第16話
「……それで?友達になりたいから、とにかく会いに行こうと、そう思ったのか。」
僕は隣にいるハクの言葉にうなずく。
「うん。翡翠を助ける方法なんてすぐには思いつかないし、そもそも友達でもない人から突然『助けたい!』なんて言われても、困惑しちゃうんじゃないかなって思ったんだ。
……それにもし翡翠がこの水源京にいて『寂しい』と、そう感じているのであれば、僕がすぐにできることなんて
「なるほどな。それでこうやって突然押しかけてきたと。」
僕は苦笑する。
「……まぁ、ね。今思うと我ながらちょっとストーカーみたいなことしちゃっているなぁって思うけど、ちゃんと“ここに来る理由”だってあったんだよ?」
「ふぅん。なんだよ。」
「だって、ハク、荷物を全部水源京に置いたままこっちにもどってきちゃったでしょ?だから、荷物取りに来たついでにお話しして、仲良くなれないかなって……そう、思ったんだ。」
「なるほど。ま、確かに、うまい口実だな。あれだけ人と会うことを避けているあいつの世界に入るにゃ、それくらい強引に理由をつくらないと無理だろうからな。
……で?今の心境は?」
「……うん。だから、コレは困った……」
僕はハクとともに足元の水たまりを見る。その水たまりの脇に、ソレはあった。人一人は乗れるんじゃないかと思うほど大きくて綺麗な蓮の葉。その上に、この森に不釣り合いな新品同様の洋服が、綺麗に折りたたまれて置いてある。崖から落ちた時の僕の服は、丁寧にアイロンがけまでされて皺ひとつなかった。
「……こりゃ、来ること予想されていたな。」
ハクはその服を尾でつつき、鼻を近づけて臭いをかぐ。
「雨の匂いはしないな。やっぱ、今朝雨が上がった後に外に出したっぽいな。お前が来ることを見越して。」
「うーん。」
僕はしゃがみこんで自分の服をつつく。干したばかりの太陽の匂いと柔らかな生地の感触が、おかしなことに僕を不安にさせる。
このままでは、水源京にいく「建て前」が無くなってしまう。そのまま「ヤッホー」と言いながら水源京に行く手もあるけど、それは何か違うし、やってしまったら翡翠を怒らせそうだ。
それに、昨日夜僕が考えたことは、本当は違うんじゃないかって気がしてくる。翡翠は別に寂しいなんて思っていなくて、本当に僕が関わりに来ることを迷惑にしか思っていなかったのかもしれない。
──いや。
だったら、なんでいつも翡翠の顔は、あんなにも悲しげなんだ──
「どうしたものかなぁ。」
「そいや、碧。1つ聞いておきたいんだが……」
頬杖をつく僕に、ハクが半ばあきれたような口調で尋ねる。
「お前、そもそも水源京に入った後はどうするつもりだったんだよ。」
「え?」
「いや、え?じゃねぇよ。水源京の中は、『水』だぞ。あの時は薬で息ができるようになっていたみたいだが、今回は薬なんかないぞ。」
「あっ。」
「やっぱり、なんも考えてなかったのか……」
すっかり忘れていた。あの時、僕は翡翠にもらった丸薬で水の中でも呼吸ができるようになっていたんだ。アレが無ければ僕は溺れてしまう。しかも、あの丸薬が最後の一個だと翡翠は言っていた。となると、僕は水源京で息をする手段がない。
「ううん。じゃあ、やっぱり、翡翠に『泡』を用意してもらうしかないのか。」
そうなると、ヤッホーなどといってこの水たまりに飛び込むのはただの自殺行為でしかない。僕が水源京に行ってもいいと、彼女にそう言ってもらえなければ、僕は死んでしまう。
「……そういえばハク、ハクはどうしてあの水の中でも息が出来たの?」
「あん?そりゃぁ、オレは蛇だからな。少しの間であれば問題ないのさ。」
「そういうものなの?」
「ああ。……ん?なんだよ?」
「いや。別に。ただ、翡翠は元人間なのにどうしてできるのかなって。」
「……それは多分、『流水の神』に中てられて神霊になってしまったからだろうよ。あの神は水だからな。だから……翡翠は水と“同じ”になった。あいつにとって水は、別に呼吸を邪魔するものじゃない。体の一部と同じなんだ。」
「ふぅん。」
僕とハクはしばらくその小さな水たまりの前に腰を下ろしていた。太陽の光が燦々と降り注ぎ、小さな水たまりを鏡のように輝かせる。水面に映る僕の顔は、じっと僕を見つめ返してくるだけで何も変化がない。
「……ねぇ。この日差し、大丈夫かな?」
「昨日“開門”していたからな。そう簡単には干上がらねーよ。」
「そっか……」
僕らは再び口を閉じる。小さな虫たちが僕らの周りを飛んでくるのを払いのけるだけで、僕らは何も言わなかった。
そうして、太陽が西に傾き始めた頃、ハクは言った。
「なぁ、碧。今日はもう帰ろう。」
「……」
僕は立ち上がる気になれなかった。もしかしたらこの小さな水面から、彼女が顔を出すのではないか、そう思えてしまう。
「……これ以上居座ったら、それこそストーカーになるぞ。」
「うっ……」
そんなこと言われたら、もう立ち上がるしかない。
まぁ、それに、確かに彼女は言った。ここは玄関だと。玄関に誰かがずっと居座っていたらさすがに気持ち悪い。僕はあの『鈴鳴り』を思い浮かべた。あの神霊には悪いけれど、『鈴鳴り』を見る目で翡翠に睨みつけられるのは、ちょっと嫌だ。
「そうだね。でも、その前に──」
「うん?」
「ちゃんと、お礼を言いたいんだ。」
僕は傍に落ちていた木の皮をひろい、そこに石を使って文字を刻んだ。
「律儀だな……」
ハクは僕の書いている文字を見てつぶやく。ただ、僕はそうとは思わなかった。だって、わざわざ洗濯までして僕の服を返してくれたんだ。そのお礼を言うのは、当然だと思った。
「これでいいかな。」
僕はその『手紙』をもって、水面の前に立つ。
水源京は異界だ。外からでは普通の水たまりにしか見えていないこの入り口は、
けれど、僕は
「……」
僕は『手紙』を水面にそっと浮かべ、その上に手を置く。そして瞼を閉じて、その水面の奥にある『精』を視た。
『精』は正直だ。ありのままの姿を見せる。たとえ、ただの水たまりにしか見えないこの入り口も、『精』を通してみれば異界として僕は認識できるんだ。だから、僕はただ「入り口を開けてほしい」と『対話』すればいいだけだ。
僕はどこまでも清く澄んだ『水の精』に語り掛けた。この入り口を開けて、『手紙』を届けてほしいと。そして、その答えは、想像以上にシンプルに返ってきた。
『手紙』が、すっと僕の手から離れた。音もなく、水面に波を立てることもなく、まっすぐその『手紙』は水たまりの底──水源京へと沈んでいった。
「──」
ハクも僕も、何も言わなかった。
『精』は正直だ。嘘をつくことはない。
もし、水源京の水が翡翠の体の一部と同じであると言うのなら、今のは──
「……行こうか、ハク。」
「……ああ。」
ハクは静かに、瞳を閉じた。
◇
僕は、それから毎日水源京の入り口に足を運んだ。行ってもその水面に何かの面影が映っている訳でもないし、何か大きな変化があるわけでもない。それでも僕はそこに来ると手紙を入れた瓶を、その水面に置く。そしてその瓶が小さな水たまりに吸い込まれていくのを見ると、少しだけ安心した。
もし彼女が僕を拒絶しているのなら、この『手紙』は水源京に届かない。そうなってしまったら、僕はもう彼女に会うことはきっとできなくなる。
「彼女はやっぱり、寂しいのかな。」
僕は山を下りながらハクに尋ねた。
「……そうかも、しれないな。」
ハクははっきりとしたことを言わない。40年前に翡翠とじいちゃんの間にどんなことがあったのかは分からないけれど、きっとハクはその時に翡翠が何を思っているのか知ったはずだ。それを言おうとしないということは、それは他人が語るべきことではないと、ハクが考えているからだろう。ハクはいいやつだ。頼りになる兄貴肌な蛇だ。そして、人間以上に人情に厚いということを、僕は知っている。そんな彼が語らないようにしているのであれば、それは、僕が自分で気が付かなければならないということだ。
僕はそれ以上、翡翠についてハクに詮索しなかった。
「明日も、『手紙』を届けるのか?」
「うん。そのつもりだよ。……いいと思う?」
「ああ。いいと思うぜ。」
「……そっか。ありがとう。」
「おう。」
家に着くころには、日差しは傾いている。その茜色の光を浴びながら、ハクは僕の歩幅に合わせてゆっくりと這っている。その輝く温かい体は、どんな光よりも頼もしかった。
「……返事、してくれるかなぁ。」
「……ああ、そうだな。あると、いいな。」
◆
太陽の光に交じって、本来ならやってくるはずの無いものが降りてくる。
白い光のカーテンの合間からやってきたそれは、ただの切れ端だった。
時折川に流れている、木々の皮だ。
肌触りの悪い、逆剥けた棘が痛い、あの木の皮だ。
──よくあるものだ。
舞い落ちた木の葉と変わらない。
上流から下流へ向けて流れ落ちる小石のように、気に掛けるようなものじゃない。
このまま放置すれば、水底に沈んで眠るだけの、それだけのものだ。
確かに入り口からやってくるのは珍しいが、そう気にするものではない。
太陽の光だって、あの入り口から降り注いでいる。
だったら、そのまま放置すればいい。
そうすれば、水底に沈んで
手を伸ばす必要なんて、どこにもないんだ。
……
◇
最近、毎日この世界にはないガラスが、空からやってくるようになった。
一日一個、それも、昼過ぎという眠い時間にだ。
見たこともないほど透明で白くて綺麗なそのガラスは、無駄に太陽の光を反射させてわたしの眠りを妨げる。
たまったものではない。
いったい、どこのどいつだ。
ここに不法投棄を仕掛けるやつは。
ここは水源京。泉沸き立つ神秘の都だぞ。
こんなものを送り込まれて、わたしが何もしない訳にはいかないではないか。
こんなものを、どこにやればよいというのだ。
こんなものを、どうしろというのだ。
わたしはガラスの蓋を開けてため息をつく。
息苦しい。
なんて忌々しい地上の空気。
なんて臭い、家の匂い。
なんて汚い、紙の香り。
なんて醜い、人の想い──
こんなものがあるから、わたしは怒っているんだ。
こんなものがあるから、わたしは眠れないんだ。
だから、わたしは──
◆
「──」
7日目の昼。僕とハクは、お互いに顔を見合わせた。
小さな白銀の水たまり。その上で、ある人物が僕らを見ていた。
そう。それは太陽の光を浴びる、翡翠だった。
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