第20話


「はい!これが、僕がつくった天丼です!」


 僕はいつもより一回り大きい弁当箱を開けて中身を見せる。茄子、南瓜、獅子唐に大葉、そして海老ときすの天ぷらの盛り合わせだ。

 

「ほー。初めてつくったにしては、うまそうじゃねぇか。」


ハクは弁当箱の中身を見て舌なめずりをした。口元にうっすらと涎が垂れている。


「結構大変だった!油は飛び跳ねるし、温度管理は難しいし……鉄叔父さんに教えてもらえなかったら何もできなかったよ。」

「いやいや。これが最初なんだろ?だったら上出来だ。それに、あいつと比べるのはだめだ。鉄の野郎が出来るのは当然さ。なんせ料理が仕事だからな。」


ハクはそういって海老天を1つ咥える。


「おー、うまい!エビのうまみがしっかり閉じ込められている。そしてこのサクサク感がまーたたまんねぇな!」

「あ!ハク!これは翡翠が食べたいって言った料理なんだから、最初に食べるのは翡翠なんだぞ!」

「いや、私は別に後でよい。お前たちから食べるがいい……」


遠慮する翡翠に、僕は天ぷらをより分ける。


「はい。翡翠。口に合うかどうか分からないけれど……」

「いや、カレーよりかは合うに決まってんだろ。」


 翡翠は弁当箱の天ぷらをじっと見つめる。

 僕はまるで料理の審査をされている気分になった。彼女の瞳はその衣の1つ1つを丁寧にとらえ、その色合いを確かめるように、様々に角度を変えて太陽の光にかざしている。そして一通り天ぷらを観察し終えた彼女は、ゆっくりとエビの天ぷらに箸を伸ばす。そして、彼女はその黄色い羽衣を纏ったエビを、恐る恐る口に運んだのである。


 衣が割れる音が、静かな部屋に響く。

 口の中から響く濁音は、不思議と僕の手に汗を握らせる。彼女の口が1つまた1つと動くたびに、僕は生唾を飲み込んだ。


「どう……かな?」

「──」


 翡翠は最後のしっぽに至るまで海老天を食べ終えると、安心したように静かに言った。その声は湧き水のように清く優しく、そして大地に染みこむように、僕の心に響いた。


「ああ……うまい。」

「よかった~!」


 僕は力が抜けて後ろに倒れる。

 なんだかよくわからないけれど、ひどく緊張した。そもそも家族以外の誰かにご飯をつくる、なんて僕はしたことがない。だから、誰かがご飯を食べているということに緊張していたのかもしれない。でもそれが翡翠となると、もっと胸がざわついた。彼女を失望させるようなことはしたくない。絶対に失敗したくないと、そう、思っていた。


「さて、じゃあ僕も食べよっと。」


 僕は自分のつくった天ぷらに箸を伸ばす。エビの身は弾力をそのまま残し、齧ると気持ちのいい音が鳴る。茄子は染みこませた下味が、口の中で衣と合わさって穏やかに蕩けていく。獅子唐はアクセントにちょうどいい。弾ける辛みは、適度に唾液の分泌を促した。


「あ、そうだ翡翠。この岩塩に抹茶を振りかけた抹茶塩っていうのもあるんだ。これも使って見て。あ、つゆはそっちにあるからね。」

「うむ……」


 岩塩はキメが粗い。本当は細かく砕いたサラサラの塩の方が、天ぷらの衣に振りかけるにはいい。だけれど、この山脈で取れた岩塩は味が薄く、口の中で塩味を感じるには粗引きの方がちょうどいい。何より岩塩そのものの珊瑚色と抹茶の緑が織りなす色彩を楽しむには、大きい方がいいと鉄叔父さんは言っていた。

 僕らが天ぷらを食べていると、不意に、翡翠がつぶやいた。


「……ああ。なるほど。これが、“てんふら”か──どおりで、がこれを好きになるわけだ……」


 彼女は天ぷらを懐かしそうに見ていた。一度も食べたことのないはずの天ぷらを、どうしてそんなふうに眺めるのか、僕には分からなかった。彼女が言う「あの人」が誰かもわからない。けれど、きっとその人は彼女にとって大切な人だったのだろうと、それだけは、彼女の泣きそうな瞳から伝わってきた。





「あー、食った食った!うまかったぜ、碧。」

「うむ。これは美味だった。あの“かれぇ”とかいうものより、私はこちらの方が好みだ。」

「ありがとう、二人とも。」


 僕は二人の賛美を聞いて少し恥ずかしくなった。家の料理なんてほとんど初歩的なことしかしてこなかったから、あまり自信なんてなかった。けれど、こんなにもおいしいと言ってもらえるなら、家の料理ももっと自分で作ってみようかと、そういう気持ちになる。


「じゃぁ、明日は何がいい?」

「おー、オレはそうだな。やっぱり肉、だな。」

「お肉かぁ。翡翠は何がいい?」


 話を振られた翡翠は首をゆっくりと横に振る。


「いや、私は今日ので十分だ。次は、お前が食べたいものを作ればいい。」

「ええ?遠慮しなくていいよ。それにもっと翡翠の好きなモノ知りたいしさ!」

「……そう、か。」


 翡翠は苦笑した。その笑みには、まだ悲しみが滲んでいた。けれど、ほんの少しだけ、それこそ天ぷらに付ける一つまみの塩ほどの、「楽しいと思っている」──そういう感情があるような気がした。

 そして数秒の間の後、この1週間で初めてのことが起きた。


「なぁ、碧よ。1つ、いいか。」

「──え?」


翡翠が自分から会話を振るのは、初めてだった。だから僕はやっと友達として一歩近づけたのだと思って、うれしくて舞い上がっていた。


「いいよ!なになに?!」

「あ、いや、たいしたことではない……忘れてくれ。」

「遠慮しなくていいよ。何?聞きたいことって。」

「……」


彼女はばつが悪そうに僕らから顔を逸らし、小さく言った。


「いや、その……お前は、私のことを知りたがっているようだが、それでは不公平というものだろう?だから……」

「うん?」

「だから、その……お前の話を、聴かせてはくれないか?」

「──!」


僕はハクと顔を見合わせた。ハクも驚いていたようで、目を見開き、そして口元に笑みを浮かべた。


「ああ!もちろん!」


 それから、僕は意気揚々と翡翠に話をした。

 昔は都会に住んでいたこと、そしてこの山に引っ越し、ハクや千恵と出会ったこと。山の暮らしや修行の日々。聞いたこともないような不思議な体験など、語れるものを全て語った。

 彼女はずっと僕の話に耳を傾け、まっすぐ僕を見ていた。そうして僕の声が枯れ始めたころ、彼女は言った。


「そうか、では千恵との出会いはその“ちゅうがく”という寺子屋に入ってからだったのだな。」

「うん。すっごく綺麗な人だなぁって、そう思ったのをよく覚えている。」

「で、初恋の相手が千恵だったと。」

「ばっ!ハク、言わないでよ、それ!」

「ほう……そう、なのか。」


翡翠が不思議な目で僕を見る。その藍色の瞳を見て、僕は顔を赤らめた。


「いや、まぁ、そうだけど……けど、結局、僕は告白も何もしなかったよ。」

「何故だ?」

「何故って……うーん、千恵は僕をそういう相手としては見ていなかったし、それに、なんだか雲の上にいるような人だから。」

「まぁ、人間でもないが。」

「いや、そうなのだけど……なんて言ったらいいんだろう。」


 高嶺の花、とは全然違う。彼女はもっと別次元の存在だった。手が届かないのではなく、手がとどいてはいけない存在だと、いつからか思うようになっていた。それは崇めるとか、そういう存在ではなくて──彼女の持つ“何か“に、僕は怖気付いていた。それに触れることは、身の危険を顧みないことだと、なぜかそんな感覚があった。

 だからその想いは次第に薄れ、友達という形に落ち着いたんだ。けど、それは彼女が神霊だからとか、別の生き物だからとか、そういうことでもないと、僕は思っていた。彼女の命そのものが、何か次元が違うと、そう感じていたのかもしれない。

 そんなことを考えていると、再び翡翠が口を動かした。


「碧よ、今の話を聞いていてふと、気になったのだが……」

「ん?なに?」


彼女は一瞬目を逸らし、再び僕を見る。僕の顔色をうかがうような、何かを案じているかのような、いつもとは違う視線だった。


「その……今、外の世界は、どうなっているのだ?」

「外?」

「ああ。碧、お前は人間であろう?」

「そう、だけど?」

「なら……人の世界は、今どうなっているのだ?」

「人の世界?年代とか、世界情勢ってこと?」


僕は首をひねる。けれど、翡翠は首を横に振った。


「今が昭和と呼ばれる時代であることは、知っている。天下を誰がとっているとか、そういったものには興味はない。そうではなくて……」


彼女は小さく肩を竦めた。


「人の暮らしは……楽しい、か?」


 僕は、鳥肌が立つのを感じた。


「先ほどの話では、お前は千恵やハク、雨音の話がほとんどだったが……その、“ちゅうがく”なる寺子屋は、どう、なのだ?」

「……」

「その都会での暮らしは、どうであったのだ?

お前がつくってきた“かれぇ”なるもののような、世にも珍しい食べ物があふれている世界なのか?

……その、私は──お前がどんな世界で生き、どんな暮らしをしているのか、それが……気になっただけだ。」

「……」


僕はチラリとハクを見る。ハクは瞼を閉じ、蜷局の中に顔をうずめている。


みどりよ。」

「な、なに?」

「お前は人の世界で暮らしていて、楽しいか?」

「そ、それは──」


 僕は、答えることが出来なかった。

 確かに、楽しくないわけではない。けれど、そこまで“面白い”とは感じていなかった。だから、「翡翠や千恵、ハクといる方が楽しい」と答えそうになって、慌てて口をつぐんだ。


 彼女の瞳は、揺らいでいた。

 その声は、郷愁に浸っていた。

 その表情は、ひどく悲しげだった。


 僕は、やっと気づいたんだ。

彼女は、ただ「寂しい」と、そう思っていただけじゃない。


人柱として生贄となった彼女は──

彼女は──


ただもっと、人間として、生きていたかったのだ。




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