第24話


「うおおおおっ!速い!速いっつーの、碧!」

「だって待てない!早く、早く翡翠の下に行きたいんだ。」


 僕はハクを抱きかかえて、森の中を鹿のように駆け上がる。


「それは分かったから下ろしてくれ!さっきから枝や葉っぱが顔に当たっていてーんだよ!」

「大丈夫!もう少しの辛抱だから!」

「鬼か!そんなに急がなくても、水源京は逃げたりなんかしないぞ!?」


 身体が軽い。

まるで背中に翼が生えたような気分だ。

踏み出す一歩は軽やかで、今なら空だって駆け上がることができそうだった。



「や、やっとついたか……」


 ハクはヘロヘロになりながら僕の腕から離れる。


「翡翠ー!」


僕は水たまりを覗きこみ、その奥にある水源京に向かって叫ぶ。


「話したいことがあるんだ!」


翡翠は答えない。なんの音も水底からは聞こえてこない。聞こえるのは森に響く蝉の合唱と鳥のさえずりだけだ。


「翡翠……」


 僕は自分の顔が写った水面を見て肩を落とした。


 ──それはそうか。よくよく考えたら分かることだ。“もっと人でいたかった”と思っている彼女に、僕は口で言わずとも態度で語ってしまった。“人間といても面白くはない”と。それは、他人の夢を否定する行為だ。人の願いを否定する行為だ。そんなことをされて「また会いたい」と、そう思う人は多くは無い。

 だが──


 水面に手を伸ばしたとき、僕は気が付いた。


まだ、『精』は応えている──


と。

 僕は翡翠に昨日のことを話したかった。涼と紅葉と出かけた、あの日のことを。彼等が教えてくれた、人間の面白さを。僕はそれを一刻も早く伝えたかった。そして僕が間違っていたと、そう、伝えなくてはならないと強く感じた。

 彼女が僕を水源京に受け入れてくれた理由は、はっきりとは分からない。けれど少なくとも、“僕が人間だったから”という要素はある。

 彼女は最期に触れたかったんだ。自分が出来なかった、“人の営み”に。けれど僕は、彼女に「僕に何を聞いても、人としての営みに触れることは無い」と、そう思わせてしまった。僕は彼女を、んだ!

 300年も抱き続けた思いを諦めさせていいなんて、誰が許すのだろう。彼女をあのまま死ぬまで水源京でいさせるなんて、誰が「良し」とするのだろう。いいや駄目だ。そんな悲しい物語があってたまるものか。

 だから、僕は迷うことはなかった。


「まぁ、あれだ、碧。一昨日は確かに翡翠を失望させたかもしれん。だが、あいつはお前を嫌っている訳じゃねぇ。だから、きっとあいつは、今はちょっと会うのが気まずいと──っておい。お前、何やってんだ。」


 僕が水たまりに足を踏み出しているのを見て、ハクが固まる。


「翡翠に会いに行くんだ。」

「まてまてまて!翡翠の迎えが無くて水源京に入ったらどうなるか、分かってんだろ!?」

「大丈夫だよ、ハク。」


僕は大きく息を吸い込む。


「翡翠は、来る。」


そういって、僕は水源京に飛び込んだ。




水面の波紋が、オレの目の前で大きくうねる。


「あのバカ。ほんとに自分勝手な……」


──ああ。だから心配なんだ。

お前は、銀灰とは違う。


あいつが翡翠に出会った時、あいつは大人だった。

あいつは優しくて愛情深くて、そしてどうしようもなく、んだ。


翡翠の心を理解して、彼女の意見を尊重してしまった。

自分の立場を理解して、自分がとるべき行動を判断してしまった。


それがあいつの良さでもある。

どんな存在とも、うまく付き合っていける。

そう……雨音あまねとでさえ、うまく付き合えてしまうほどに──

雨音が“そういう存在”だと、そう理解しているからだ。


──だから、絶対に翡翠を救うことは出来ないのだと、それを銀灰は理解してしまった。


けど、お前は違うんだ。碧。

銀灰と同じように優しくて愛情深いが、お前は──どこまでも素直なんだ。

どこまでもまっすぐで、自分の心に正直だ。

どうしようもなく、子ども、なんだ。


だから、翡翠の心を察しても、尊重しすぎることはない。

自分に何が出来るかもわからないくせに、自分がすべきだと思ったことを、迷わず行動する。


──だから、絶対に翡翠を助けることはできないのだと、それを知ってなお、お前は助けようとしてしまう。


それが、心配なんだ。

お前は、あいつを


……そうだよ。

お前の言う通りだ。水源京から翡翠を遠ざければ、あいつと『流水の神』との同化は防ぐことが出来る。けど。けれど──


あいつは、300年水源京に居たんだ。

その分の同化を防ごうとしたら、300んだ。

でも、それは無理だ。

 だって、水源京はあと1年しかたない。1年では、どうあがいても同化は解けないんだ。

 たとえ外で過ごそうとも、1年後にはあいつは水源京とともに蒸発してしまうんだ。



それを防ごうというのなら──



オレは歯を食いしばる。



「……ああ、もう、また一人で突っ走りやがった!」






「お前は!何をやっているんだ!」


 水源京に飛び込んだ僕は、一秒たりとも苦しむことはなかった。

 水の中に居たのなんて、一瞬だった。

 水中に浮かぶ大きな泡の中で、僕は翡翠を見上げていた。翡翠は声を荒げ、僕を睨み付ける。


「あの薬はもうないんだ。水源京に飛び込めばどうなるかくらいわかっているだろう!」

「……うん。」

「ならば何故──!」

「翡翠は、絶対来てくれると思ったから。」

「っ──」


 翡翠は胸の内から湧き上がるものを噛み殺した。悲痛にゆがむその顔を右手で抑え、彼女は言った。


「──話とは、なんだ。」

「翡翠。まず僕は、君に謝らなくちゃいけないことがある。」

「謝罪だと?」


 翡翠は眉を顰める。

 そうだ。僕は、間違えていたんだ。それを、謝らなくてはいけない。けれど、言葉は慎重に選ばなくてはいけない。


「僕は……一昨日、翡翠の質問に答えてあげられなかった。」

「──」


翡翠は息をのむ。彼女は僕から視線を逸らし、一歩退く。


「僕はさ、知らなかったんだ。」

「何を……だ。」


探る様な言葉に、僕は彼女の瞳をまっすぐ見て答えた。


「……人の世界が、どんなに面白いのかを。」

「──」

「でも昨日、それを教えてくれた人がいたんだ。人間の世界がどれだけ面白くて、どれだけ楽しいことなのか……。

 僕は今まで、“面白さ”を気付こうとしてこなかったんだ。“面白くない”と勝手に決めつけていたんだ。でも、それを気づかせてくれた人がいた。だから今やっと、君の質問に答えることが出来る。」


僕は大きく息を吸った。


の世界の暮らしは、楽しいよ。」

「──」


 翡翠の瞳は揺らいでいた。水面に映る光のように、その藍色の瞳は潤んでいた。


「……そう、か……」

「うん。だから──」


僕は泡の上で立ち上がり、翡翠に向かい合う。


「翡翠には、。」

「──!」


 翡翠は目を見開き、僕をみる。僕はまっすぐ、その瞳に語り掛けた。決してその視線だけは外してはいけないと、強く語りかけた。


「僕は、翡翠にも触れてほしいんだ。人の営みがどれだけ面白くて、楽しいのか。」

「お前……もう、のか……」


その蚊の鳴くような細い言葉には、僕は答えなかった。その代わりに、僕は微笑みを返した。


「だから、聞いてほしんだ。僕が昨日体験したことを。」

「……」

「ハクも、聞いてくれる?」

「うげっ!お前、いつからオレがいることを気づいてたんだよ……」


 僕は自分の背後で泳ぐハクを振り返る。


「割と最初から。」

「かー!オレ一人まぁた置いていったくせしやがって。」

「ごめんごめん。」

「まったく……」


ハクはそういうと泡の中に顔を突っ込む。


「なぁ、翡翠。」

「……なんだ、ハク。」

「こいつの話、聞いてやってくれないか。」

「……」

「こいつさ、お前にあの日答えられなかったことが相当堪えたらしくてな。このままじゃお前に嫌われたままになるんじゃねーかとずっと心配だったんだよ。」

「そんなこと私には関係が……」

「──それに、お前にとっても“人間の世界の話”は、悪くはないだろ?」

「……」


なおも俯く翡翠に、ハクはおちゃらけた態度で場を濁す。


「まー、それにうるせーんだわ、コイツが。やれ映画は楽しかっただの、遊園地のジェットコースターは怖かっただの、昨日帰ってきてからそればっか!もう耳にタコが出来ちまってらぁ。だからよ、オレの代わりに聞いてやってくれないか?」

「ちょっとハク。そんなに僕しゃべってないよ?」

「いや、もうずっとだろーが。飯食ってる時も、風呂入ってる時も、布団に横になったときだって、だ。睡眠不足で仕方がねぇ。なのにこの山を全力疾走しやがって……見ろ!オレの鱗があっちこっち禿げちまったじゃねーかよ!」

「ああ、えと……それはごめん……」


 翡翠はずっと黙っていた。その視線は僕らの足元の遥か下、彼女が住まう水源京の中心部に向けられていた。けれど僕とハクの会話が終わった頃、彼女は顔を上げて言った。見ないようにと、瞼を閉じて。


「なんて……自分勝手なやつらなんだ……」


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