第21話



 雨が降っている。

僕とハクは、雨の降る森の中を傘もささずに歩いていた。雨に濡れた足が重い。一歩を踏み出すのに、いつもの倍の時間がかかる。


「ねぇ、ハク……」

「……」


ハクは無言で振り向く。


「僕は、どう答えればよかったんだろう。」

「……」


僕は彼の瞳を見て、その視線を逸らした。ハクの赤い視線が、僕を突き刺している。


「翡翠、すっごく、その……失望──していた。」

「……」


 あの後、僕は何も答えられずに固まってしまっていた。そしてその様子は、彼女に僕の本心を伝えてしまっていた。

 彼女は僕が「人間といても面白くない」と感じていることに気が付くと、小さく口を開いた。そしてその顔は暗く、最初に出会った頃のような、ひどく冷たいものになった。そして彼女は、全てを諦めたかのような、覇気のない声で言ったんだ。


そう、なのか


と。

 僕は地面に向かってなおも尋ねた。


「翡翠は、神霊には、成りたくなかったのかな。」

「……」

「僕はずっと、翡翠がただあの水源京で、一人でいることが寂しいのだと、そう思っていたんだ。」

「……」

「確かに、それはあるのかもしれない。けれど、翡翠は……人柱として川に落ちて神霊になった翡翠は──」


僕は口を堅く閉ざした相棒に言う。


「もっと、“人でいたかった”……そういうことなの?」

「……」

「でも、そうだとしたら、僕は、どうすればいいんだ。」


ハクは答えない。


「だって、僕は──」

「人間といても、“面白くない”のだろウ?」


 空から、ひどく冷たく、ひょうのようにひどく重く痛い言葉が降り注いだ。


雨音あまねか……」

「久しぶりだナ、ハク。2週間ぶりだったか?」


 雨音は雨と共にゆっくりと空から僕らの前に舞い降りる。日傘をくるくると回すそのゴスロリ少女は、口元に邪気な笑みを浮かべていた。


「……何の用だよ。」


雨音は、ハクが自分を睨んでいることに気が付くと、すこしムッとした表情を浮かべる。けれど、その表情は小学生の演劇のように陳腐な芝居じみていた。


「嫌だナ。久しぶりの再会ではないカ。はうれしいぞ。」

「オレはそんなにうれしくない。」

「冷たいやつだナ。碧はアタシ・・・に会えてうれしいだろウ?」


雨音は僕の前に立って顔を覗き込んでくる。まん丸の小さな空色の瞳孔が、僕を吸い込もうとしているようだった。


「……」

「なんだなんダ。何故そんなに暗い顔をしているのだ、オマエたチ。」


雨音は僕の顔を見ると不服そうに頬を膨らませる。


「今はいろいろあるんだよ。放っておいてくれないか。」

「なんだ、それハ。アタシは哀しいゾ。あ、そうダ。1ついい話をしてやろウ。元気が出ル。」

「……お前の話は、いいも悪いもないだろう。」


ハクの言葉を無視し、雨音は雨の中を踊りながら言った。


「実はな、近々、なのダ。」

「……それの、どこが元気が出る話だって言うんだよ……」


 雨音は『雨の神』だ。彼女は『雨』そのもの。雨が上がれば消えてしまう、現象から生まれた『生き物』だ。故に僕たち人間が梅雨や夕立と雨に名前を付けているように、雨音は“雨の数だけ存在する“。そして、僕らの前に現れている今の雨音は、以前千恵のいる場所で出会った雨音と同一人物でもあり、そうでないともいえる。今ここにいる雨音は、数多くいる『夕立の雨音』の1人だろう。そう、彼らは「個」であり「群」でもある『生き物』なのだ。


「おや?いい話だと思ったのだガ??」

「!それはちが──」


 僕は雨音に反論しようとしたけれど、それはハクに止められた。


「……ふん。そうだとするなら、オレやお前の話は“いい話”ではないな。何故なら、オレ達は消えゆく命だからだ。誕生した後は、だからな。命ってのは。」

「ム。確かに、そう言われるとそうであるカ。よし、さっきの話は無しダ。アタシはオマエたちを含む命あるモノたちの話が好きダ。」

「……それでいい。で、増えるって今度は“何の”雨音が増えるんだ。」

「ウム。名前はもう考えてあル。そう、“ゲリラちゃん”だ。」

「だっさ……」

「そうカ?割とイケていると思うのだガ?“ゲリラの雨音”うむ。何かこう、雨を降らせたくてうずうずする名前ではないカ?」

「……だっさ。」

「ムウ。」


 ふてくされた雨音は僕の前に立ち、首を傾げるようなそぶりを見せて尋ねてきた。


「デ、碧。オマエは何を悩んでいるのだったカ?」

「それは……」


 僕は雨音から視線を外す。

 “人間といることが楽しくない”と感じている僕が、“もっと人間でいたかった”と感じている翡翠に、どの面さげて“人の暮らしが楽しい”などと言えたのだろうか。

 “もっと人間でいたかった”と願う彼女を、この僕が、この先どうやって水源京から“救う”というのだろうか。

 翡翠は──“人として生きている”僕を通して、“人の営み”に触れたかったのかもしれない。あるいは、もしかすると、期待していたのかもしれない。

 けれど、僕は“人間といても面白くない”と感じている。だから、彼女は諦めてしまったんだ。それ以上、僕に何を聞いても、人としての営みに触れることは無いのだと。決して、その意味で自分を“救う”存在ではないのだと。


「ああ、思い出しタ。翡翠の話ダ。大方、翡翠を失望させたことで悩んでいるんだろウ?」

「……」


 僕は唇を噛む。


「無駄だ無駄ダ。そんなこと、考えるだけ。」


雨音は踵を返し、僕らから離れていく。


「オマエは、人間と話をしていてもつまらないと思っていル。そんな奴が、人間の話を、どうしてできるのダ?」

「っ!」

「だから、翡翠が失望するのは。だって翡翠は翡翠であり、。ならば、それにどうこう悩んだところで、意味はないのではないカ?だって──」


雨音の雲のような虹彩が、僕を不気味に見つめる。


「オマエは、、楽しいのだロ?」

「──!」

「いい加減にしろ、雨音。」


 ハクが僕の前に立つ。


「お前たち『神』は“変化しない”。変化を、。だから、新しいお前が生まれるんだ。

 オレは、お前との付き合いも長い。お前が“そういう奴”っていうことは理解している。

 だがな、オレ達精霊や生物は、“変わる”んだよ。あの人間嫌いの銀狐が人間と夫婦めおとになったってことを理解できないお前が、オレの相棒が悩んでいることを、無駄などと抜かしてんじゃねぇ。」

「ハク……」


 ハクの背中は、強かった。

 雨音が言っていることは真実だ。“人間といてもつまらない”と感じている僕が、翡翠を失望させてしまったことは間違いないし、当然の帰結だ。僕がそういう人間なのは確かだし、そういう人間があれこれ悩むことは無駄に終わるのかもしれない。

 けれど彼は、それは無駄ではないと言った。思い悩むことを、無意味とは言わなかった。彼の背中は、“これから変わればいい”と、僕に語っていた。

 だが、雨音は首を傾げたままだった。


「何を言っていル?人間は変わらない生き物だろウ?幾星霜の月日を経ようとも、原始時代からその命の営みは変わらなイ。戦争と平穏を繰り返し、愛と憎悪を繰り返す、

 碧は人間ダ。変わらない生き物の1つダ。他の人間と違って『精』が見えるという点は特別だが、だろウ?」

「……知っているさ、お前にとって人間──いや、オレや千恵を含む『他の命』がくらい……」


ハクは大きく息を吸い込み、雨の音より強く言い放った。


「だがな、雨音。

 確かに碧は碧だが、お前の言う“碧”は、オレ達が思っている“碧”とはちげーんだよ!」

「ム?分からんゾ?やはりハク、千恵の傍にいたことで賢者になろうとしているのではないか?」

「そんなに難しいことじゃねーんだが……」


ため息をつくハクに、雨音は淡々と続けた。


「よくわからないが……まぁ、翡翠が変わらないということの方は同意見だろウ?あいつは神霊になってからの300年余り、。」

「……」

「それに、神霊になった生き物は元の生き物には戻れなイ。神霊は、命の営みの極地に至るモノ。『死』と同じダ。死者を生き返らせることが出来ないように、神霊から元の生き物に戻ることはできなイ。だから、彼女は変わらなイ。翡翠は人間には戻れなイ。」


 彼女はふわりと宙に浮く。


「今日はこの辺でお開きにしておこウ。夕立は短イ。また会おウ。……あ、そうそう、体、冷やすと風邪を引くゾ?風呂には入れ、碧。」

「……」


 雨音が消えると同時に、僕らを打ち付ける雨は止んだ。



けれど、僕の心の中は、ずっと雨が降っていた。




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