で、多くの感情と思考が渦を巻く。
彼女は、人として生きていきたかった。
彼女は、友達に会いたかった。
彼女は、恋人と一緒にいたかった。
彼女は、思い出を、失いたくなかった。
だから、彼女は諦めた。
その身は既に人でなく。
その友は既になく、
その恋人とは結ばれず、
その思い出は消失する。
それは、どうしたって止められない。
どうやったって、戻れない。
だから、彼女は諦めた。
変わろうとしても変われない。
外に出ても、自らが味わうものは変わらない。
もう命は終わるのだから、外に出たって仕方がない。
全てに焦がれながら、彼女は理由をつけて諦めた。
それが一番、何も失うものはないのだから。
「──でも。何も、得られないじゃないか。」
“面白さ”は、自分で探しに行かなきゃ“楽しくない”。
紅葉の言葉は僕に衝撃を与えたが、あれは言ってみれば、自分で動かなければ変わらないというものの一種だ。自分が変わろうとしなければ、自分の周りの世界は変わらない。
だから、きっと彼女だって──
僕は、首を振った。
いや、違う。
違うんだ。
僕は、難しいことは分からない。
ただ、ただ、僕は──
「友達になりたい、ただ、それだけを思っていたんだ。」
だけど、なんで──
なんで、こんなにも考えてしまうのだろう。
ただ、友達になりたくて、それだけのはずだったのに、なんで彼女のことをこんなにも考えているのだろう。
助けたい、救いたい──ううん、それよりも、友達になりたい──
それは僕が傲慢で、自分勝手だから、そう思ってしまうのだろうか。
でも、だとしたら、彼女を──あの水源京から連れ出したいと、そう思ったのは、なんでなんだろう。
「友達って──」
「何を、悩んでいル?」
頭上から、低い声がした。
「ああ、また、あいつカ。」
身の丈ほどの小さい傘を折りたたみ、ゴシック姿の幼女が僕の前にすっと降り立った。
「ヤツのことを救いたいのカ?やめておケ。やめておケ。
お前は人間、ヤツは神霊ダ。神霊を基に戻す方法などありはしなイ。
命は後には戻れなイ。先に進むしかないモノだ。」
今日の彼女は、いつもと違った。
いや、いつも彼女は現れる度に“違う”。それでいて、いつだって彼女は雨音だ。それでも今日の彼女は、今まで僕が見てきたどの『雨音』とも違い、どれよりも“遠い存在”に見えた。
「
僕は霞がかかった瞳を見る。
「なんダ?」
「この……翡翠の水源京の水が枯れるのは、君が──北側にずれたから……なの?」
「そうだガ?」
僕は息をのんだ。
空に穿たれた虚のような霞んだ瞳が、一切の感情もなく言い切った。
「ま、まって。それじゃあ──それじゃあ!翡翠が死ぬのは、自分がこっちに来なくなったせいだと分かっているの!?」
「当然だロ?雨がなければ水源などできやしないのだかラ。」
「雨音──」
「何を怒っていル?
「──」
……そうだ。彼女は、自分の意志で移動することはできない。
彼女は雨。雨の『神』。
現象から生まれた『生き物』だ。
現象である彼女が、その現象に逆らった動きは、出来ないのだ。
でも──
「でも──雨音にとって、翡翠は友達じゃないの?」
「?友達だガ?」
「だったら──!」
「だったラ?」
「……彼女が──友達が死んでしまうんだよ?
だったら……もっと、哀しむ、ものなんじゃないのかな……
たとえどうすることもできないと分かっていても、もう少し……」
「……」
「──どうして、雨音は、平気そう、なの?」
降り続ける雨が僕と彼女の間に白いカーテンを引いていた。
霞んだ視界の先で、雨の神は口をつぐんでいた。
その変わりに降りしきる雨がさめざめと泣き、その音は僕の心を打った。
けれど、口を開いた彼女は一切表情を変えなかった。
瞬き1つせず、僕を見上げながら、彼女は口を開いた。
彼女は白い幕の向こう側で、真っ白な顔で言い切った。
その時の雨は、忘れられない。
その、白い白い──ひどく白い、冷たい雨を。
「だって“友達”は、ただ自分が生きていることを認識するためのモノだろウ?」
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