第15話


「記憶を失う?」

「そうだ。個人差はあるが、次第に昔のことを忘却してしまう。」

「で、でも、そんなの、僕にだってあるよ?思い出せないことなんて、いっぱい──」

「じゃあ、自分の両親の顔を忘れることも普通か?」

「――」


 僕は息をのんだ。


「神霊の忘却は、認知症とか、老化による忘却とかじゃない。消失だ。オレ達神霊はもともと『生物』だからな。記憶できる量に限界がある。その限界を迎えると、昔のモノからどんどん忘れて行く。どうでもいい記憶も大切な記憶も関係ない。普通は脳が重要な記憶かそうでないかを選択するそうだが、神霊にはその機能がない。そして最後には、自分が何者であったかすら、忘れてしまうと言われているんだ。」

「そんなこと──」


僕は首を振る。


「いや、そんなわけない!千恵は1000年前の記憶を持っているんだよ?それに、ハクだっては150年生きててじいちゃんの顔だって覚えているし──」

「オレは依然言ったろ?」

「な、なにを?」

「お前がどうやってオレが神霊になったのかって聞いたとき、オレは気が付いたらなっていたって。」

「それが、どうかしたの?」

「正確にはな、どうやって神霊になってしまったのか、覚えていないんだよ。」

「──」


僕は、背筋が凍り付いた。


「オレは普通の蛇だったことは覚えているが、そのころの記憶がもうない。断片的にもやっと覚えているところはあるが、もうほとんど記憶がないんだ。」

「──うそ、でしょ?」

「嘘じゃないさ。神霊は成ろうとしてなるモノではなく、気が付いたらなっている──それはもちろん、意識して成るモノではないってことだが、それでも何か“なった”理由はあるんだ。けれど、神霊に成ったヤツはその理由が分からないんだ。

 それが何故か分かるか?神霊に成ったヤツはみな、神霊になったと自覚するころには、。それは、千恵も例外じゃない。」

「……」

「あの翡翠のように極端な変化があれば、記憶を失うよりも先に理由を見つけられるかもしれないが、大概はそうじゃない。ほとんどは理由なんて推測しているだけだ。本当のところは分からない。たぶんそういうことなのだろうと、そういう曖昧な理由があるだけだ。」


ハクは大きく息を吸い込み、そして僕に向かって言った。


「なぁ、碧。オレはさ、神霊になって本当によかったと、そう思っているんだ。ジジイに逢えた。お前に逢えた。それは、オレにとって宝だ。

怖いんだ。それをいつか必ず忘れることを、オレは知っているのだから。」


彼は僕に、陽炎のように揺らぐ悲しそうな赤い瞳を向ける。


「オレだって翡翠を助けてやりたい。そう思ってるさ。けどな、そのために、もしも──もしもお前が神霊になってしまったらと思うと、オレは胸が張り裂けそうになる。お前がすんなり神霊になることを受け入れてしまうことが、オレは恐ろしい。

 お前は素直で優しい子だ。だからこそ、お前がオレや千恵を忘れてしまったときに、、それが怖くて仕方がないんだ。オレは……オレが感じているこの恐怖を、お前に味合わせたくはないんだよ。

 オレはお前があいつを助けたいと思うことを、否定しない。けれど──」


ハクは僕の瞳に、強く訴えた。


「けれどお前は、神霊には、ならないでくれ。」





「“神霊は成ろうとしてなるモノに非ず。ただ生きようとする命の営みの極地として到達するモノなり。されど成ったモノにその記憶は無く、その因果の究明、未だ至らず”か……」


 深夜零時。僕はハクが読んでいた古びた書物を机の上で閉じ、心臓が出てきそうなほど深く大きなため息をついた。誰もいない部屋に、僕の吐息が消えていく。


「──記憶を失う、か。」


 確かに、彼から聞いた話はほとんど神霊になった後のものばかりだ。彼は嘘をつくようなやつじゃないし、この本にもそう明記されていた。ハクが資料を持ち出すことに抵抗を感じていたのは、これを知られたくないからだったんだろう。

 ハクに神霊になる前の記憶がない、というのはショックだった。だってそれは、ハクは現在進行形で記憶を失っているということだったから。きっと彼は、あと何十年かすればじいちゃんのことも、僕のことも次第に忘れてしまう。しかもそれは普通の忘却じゃない。最後には自分が誰かも忘れてしまう、無に至る変化だ。親友との出会いも、一緒にご飯を食べて語り合った夜の記憶も、全て忘れてしまうのは哀しいと、僕はそう思った。


「──」


 僕は触れるだけで埃が飛び散る書物を再び開く。


“記憶を失う速度は千差万別である。1日ですべてを忘れる場合もあれば、1000年経っても記憶を失わぬ者もいる。記憶を失うことを恐れる者は少なくなく、特に人から神霊に至った者は、狂気に苛まれることもある。故に──”


「神霊は、何かしらの方法で自身の記憶を記録として残そうとするモノも多い、か。」


 僕はハクや千恵を思い浮かべる。もしかすると二人も、記憶を何かしらの形で残そうとしているのだろうか。僕には全くそんな様子は見せていなかった。千恵が記憶を失うことを恐れているのかどうかは分からないけれど、ハクがそんなにも恐れているなんて、全く分からなかった。僕に分かったのは、僕が神霊になることを彼は快く思っていないということだけだった。その理由が何かはさっぱり分からなかったし、特に注意していたわけでもなかった。

 けれどその理由を知って、僕はどうすればいいのか分からなかった。だって神霊は「なろうとしてなるモノではない」のだから、自分の意志で「ならないようにしよう」なんてしてても、なってしまっている可能性がある。


「それでこちら側に肩入れしすぎって、言ったのか……」


 ハクは、僕に人間として生きてほしいと願っているんだ。

 たしか翡翠が言っていた。人間が神霊になる方法の1つとして、『神に中てられる』というものがあると。ハクが、雨音と僕が仲良くなることをあまり快く思っていなかったのは、そういうことなのかもしれない。そしてきっとハクは、本当は、涼や紅葉のような『人間』の友達と過ごす時間を増やしてほしいと、そう思っているんだろう。


「……別に二人のことは嫌いじゃない。けれど……」


 彼らと話すことが楽しくないわけじゃない。ても、彼らが話す内容を、僕は千恵達と話している時ほど面白いとは感じなかった。野菜や果物を齧った時のような、あの口の中に広がる瑞々しさがなかった。彼らが話すゲームや映画、遊園地にテーマパークといったものは、クラスどころか、学校の皆が話しているモノだった。誰か一人のモノじゃなくて、誰のものでもあるモノだった。摩訶不思議な体験談ではなくて、誰かが創った道の上をただ歩いているだけのような、誰にでもできてしまうようなものに、僕は興味を示すことが出来なかった。


「ああ、もう!」


 僕は布団の上に突っ伏す。


「どうすればいいんだよ……。ハクの気持ちだって分からない訳じゃない。だから神霊にならないように気を付ける、そうハクには言った。けれど、結局どうすればいいかなんてわからないし、今は何より──」


 僕は翡翠を助けたい。まだ友達にもなれてはいないけれど、僕はそう思っている。

 だって、彼女は僕の命の恩人だ。その恩人が、不治の病──とほぼ同じ状況にいるんだ。何とかして助けたいと、そう思うのは自然なことなんじゃないのだろうか。それこそ、僕が『人間』だと言うのなら──。

 確かに僕は、ハクの気持ちをないがしろにするようなことはしたくない。けど、だからといって、自分が神霊にならないようにするために翡翠から遠ざかるなんて、僕にはできない。そんな「見て見ぬふり」をするなんて馬鹿な真似はしたくない。


「けど、結局、どうすれば翡翠を助けられるんだ……」


 僕は瞼を閉じる。麻でできた枕が僕の頬を逆撫でる。足元に丸まった掛け布団は、うっとうしく僕の脚に絡みついてきた。きっと湿度が高いせいだ。

 こんなんじゃ当分眠ることなんてできない。

 僕は再度重い頭を働かせる。けれど、夏の蒸し暑さと一日の披露が僕の思考を鈍らせ、まともな考えなんて全く湧いてこなかった。


「あと一年か……。ああもう、そんな一日で解決方法なんて分かる訳ないってことくらい、分かっているよ。けど、一日かけても、こうも何も進展しないなんて……こんなんじゃ、何日経っても変わらないんじゃないのか。」


僕は柱に掛けられた時計をにらむ。こうしている間にも、時計の秒針は無機質に回転していく。


「……僕は翡翠を、なんでこんなにイライラ──」


 その時、僕は自分の言葉のおかしなところに気が付いた。


 僕は、翡翠を助けたい「だけ」じゃない。

 僕は、翡翠と


「──そっちの方が、気持ち、強いんじゃないか……」


 傲慢だと、僕は思った。死にかけている人を目の前にして、その人を助けたいという想いよりも友達になりたいという想いが強いことは、ひどく自分勝手だと、そう思った。

 けれど、その傲慢さは、あることを僕に気が付かせた。


「そういえば──」


 そうだ。あの時、ハクに頭突きをかまされるあの直前、確かに翡翠は右手を出していた。僕の手を握ろうと、手を差し出してくれていた。僕が友達になりたいと、ただそれだけを思って出したこの手を、彼女は握ろうとしていたんだ。彼女がどうして僕の手を取ろうとしたのか、その真意は分からないけれど、あれは僕を受け入れようと、そう思ってしてくれたことのはずだ。


「だとすれば……」


 これは傲慢な僕が考える、陳腐で浅はかで根拠のないものでしかない。彼女がどういう真意でそうしようとしてくれたのかは分からない。けれど、もしかすると、あの誰もいない水源京で、自分の死を待つしかないと分かっていた彼女は──


「寂しかった、のかな……」


 彼女を助ける方法は分からない。けれど、僕は僕がどうしたいのかはっきりとしている。僕は彼女を助けたい。そしてそれ以上に、友達になりたいと、そう思っている。そして彼女がもし寂しいと、そう感じているのであれば、僕がすぐに出来ることなんて、決まっている。



「友達に、なりたい。」



 その日、僕はそれ以上考えることが出来なかった。一日の疲れはあっという間に僕を取り囲み、僕を静かな眠りへと落としていった。




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