第31話


 何年振りに蝉の声を聴いたのだろうか。

何度も浴びた照り付ける太陽の日差し。

嫌というほど嗅いだはずの山の土の匂い。

深緑の息吹が充満する空気。

それを、わたしは肺一杯に吸い込んだ。

聞こえるもの、見えるもの、肌に感じるものすべてが懐かしく、そして新鮮だった。


「これが、水源京の、外──」


 わたしは池の中心に立っていた。深さは腰ほどしかないが、水源京は何本もの木々を取り込めるほどの大きな泉だった。この泉の下に10年近く住んだ都があるのかと思うと不思議だった。


「出られ──る。」


踏みつけた土の柔らかい感触。落ち葉が足の裏をちくちくとつつく。

わたしはその感触を楽しみながら、山を駆け降りた。

出られたことに、外の世界に触れたことに、高揚した。

年甲斐もなく、はしゃいだ。


そして、山の中腹から、わたしは村を見つけた。


ああ。

あそこに行けばわたしの知らない人に出会える。

あの人が体験したことと同じことができるのだと、そう高ぶった。



そう、本当に、情けないことに。





わたしは見る物すべてに目を奪われた。

綺麗に整えられた小道。

小麦を引く水車。

青々とした田畑。

そして、乾いた木肌の家──


見ているだけで涙が出てきた。

やっと、自分の知る──そして知らない世界に、触れることができたのだと。そう思った。


「すみません、どなたか──という村をご存じではありませんか?」


わたしは、自身の村の名を口にした。だが、村の人々は皆顔を見合わせては踵をかえすばかりで、一言もなにも口にしなかった。


「すみません、どなたか──という村をご存じではありませんか?」


わたしは気づかなかった。

村に入ったときの周囲の視線に。

わたしが踏み入ったことで生まれた、その村の不穏な空気に。

わたしは、“私”が何であるかを、分かっていなかったのだ。

それなのにわたしは、わたしがしたいことで頭がいっぱいだったのだ。


「あの、すみません。」

「はぁい。」


ある家で見かけた女性が、ようやく言葉を返してくれた。だからわたしは、村人に言い続けた言葉をその女性にも言った。


「すみません、──という村をご存じでは──」


 その時、やっと気が付いた。その女性はわたしを見るなり顔から笑みを失い、その肌は見る見るうちに血色が悪くなった。そして――


「あ、ああ……あああ!だ、だれか、だれかきておくれ!!」


 最初は分からなかった。

なぜこの女性は腰を抜かしているのだろうか。

何故怯えた顔で、わたしの顔を見ているのだろうか。

でも、それはすぐに分かった。

鏡に映った、自分を見て。

 そこにあったのは、およそ人とは言えないモノだった。

髪が、顔が、体が、透けていた。映っていたのはぼんやりとした「私」の輪郭だけで、まるで湖を覗き込んだときに見える湖底のように、背後の景色が揺らいでいた。

そこには、人間はいなかったのだ。



「お、お化けだ。幽霊が出たよ!」




「そっちへ行ったぞ!!」

「捕まえろ!あんな化け物がうろちょろしてたんじゃおちおち寝られねぇ。」

「探し出してあの酒屋の元へ連れて行こう!あの家の者ならば悪霊を退治する術を知っている!」


わたしは走った。

ただ、そのから逃げるために。


「追い詰めたぞ!」

「──!」


村人たちは手に鎌や鍬をもち、わたしににじり寄った。その瞳にあったのは恐怖だ。何か分からぬものに対する恐怖。その瞳が、わたしの体を突き刺してくる。

そして一人の男が一歩私に近づいた時だった。



“邪魔じゃ”



全身の毛がよだつような冷酷な声が響いた。空気は一瞬にして凍てつき、村人たちの顔に影が差す。


「う、うわぁああああ!」

「ば、化け狐じゃぁ。」


村人たちの頭上に現れたのは、家を踏みつぶせるほどの巨大な体をした銀狐だった。


「おぎ──」

“黙っておれ。行くぞ”


お銀はわたしを咥え、自らの背に放り投げた。


“どけ。人間ども!”




「ふん。ここまでこれば奴らも追っては来ぬ。ここは千恵の


 山の匂いがした。人の匂いなど一切ない、土と木々と獣の匂い。

その中心で、お銀は言った。


「……どうした、翡翠。はやく降りぬか。」

「うん……」

「……立てるか?」


わたしを覗きこむ彼女の瞳に、今にも泣き出しそうな一人の少女が映っていた。

その少女の姿に、わたしは耐えられなくなった。


「なぁ。お銀。わたしは、何がいけなかったのだろうか。」

「……」

「なにを、間違えたのだろうか。」

「……いや。お主は何も、間違えてはおらぬよ。ただ……人とは、ああいうものだというだけだ……」

「そんな──」


 わたしは絶望した。

 わたしが憧れたものは、わたしが夢見たものは、そんなものだったというのか。

あの人が見た世界は──あの人が出会った人たちは、あんなものだというのか……


「──いや。いいや!違う!

違う、はずだ!違う、はず、なんだ……

あの人が見た──わたしの憧れた人の営みは、あんなものでは──」

「翡翠……」

「なぜだ、お銀。なぜ、わたしは──わたしは!同じ人であるものからこのような仕打ちを受けねばならぬのだ!なぜ、わたしは……

このような、姿なのだ。」


お銀は言った。


「妾達は神霊。決して元には戻れぬ命の極地に至る者だ。決して、元の『生き物』とは同じではない。山に住まう生き物はそれを大して気には留めぬ。だが──」


銀狐の瞳が、再びわたしを映した。


「人間は違う。」

「――」

「人間は、自分たちと違う存在を忌み嫌い、恐れる。そして例えソレが関わりを持とうとしていなくとも、人間たちはソレを無条件で恐れ、迫害する。人間とは、弱く浅はかであさましく、愚かで自分勝手な生き物だ。

……故に、妾達神霊と人間は決して相容れぬ存在なのだ。」

「……」

「だが──」


お銀はまっすぐわたしを見つめた。


「だがお前がそれでも、人の営みに触れたいというのなら、人でいたいというのなら、その記憶を、想いを残せ。」

「記憶を……?」

「そうだ。我ら神霊は、記憶を失う。それは神霊によって個人差があるが、忘却などという甘いものではない。消失だ。」

「消失──」

「その記憶の全てを一切合切、忘れるのだ。大切な思い出も、自分のことも、忘れたかった過去も関係ない。裁定する枝葉のごとく、一切なんの脈絡もなく、己の記憶からその記憶は断ち切られる。

 もしもお前が人でありたいと願うなら、その願いを忘れるな。

逆に人でなくて良いと言うのであれば──その記憶を失うがいい。そちらの方が、楽だ。」

「そんなの──」


 お銀の言葉に、わたしは言った。

 決まっている。

 あの人の見た世界は、人の営みは、きっと、美しいものだったに違いない。

 わたしは、それに憧れたんだ。

 それだけが、あの人とわたしを唯一同じ方角へ向かせてくれるものなんだ。


それだけは──忘れたくは、ないんだ。



 故に、わたしは今筆をとった。己の思いも日々の暮らしも綴るために。

お銀は言った。生誕の日を忘れるなと。もしそれを忘れた時、わたしから記憶がなくなり始めた時だと言った。

 わたしの誕生日は、9月1日だ。

 本当の生誕の日は、捨て子であったために分からない。親方がわたしを拾った日、それがわたしの生誕の日となっている。

 この日を忘れた時、それはわたしが、わたしでなくなる時だ。





 神霊となってからこの体は忌々しくも年を取らない。だから、わたしは外に出ようとも思わない。時が経てば何か体に変化があるのかと思ったが、何も変化はなかった。

 こんなのでは、また同じことをされるだけだ。

 同じように、わたしの憧れた世界と違う現実を突きつけられるだけだ。

 そんなのは、いやだ。

 だから、わたしはあの日から50年、一度も外には出なかった。


だというのに、今度はその現実の方から、わざわざわたしの元へやってきた。



「術者……」

「さようでございます。私めは第43代目が天道家当主、天道つるぎと申します。」


 この水源京には、あらゆる生き物がやってくる。それは、人間も例外ではなかったらしい。

 とはいえ、このような異界にやってくる「人間」は普通ではない。私の元にやってきた人間は、術者と呼ばれる神霊の力を借り受けてなんらかの力を行使する、怪しげな者たちだった。


「此度は千恵殿のがいると聞いて挨拶に来た次第でありますれば、何卒、神霊の力をお借りしたく……」


 わたしは、水源京にやってくる術者の話しに耳を傾けなかった。

 彼らと話をしていると、自分がいかに“人間ではないか”を突き付けられる。

 ──やめてくれ。

 そんな話を聞けば、ますますこの足は重くなる。外の世界に、足を運ぶ気が失せる。

 それに──

 何だ、天道家って。



「何ダ、翡翠。お前、何かしたいことがあるのカ。ならば何故それをせヌ?」


神である雨音は、わたしに言った。


「雨はすべての地に一様に振るが、どれも同じではなイ。全て同じなど退屈ダ。たまには全身を地に打ち付けたいと、そう思う時もあル。気持ちいいゾ、台風とカ。なのに、100年もこの都に住むだけではつまらなくないカ?」


 いつしか、わたしは怖くなっていった。

 現実を見ることが嫌だっただけのわたしは、現実に触れることが恐ろしくなった。

 その一方で、情けのないことに憧れは募るばかりだった。

 100年経って、その想いは降り積もった埃のように私の心の中にたまり、わたしを苛立たせる。

 わたしは、あの時諦めたはずだ。

 人柱になると決めた時に、人間としての生を失うと決意した日に、もうその憧れには手が届かないと、諦めたはずだ。


 なのに、なんで、人ならざる神霊という存在に成り果て、その諦めたはずのものに手を伸ばそうとしているのだ。

 なぜ、手が伸ばせる機会を、“神様”はわたしに与えてしまったのだ。



術者が訪れるようになってからだ。

気が付いたら、日付を書くことすら億劫になっていた。

この日記に向かうたびに、わたしの中で埃が舞う。わたしの神経を逆なでする。

もういい。もういい。

日記を書くのは、やめにしよう。




愚かだ。

愚かすぎる。

わたしは、何故今日もまた筆を手に取ったのか。

やめるといって、何故毎日書いているのだ。

もう、もういい。もう書きたくない。

なぜこの苦しみを毎日わたしは続けているのだ。

もう、わたしは人間ではないのだ。

こんなことをしても、人間には戻れないんだ。

人間の世界では、人間の生活には、触れることはできないんだ。



やっと、と言うべきなのだろうか。

それとも、とうとう、と言うべきなのだろうか。

その日が来てしまった。

わたしは、誕生日を忘れた。

思い出せない。どう頑張っても思い出せない。

いや、そうじゃない。そもそも、誕生日という言葉が指す時期が何なのか、その意味があいまいになってきている。

それを考えようとすると、まるで他人事のような感覚に襲われる。

そうだ、きっとこのままいけば、彼もお菊のことも忘れて、こんな苦しみからは──



いやだ。

いやだ。

いやだ。いやだ!

忘れたくない。

忘れたくなんかない!

彼との思い出を、お菊との思い出も、忘れたくない!

わたしの、わたしが、人間だったことの証を、忘れたくない!


わたしは、人間だったんだ。

だから──



着物の染方が曖昧になった。

人間であったころにしていたことを久々にやってみたが、わたしは染物の染方を忘れていた。唯一、浅葱色の染方だけは覚えていた。

彼が、褒めてくれたこの染方だけは。


けれど、染めてもこの着物には行き場がない。

都に住む者に与えたが、特に何も──


感じなかった。



日記に向かうのが怖い。

書こうとするたび、過去を思い返し、何かが消えていることを認識する。


いやだ。

忘れたくない。

それでも、何かを忘れている。

今日、わたしは、親方の顔を忘れた。

わたしを16になるまで育ててくれた親であった存在の顔を、忘れた。


明日は、何を、忘れるのだろうか。



今日、私は、名前を忘れた。

あの人──いや、彼?だったか……の名前だ。

友の名前だ。

絶対に忘れたくなかったということだけは覚えている。

けれど、その二人の名前を、わたしは忘れた。


ああ、「あの人」とは、一体、誰だったのだろうか。



いつからだったのか、私は姿が変わっていた。

髪の色は群青に染まり、その先は水に溶けている。黒かった眼は海のように濃い藍色となっていた。


「……前の姿は、なんだったけ……」



住人が減り始めたのは、神霊になって250年だったか、300年だったか、たぶんそんなもんだ。

水源京は収縮し始めた。

水が、雨が、せいだ。

よく考えたら、雨音が訪れる機会が減っていた。

この水源京も、終わりが近いのかもしれない。


そう、私の長すぎた生涯も、ようやく終わるのかもしれない。



いつからだったのか、お銀は山を離れ、どこか別の地へ行っていた。

相変わらずどういうカラクリかは分からないが、動けないはずの千恵がたまに顔を見せにやってくる。


「翡翠、汝は──外には出ないのか?」



千恵の問いに、私は答えた。


「何故だ?私はだ。もう、今更──



──何も望むことはない。




「やめろ!!!」


 視界が歪み、水墨画の映画はその声と共に消えた。代わりに、悲痛に顔を歪ませる翡翠が僕を見下ろしている。


「あ……いや、その、これは……。ごめんなさい!」


 僕は頭を下げた。

 人としてやってはいけないことを、した。

 人が見られたくないと感じるものを、僕はこじ開けてしまった。それに言い訳を挟むことはできない。

 けれど、彼女が300年もの間胸の内に秘めていたものを勝手に盗み見た罪は、そんなことでは許してもらえるはずがなかった。


「──出て行け。」


僕はその声に顔を上げる。

彼女は今にも泣きそうな顔で僕に言った。押し殺すように、そして、必死で願うように。


「──出て行け。もう、私の前に、現れるな。」




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