第31話
何年振りに蝉の声を聴いたのだろうか。
何度も浴びた照り付ける太陽の日差し。
嫌というほど嗅いだはずの山の土の匂い。
深緑の息吹が充満する空気。
それを、わたしは肺一杯に吸い込んだ。
聞こえるもの、見えるもの、肌に感じるものすべてが懐かしく、そして新鮮だった。
「これが、水源京の、外──」
わたしは池の中心に立っていた。深さは腰ほどしかないが、水源京は何本もの木々を取り込めるほどの大きな泉だった。この泉の下に10年近く住んだ都があるのかと思うと不思議だった。
「出られ──る。」
踏みつけた土の柔らかい感触。落ち葉が足の裏をちくちくとつつく。
わたしはその感触を楽しみながら、山を駆け降りた。
出られたことに、外の世界に触れたことに、高揚した。
年甲斐もなく、はしゃいだ。
そして、山の中腹から、わたしは村を見つけた。
ああ。
あそこに行けばわたしの知らない人に出会える。
あの人が体験したことと同じことができるのだと、そう高ぶった。
そう、本当に、情けないことに。
◇
わたしは見る物すべてに目を奪われた。
綺麗に整えられた小道。
小麦を引く水車。
青々とした田畑。
そして、乾いた木肌の家──
見ているだけで涙が出てきた。
やっと、自分の知る──そして知らない世界に、触れることができたのだと。そう思った。
「すみません、どなたか──という村をご存じではありませんか?」
わたしは、自身の村の名を口にした。だが、村の人々は皆顔を見合わせては踵をかえすばかりで、一言もなにも口にしなかった。
「すみません、どなたか──という村をご存じではありませんか?」
わたしは気づかなかった。
村に入ったときの周囲の視線に。
わたしが踏み入ったことで生まれた、その村の不穏な空気に。
わたしは、“私”が何であるかを、分かっていなかったのだ。
それなのにわたしは、わたしがしたいことで頭がいっぱいだったのだ。
「あの、すみません。」
「はぁい。」
ある家で見かけた女性が、ようやく言葉を返してくれた。だからわたしは、村人に言い続けた言葉をその女性にも言った。
「すみません、──という村をご存じでは──」
その時、やっと気が付いた。その女性はわたしを見るなり顔から笑みを失い、その肌は見る見るうちに血色が悪くなった。そして――
「あ、ああ……あああ!だ、だれか、だれかきておくれ!!」
最初は分からなかった。
なぜこの女性は腰を抜かしているのだろうか。
何故怯えた顔で、わたしの顔を見ているのだろうか。
でも、それはすぐに分かった。
鏡に映った、自分を見て。
そこにあったのは、およそ人とは言えないモノだった。
髪が、顔が、体が、透けていた。映っていたのはぼんやりとした「私」の輪郭だけで、まるで湖を覗き込んだときに見える湖底のように、背後の景色が揺らいでいた。
そこには、人間はいなかったのだ。
「お、お化けだ。幽霊が出たよ!」
◇
「そっちへ行ったぞ!!」
「捕まえろ!あんな化け物がうろちょろしてたんじゃおちおち寝られねぇ。」
「探し出してあの酒屋の元へ連れて行こう!あの家の者ならば悪霊を退治する術を知っている!」
わたしは走った。
ただ、その
「追い詰めたぞ!」
「──!」
村人たちは手に鎌や鍬をもち、わたしににじり寄った。その瞳にあったのは恐怖だ。何か分からぬものに対する恐怖。その瞳が、わたしの体を突き刺してくる。
そして一人の男が一歩私に近づいた時だった。
“邪魔じゃ”
全身の毛がよだつような冷酷な声が響いた。空気は一瞬にして凍てつき、村人たちの顔に影が差す。
「う、うわぁああああ!」
「ば、化け狐じゃぁ。」
村人たちの頭上に現れたのは、家を踏みつぶせるほどの巨大な体をした銀狐だった。
「おぎ──」
“黙っておれ。行くぞ”
お銀はわたしを咥え、自らの背に放り投げた。
“どけ。人間ども!”
◇
「ふん。ここまでこれば奴らも追っては来ぬ。ここは千恵の
山の匂いがした。人の匂いなど一切ない、土と木々と獣の匂い。
その中心で、お銀は言った。
「……どうした、翡翠。はやく降りぬか。」
「うん……」
「……立てるか?」
わたしを覗きこむ彼女の瞳に、今にも泣き出しそうな一人の少女が映っていた。
その少女の姿に、わたしは耐えられなくなった。
「なぁ。お銀。わたしは、何がいけなかったのだろうか。」
「……」
「なにを、間違えたのだろうか。」
「……いや。お主は何も、間違えてはおらぬよ。ただ……人とは、ああいうものだというだけだ……」
「そんな──」
わたしは絶望した。
わたしが憧れたものは、わたしが夢見たものは、そんなものだったというのか。
あの人が見た世界は──あの人が出会った人たちは、あんなものだというのか……
「──いや。いいや!違う!
違う、はずだ!違う、はず、なんだ……
あの人が見た──わたしの憧れた人の営みは、あんなものでは──」
「翡翠……」
「なぜだ、お銀。なぜ、わたしは──わたしは!同じ人であるものからこのような仕打ちを受けねばならぬのだ!なぜ、わたしは……
このような、姿なのだ。」
お銀は言った。
「妾達は神霊。決して元には戻れぬ命の極地に至る者だ。決して、元の『生き物』とは同じではない。山に住まう生き物はそれを大して気には留めぬ。だが──」
銀狐の瞳が、再びわたしを映した。
「人間は違う。」
「――」
「人間は、自分たちと違う存在を忌み嫌い、恐れる。そして例えソレが関わりを持とうとしていなくとも、人間たちはソレを無条件で恐れ、迫害する。人間とは、弱く浅はかであさましく、愚かで自分勝手な生き物だ。
……故に、妾達神霊と人間は決して相容れぬ存在なのだ。」
「……」
「だが──」
お銀はまっすぐわたしを見つめた。
「だがお前がそれでも、人の営みに触れたいというのなら、人でいたいというのなら、その記憶を、想いを残せ。」
「記憶を……?」
「そうだ。我ら神霊は、記憶を失う。それは神霊によって個人差があるが、忘却などという甘いものではない。消失だ。」
「消失──」
「その記憶の全てを一切合切、忘れるのだ。大切な思い出も、自分のことも、忘れたかった過去も関係ない。裁定する枝葉のごとく、一切なんの脈絡もなく、己の記憶からその記憶は断ち切られる。
もしもお前が人でありたいと願うなら、その願いを忘れるな。
逆に人でなくて良いと言うのであれば──その記憶を失うがいい。そちらの方が、楽だ。」
「そんなの──」
お銀の言葉に、わたしは言った。
決まっている。
あの人の見た世界は、人の営みは、きっと、美しいものだったに違いない。
わたしは、それに憧れたんだ。
それだけが、あの人とわたしを唯一同じ方角へ向かせてくれるものなんだ。
それだけは──忘れたくは、ないんだ。
◇
故に、わたしは今筆をとった。己の思いも日々の暮らしも綴るために。
お銀は言った。生誕の日を忘れるなと。もしそれを忘れた時、わたしから記憶がなくなり始めた時だと言った。
わたしの誕生日は、9月1日だ。
本当の生誕の日は、捨て子であったために分からない。親方がわたしを拾った日、それがわたしの生誕の日となっている。
この日を忘れた時、それはわたしが、わたしでなくなる時だ。
◇
◇
神霊となってからこの体は忌々しくも年を取らない。だから、わたしは外に出ようとも思わない。時が経てば何か体に変化があるのかと思ったが、何も変化はなかった。
こんなのでは、また同じことをされるだけだ。
同じように、わたしの憧れた世界と違う現実を突きつけられるだけだ。
そんなのは、いやだ。
だから、わたしはあの日から50年、一度も外には出なかった。
だというのに、今度はその現実の方から、わざわざわたしの元へやってきた。
◇
「術者……」
「さようでございます。私めは第43代目が天道家当主、天道
この水源京には、あらゆる生き物がやってくる。それは、人間も例外ではなかったらしい。
とはいえ、このような異界にやってくる「人間」は普通ではない。私の元にやってきた人間は、術者と呼ばれる神霊の力を借り受けてなんらかの力を行使する、怪しげな者たちだった。
「此度は千恵殿の
わたしは、水源京にやってくる術者の話しに耳を傾けなかった。
彼らと話をしていると、自分がいかに“人間ではないか”を突き付けられる。
──やめてくれ。
そんな話を聞けば、ますますこの足は重くなる。外の世界に、足を運ぶ気が失せる。
それに──
何だ、天道家って。
◇
「何ダ、翡翠。お前、何かしたいことがあるのカ。ならば何故それをせヌ?」
神である雨音は、わたしに言った。
「雨はすべての地に一様に振るが、どれも同じではなイ。全て同じなど退屈ダ。たまには全身を地に打ち付けたいと、そう思う時もあル。気持ちいいゾ、台風とカ。なのに、100年もこの都に住むだけではつまらなくないカ?」
いつしか、わたしは怖くなっていった。
現実を見ることが嫌だっただけのわたしは、現実に触れることが恐ろしくなった。
その一方で、情けのないことに憧れは募るばかりだった。
100年経って、その想いは降り積もった埃のように私の心の中にたまり、わたしを苛立たせる。
わたしは、あの時諦めたはずだ。
人柱になると決めた時に、人間としての生を失うと決意した日に、もうその憧れには手が届かないと、諦めたはずだ。
なのに、なんで、人ならざる神霊という存在に成り果て、その諦めたはずのものに手を伸ばそうとしているのだ。
なぜ、手が伸ばせる機会を、“神様”はわたしに与えてしまったのだ。
◇
術者が訪れるようになってからだ。
気が付いたら、日付を書くことすら億劫になっていた。
この日記に向かうたびに、わたしの中で埃が舞う。わたしの神経を逆なでする。
もういい。もういい。
日記を書くのは、やめにしよう。
◇
◇
愚かだ。
愚かすぎる。
わたしは、何故今日もまた筆を手に取ったのか。
やめるといって、何故毎日書いているのだ。
もう、もういい。もう書きたくない。
なぜこの苦しみを毎日わたしは続けているのだ。
もう、わたしは人間ではないのだ。
こんなことをしても、人間には戻れないんだ。
人間の世界では、人間の生活には、触れることはできないんだ。
◇
やっと、と言うべきなのだろうか。
それとも、とうとう、と言うべきなのだろうか。
その日が来てしまった。
わたしは、誕生日を忘れた。
思い出せない。どう頑張っても思い出せない。
いや、そうじゃない。そもそも、誕生日という言葉が指す時期が何なのか、その意味があいまいになってきている。
それを考えようとすると、まるで他人事のような感覚に襲われる。
そうだ、きっとこのままいけば、彼もお菊のことも忘れて、こんな苦しみからは──
いやだ。
いやだ。
いやだ。いやだ!
忘れたくない。
忘れたくなんかない!
彼との思い出を、お菊との思い出も、忘れたくない!
わたしの、わたしが、人間だったことの証を、忘れたくない!
わたしは、人間だったんだ。
だから──
◇
着物の染方が曖昧になった。
人間であったころにしていたことを久々にやってみたが、わたしは染物の染方を忘れていた。唯一、浅葱色の染方だけは覚えていた。
彼が、褒めてくれたこの染方だけは。
けれど、染めてもこの着物には行き場がない。
都に住む者に与えたが、特に何も──
感じなかった。
◇
日記に向かうのが怖い。
書こうとするたび、過去を思い返し、何かが消えていることを認識する。
いやだ。
忘れたくない。
それでも、何かを忘れている。
今日、わたしは、親方の顔を忘れた。
わたしを16になるまで育ててくれた親であった存在の顔を、忘れた。
明日は、何を、忘れるのだろうか。
◇
今日、私は、名前を忘れた。
あの人──いや、彼?だったか……の名前だ。
友の名前だ。
絶対に忘れたくなかったということだけは覚えている。
けれど、その二人の名前を、わたしは忘れた。
ああ、「あの人」とは、一体、誰だったのだろうか。
◇
いつからだったのか、私は姿が変わっていた。
髪の色は群青に染まり、その先は水に溶けている。黒かった眼は海のように濃い藍色となっていた。
「……前の姿は、なんだったけ……」
◇
住人が減り始めたのは、神霊になって250年だったか、300年だったか、たぶんそんなもんだ。
水源京は収縮し始めた。
水が、雨が、
よく考えたら、雨音が訪れる機会が減っていた。
この水源京も、終わりが近いのかもしれない。
そう、私の長すぎた生涯も、ようやく終わるのかもしれない。
◇
いつからだったのか、お銀は山を離れ、どこか別の地へ行っていた。
相変わらずどういうカラクリかは分からないが、動けないはずの千恵がたまに顔を見せにやってくる。
「翡翠、汝は──外には出ないのか?」
千恵の問いに、私は答えた。
「何故だ?私は
──何も望むことはない。
◆
「やめろ!!!」
視界が歪み、水墨画の映画はその声と共に消えた。代わりに、悲痛に顔を歪ませる翡翠が僕を見下ろしている。
「あ……いや、その、これは……。ごめんなさい!」
僕は頭を下げた。
人としてやってはいけないことを、した。
人が見られたくないと感じるものを、僕はこじ開けてしまった。それに言い訳を挟むことはできない。
けれど、彼女が300年もの間胸の内に秘めていたものを勝手に盗み見た罪は、そんなことでは許してもらえるはずがなかった。
「──出て行け。」
僕はその声に顔を上げる。
彼女は今にも泣きそうな顔で僕に言った。押し殺すように、そして、必死で願うように。
「──出て行け。もう、私の前に、現れるな。」
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