第17話
夏の空で染めたような群青の髪が、風に揺られてなびいている。緑豊かな森に紫の着物が色鮮やかに映え、水面に素足で立つその姿は、まるで一輪の桔梗の花のようだった。
「外に──出れたのか……」
僕の隣で、ハクが目を丸くしてつぶやく。その言葉の意味を僕は知らないし、きっとそれは彼女を助けるための方法に直結すると、そう感じた。だからその意味を本来ならハクに聞くべきだったのかもしれない。
けれど、それ以上に、僕の注意を奪う存在があった。
僕は、あることに気が付いてしまった。彼女は
けれど今日の翡翠は、何かが違う。確かに神霊としての厳かさはあるのだけれど、それ以上に、“別の何か”が見えている、そんな気がした。
「ひす──」
「話をしに来たんじゃない。」
ぴしゃりと、翡翠は水を打った。
「ただ……文句を言いに来ただけだ。」
「文句?」
ハクが怪訝な顔をすると、翡翠は目を細め、腕を抱く。
「お前たちだろう。私の家に、毎日毎日ガラスの筒を送り込んでくるのは。」
「それは……」
「息苦しいんだ。」
「──?」
翡翠は僕たちの足元を見ながら言う。
「
「……」
「……だいたい、なんだ、あの中身は。」
「──中身?」
「そうだ。」
彼女は僕を見る。その眼差しはきつく僕を睨み付けている。
けれど、僕には怒っているというよりも、歯を食いしばって何かに耐えているような目だと、そう思えた。
「……お前やハクの日常など、知ったことか。そんなもの知ってどうするんだ。それと、毎日山の様子を知らせる必要もない。水源京にいるだけでもある程度は分かる。それに、あの服はもともとお前のモノだ。私はそれを返しただけだ。……お前を治療したのも、家で死人が出るのは後味が悪いからだ。礼を言われる筋合いはない。」
「!」
彼女は僕たちにも聞こえるため息をついた。
「……だから、もう、私の家にあれを投げ入れるな。……後処理に、困るだけだ。」
彼女の後ろから、山の風が吹き抜ける。緑と土の匂いに混じって、清らかな水の匂いが僕の鼻を突いた。
僕は生唾を飲み込み、まっすぐ彼女の藍色の瞳を見る。
「──ごめんね。迷惑、だった?」
「……」
彼女は答えない。
「でも、ありがとう。」
「──何故だ?礼を言われる理由はない。」
「ううん。だって、『手紙』、読んでくれていたんでしょ?」
「────」
彼女は眉間の皺をさらに寄せる。
「……ガラスでない何かが、中に入っていたから、な。それで中を確かめようとしたら──目についただけだ。特に理由は無い。」
「それでも、読んでくれたことに変わりはないでしょ?」
「それは……」
「それにさ、翡翠さっきガラスを投げ入れるのは“不法投棄と同じだ”って言ったけれど──」
僕は確信をもって言う。
「一言も、『手紙』を『ゴミ』だって言わなかった。」
「──!」
彼女の目が、大きく見開いた。
「……たとえそうだとしても、もうあんなことをするな。」
「うん。分かった。」
僕は彼女に微笑み、続けていった。
「じゃあ、また明日来るね!」
「──は?」
翡翠は眉を顰め、意味が分からないと口を開けて僕を見る。
「よし、ハク。今度はお弁当をもってこよう。」
「うえ?え?あ、ああ?それは構わないが……」
ハクは僕と翡翠を交互に見ながら、状況を理解しようとしている。
「うーん。となると、具材は何がいいかな。」
「いや、おい。」
「やっぱり定番は唐揚げかな?鉄叔父さんに作り方を教えてもらわないと。」
「ちょっと待て。」
「あ、そうだ。ねぇ、翡翠は何が食べたい?」
「いや、まてと言っているだろう!」
翡翠は慌てて言葉を紡ぐ。
「お、お前、私が言ったことを分かっているのか?」
「え?うん。分かっているよ。」
「じゃあ、何故明日もくるんだ。」
「だって。」
僕は彼女の瞳をまっすぐ捉える。
「家に投げ入れるなって言ったから、じゃぁ、今度は直接話をしようと思って。」
「は?」
「だって、翡翠は『手紙』をごみとは思っていないし、翡翠は水源京に瓶を投げ入れるなとは言ったけれど、
「おま……!?自意識過剰も……!?」
彼女は目を泳がせる。何か言葉を紡ぎ出そうとしているようだけれど、うまくまとまりきらないのか、彼女は口を開けたり閉じたりするだけで、何も言えなかった。
僕には、確信があった。彼女が言った服や治療のお礼を僕が『手紙』にしたためたのは、最初の『手紙』だ。あの木の皮だ。瓶なんかよりもっと、受け取ってもらえない可能性が高かったものだ。それを、彼女は読んでくれていた。それに、彼女は“僕が来ること”を止めろとは言わなかった。本当に嫌なら、きっとそうはっきり言ったはずだ。そして何より、水源京の『精』は、僕の
「──だめ、かな?」
「いや、駄目という訳では──だ、だが、何故くるんだ?もう水源京に来る理由は無いだろう?」
翡翠は焦りを露わにする。
「理由?あるよ。だって、僕は翡翠と友達になりたいんだもの。」
「――」
翡翠は唇を結んだ。何かを悲しんでいるような、何かに耐えているような、そんな瞳を僕に向ける。
僕はさらに付け加える。
「後は、うーん、そうだなぁ。あ、ほら、翡翠言っていたじゃん。僕がハクに連れ去られた時──」
「おい。なんか人聞きの悪い単語が聞こえてきたんだが。」
「ハク、黙ってて。」
僕は話を続ける。
「“開門”以外の、僕の知らないことを教えてくれるって。あれ、まだ教えてもらってないよ。」
「……いや、確かにそうは言ったが、それはお前があそこにいたからであって、もうお前は、あそこに行く必要は……ないんだぞ。」
「そう?でも翡翠、その入り口にずっと立っているだけじゃあ窮屈そうだし……」
「……だからといって、お前、水源京に入ってその後どうする。もう薬は無いんだぞ。そもまま入ったところで、死んでしまうんだぞ。」
「うん。だから、申し訳ないんだけど、翡翠にあの泡をもう一度創ってほしいなって。」
「……」
その表情は、様々な想いが幾重にも積み重なっているように見えた。
悔恨と悲愴。嫌悪と哀愁。喜憂とも思えるような複雑で混沌としたその表情は、明らかに狼狽していることが見て取れた。
そして一羽の鳥が森から羽ばたくまでの間、その沈黙は続いた。
「じゃあよ、俺からもお願いするぜ、翡翠。」
一向に話が進まない状況に一石を投じたのはハクだった。
「ハク?」
「……なんだ、ハク。お前が私に願いなど──
翡翠はハクを疑いの目で眺めている。だがハクは気にする様子も見せず、わざとらしく首をすくめて見せる。
「まぁ、俺もそーなるとは思っていたがな。」
「では、何を願うと言うのだ。まさか貴様──」
「こいつの修行だよ。」
「は?」
「え?」
翡翠と僕は同時に素っ頓狂な声を出した。
「え?何?ハク。修行って何のこと?」
「は?お前忘れてんのかよ?千恵に言われたろ?もっと色んな世界を見て、もっと多くの『精』を見て来いって」
「え?そんなこと──」
「言われてない」そう言おうとして、僕ははっとした。ハクがものすごい剣幕で僕を睨み付けている。その赤い瞳は「その先を言ったら殺す」と言わんばかりの圧があった。
「あ、ああ~、そうか、そういう……うん、そうだったね。そうそう!」
「……なんだ、なんの話だ。」
「あー、えーとね。翡翠。僕さ、千恵の下で修業しているんだけどね。あ、いやその前に、僕が『精』が見えるって話はしたよね?」
「……ああ、」
僕は空を見ながら言葉を並び立てる。
「えーとさ、その、『精』を見る修行でっちょっと躓いて──ああ、修行って言うのは色んな生き物の『精』を見て、なんの『生き物』なのか言い当てられるかっていうものなんだけど、それでね。」
「それで、なんだ。」
「ああ、その、うまいこと当てられなくて。それでより様々な『精』をたくさん見るために、水源京に行って頭冷やして来いって怒らせちゃって。」
「……あの千恵が怒ることなどないと思うのだが。」
「いやぁ、それはそれは本当にスゴイ剣幕で。雷様でも落ちたんじゃないかってほどに。」
「そうそう。怒髪天を突くってやつだ。目は地獄の炎のように赤く染まり、口は耳まで割け、その怒号は天を割り、その歩みは大地を砕く──。そう、この世の終わりみたいな状況だったぞ、あれは。」
ちょっと盛り過ぎなんじゃないか、ハク。
僕はそうなっている千恵を思い浮かべて笑いそうになる。
「……そうか。そんなにも、か。」
「ああそうだ。」
信じた!?
「だが、今の私の水源京は、千恵のいる場所よりも格段に『精』が少ないのだが。」
「──」
「……」
沈黙。
「いや、ほら。多すぎるのもよくないって言うか。ね、ハク!」
「お、おうよ。ほれ、木を隠すなら森の中っていうだろ?」
「ハク、それ逆。」
「あっ。そう、違う違う。『精』が多すぎると見分けがつかねーんだよ、こいつは。」
「そうそう!だから、あえて水源京でって!だから、お願い!修行の手伝いを、してくれないかな!」
「……」
いや、こんな茶番でどうなるというのだろうか。僕は顔が赤くなっていくのを感じる。両手を合わせて頭を下げているから、こっちの表情は読まれていない。けれど、そんな表情を見るまでもなく、これが嘘だなんて小学生でもわかる。こんなんで、翡翠が水源京に入れてくれるわけがない。
「はぁ……」
翡翠は声に出すほど呆れたため息をついた。そして何もかもどうでもよくなったのか、それとも吹っ切れてしまったのか……どっちも同じか……彼女は、小さく言った。
「ああ……もう、勝手にしろ。」
「え──?」
僕は、顔を上げる。
「え?本当にいいの?水源京に、行っても?」
翡翠は顔を背け、ため息交じりに答える。
「……千恵に言われたのだろう。だったら、そうした方がよいのだろう。」
「──ありがとう!」
間違いなく、彼女は嘘だと気づいている(よね?)。けれど理由はどうあれ、彼女が僕を水源京に来ることを許してくれたのは、純粋にうれしかった。
「じゃあ、明日お昼にお弁当を持ってくるね!」
「……いや、いらん。」
「何が食べたい?やっぱり唐揚げ?あ、いや、それとも魚の煮つけかな?」
「だからいらないと──」
「うーん、やっぱり、両方かな!」
「……」
それ以上翡翠は何も言わなかった。ただ何とも言えない複雑な表情で、自分の足元に広がる世界をじっと見つめていた。
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