第14話
「ああ。そういうことカ。」
突然雨音は何かに合点がいったらしく、手の平を打つ。
「どうかしたのか、雨音。」
千恵が尋ねると、雨音は僕をじっと見て答えた。
「いやな、碧が翡翠を
「それは──!」
「ハク?」
ギョッとしたように、ハクが鎌首を上げる。彼の瞳は怯えるように見開き、雨音と僕を交互に見る。そして何かに急き立てられるように、彼は話題を変えた。
「い、いや。いい。なんでもない。それより、碧。お前、助けたいって言ったって、具体的にどうするつもりなんだよ。」
「いや、それは分からないけれど……」
僕は腕を組む。
「翡翠は助けられることを、嫌がっているんだよね?」
「いや──それは……そう、といえなくもないが……」
「ん?どういうこと?」
僕の言葉に、ハクは顔をそむけた。僕はそれを見て、やっぱり何故翡翠がじいちゃんの助けを拒んだのかを知る必要があると、そう思った。そうでなければ、きっと助けようとしてもじいちゃんと同じように拒絶される。それは哀しいし、嫌だ。
「……まぁ、とりあえずお話をしに行こうかなぁ。」
「お!それはいいと思うゾ。ワタシもお話をすることは大好きダ。」
雨音が満面の笑みを浮かべてうなずいている。雨音がこんなにも笑顔を作っているということは、きっと今のところは大丈夫だろう。
──いや。
「ねぇ。ちょっと思ったんだけど、あの水源京が無くなってしまうまで、あとどれくらいの時間が残っているの?」
「それは……」
千恵は少し間をおいてから答える。
「銀灰が40年前に訪れたときには、既に縮小が始まっていた。その頃はこの広場よりやや小さめの、大木が数十本入る程度であった。そしてそれが水たまりほどの大きさになっていたということは……長くて1年が限界、そう、我は考えている。」
「1年──!?」
想像していた以上に余裕がない。じいちゃんが40年前に同じように救おうとして今に至るなら、もう少し年数があるかと思っていた。けれどそうじゃなかった。僕は翡翠を助ける方法をたった1年で見つけ出さなくてはならない。しかもそれは千恵にもハクにもできない方法だ。僕は体から自信が抜けていく感覚を覚えた。
「いや、気落ちしている場合じゃない。」
「おい、どこへ行くんだよ。」
立ち上がった僕をハクが見上げる。
「決まってるじゃないか。そんなに時間がないのなら、今すぐにでも方法を探さなきゃ。まずは、家に帰って“資料”を探すよ。離れの酒蔵になら何かあるかもしれないし。ハクも手伝ってくれない?」
「……まぁ、それくらい、なら……」
彼の声は低く押し殺されていた。まるで、空から降り注ぐ雨の重みに耐えきれないとでもいうように。
そしてハクとは対照的に、子どものように雨の中で踊っている人物が一人いた。
「ナンダ。だとすると、今日はお開きカ?ワタシはもう少し話をしていたいゾ。」
「ごめんよ。雨音。またお話には付き合うからさ。」
僕の言葉に、雨音はにんまりと笑顔を見せる。
「ホウ!それは本当カ?ではまたここに来てくレ。
「うん。分かった。──じゃあ、千恵も、また明日。」
千恵は黙ってうなずいた。僕はその少し心配そうな瞳に小さく笑みを送ってから、ハクとともにその広場を後にした。
◇
「ただいまー」
「あ、おかえりなさい、碧君。」
僕が玄関の戸を開けると、廊下の奥から
「千恵とはお話できたのかい?」
「うん。あ、そうだ鉄叔父さん、蔵の鍵ってどこにあるっけ?」
「蔵の鍵?何か取りに行きたいものがあるのなら、僕が行ってこようか?」
「あ、いや。大丈夫。ちょっと調べたいことがあるから。うん。」
僕は両手を振って作り笑いを浮かべる。鉄叔父さんは術者じゃないから、きっと翡翠のことは知らないとは思う。けれど、もし叔父さんに話して、じいちゃんに翡翠を助けようとしていると知られたら、何かとても面倒くさいことが起こる様な気がした。千恵がもし翡翠を助ける方法を知っていたとして、それを僕にさせたくないと考えているのなら、じいちゃんも僕にそれをさせまいと、反対するような気がしたからだ。そして叔父さんのこの柔らかな声は、気を引き締めていないとついうっかり口を滑らせてしまう。
「ええと、ああ、あったあった。」
「ありがとう。」
僕は叔父さんから重い鉄の鍵を受け取ると、即座に踵を返して玄関の戸に手を掛けた。けれど──
「ああ、まって、碧君。」
「うん?何?」
鉄叔父さんは僕を呼び止め、頭を掻きながらその理由を言った。
「いや、その。今日もあの二人から連絡があったよ?
「二人から?なんで?」
僕の言葉に、その丸渕眼鏡の向こうにある瞳がちょっとだけ困ったような、悲しむような視線を僕に送ってきた。
「だって、僕からは連絡したけれど、碧君から直接大丈夫だって伝えてはいないだろう?」
「……いや、でも叔父さんが連絡してくれたのなら、別にしなくても大丈夫だと思うんだけど?」
「おい。」
僕の背中を、ハクが尾で軽く叩く。
「……それくらい、してやれよ。」
彼の声は静かで、玄関によく響いた。そしてハクの視線は僕を透かして壁を見ようとしているんじゃないかと思うほどに、強かった。
けれど、僕にはハクがどうしてそんなに強く自分を見ているのか、よくわからなかった。
「……うん、じゃあ、調べものが終わったら連絡するよ。」
「……」
ハクは目を細めると、小さくため息をついた。
「……分かった。じゃあ、さっさと調べものを済ませよう。ああ、そうだ緑鉄。」
「うん?僕かい?」
「ああ。後でちょっと頼みがあるんだが、いいか。」
僕は珍しいな、と思った。別にハクは叔父さんと仲が悪いわけではないし、冗談だって言い合える。けれど、ハクが頼みごとをするのは、決まって僕かじいちゃんだけだ。基本的にハクは頼み事なんてないし、ある程度の問題は自分で解決してしまう。もし頼みごとがあるとすれば、それは神霊としての頼みであって、術者ではない鉄叔父さんには頼めないことだ。それなのに、今ハクは叔父さんに頼みがあると言った。それは、僕がこの家に来て初めて見る光景だった。
「え?ああ。いいよ。じゃあ、キッチンにいるから、声をかけてくれるかい?」
「おう。すまないな。」
ハクは叔父さんの言葉を聞くと、少しほっとしたように顔の緊張をやわらげ、僕に言った。
「じゃあ、行くか。」
◇
『紺家』は酒屋だ。もう300年だか400年だか続いている老舗だけれど、こんな田舎だからか、一般のお客さんはほとんど来ない。ただし、『術者』のお客さんは別だった。定期的に、お酒を買いに来る術者がいる。蔵の中に入っているお酒は、彼らのために調合された特別なお酒なんだと、じいちゃんが言っていた。あの千恵の梅から創られる梅酒もその一つだ。ただ、あの梅酒だけは別格で、もし必要であれば千恵本人から許可を得て、彼女から受け取らねばならないようになっている。千恵曰く、「扱いが難しいから」なのだそうだ。
「けど、あの土砂崩れにこの蔵が飲み込まれなかったのは良かったね。これ復元できないんでしょ?」
僕の声が、広く薄暗い蔵の中に響く。中央の通路を歩くと、僕の背丈をゆうに超える樽がいくつも並んで、まるで狭い洞窟の中にいるような気分になる。
「ああ。オレが戻せるのは、土によって壊された物だけだ。流石に失われた酒までは戻せない。──さて、多分ここだ。」
樽の洞窟を抜けた蔵の最奥。そこに、地下へと通じる穴がある。僕らはその穴にある梯子を下り、地下に広がる『資料室』へと足を踏み入れた。
「あいかわらず埃くせーな。」
ハクが顔をしかめるのももっともだ。ここは酒蔵の下。換気なんかされるわけもなく、何年も同じ空気がこの部屋を漂っている。
「じゃぁ、とりあえずお酒を造る資料以外のものを、全部持っていこう。」
「全部持っていくのか?……そんなに、いらねぇと思うんだが。」
ハクはこの部屋と同じような、気乗りしないよどんだ声を僕に投げかける。
「いやいや、ハク。僕はじいちゃんみたいな術者じゃないから、知らないことはたくさんあるんだ。まずは精霊や神についても、もっといろいろ知っておかないと。」
「……まぁ、確かにそうだが……」
ハクはずっと何かを引きずっている様な、重い足取りで資料を探していた。それは資料を蔵から出し、僕の部屋でその資料を漁っている時も続いた。思えば彼は僕が水源京から戻ってから、ずっとそんな調子だった。翡翠を助け出そうとする僕を否定はしないけれど、積極的に協力してくれるという訳でもなかった。
だからそう、あれは夜の11時頃。いくら書物を読んでも手掛かりがつかめない僕は、ハクに半ば八つ当たり気味に尋ねたんだ。
「ねぇ、ハク。」
「ん?なんだ。」
「ハクはさ、僕が翡翠を助けようとすること、嫌なの?」
一瞬の間をおいてから、ハクは僕を見ずに答えた。
「……嫌ではないさ。」
「じゃあ、どうしてそんなに乗り気じゃないの?」
「……」
ハクは読んでいた書物を尾で閉じ、鎌首をもたげて僕を見る。
「なぁ、碧。」
その声は低く穏やかで、優しくて、そして、少しだけ震えていた。
「お前は……オレや千恵といて楽しいか?」
「え?もちろん。楽しいし、面白いよ。というか、楽しくないわけないだろ?」
「──じゃあ、涼と紅葉と一緒にいて、楽しいか?」
時計の時を刻む音が、静かに部屋に響いた。僕はその音を認識してから、ハクの質問に答えた。
「……楽しい、とは思っているよ?」
「けど、
「……」
僕はハクの赤い瞳を見る。彼の瞳は穏やかだけれど、僕はその瞳を見ているのが少し怖いと、そう思った。
「やっぱり、か。」
「……いや、ハク。今二人の話はどうでも──」
「どうでもよくはない。あの二人だって、お前の友達だろう?」
「それはそうだけど……それとこれと、一体何の関係が──」
その後にハクが言った言葉は、僕の心臓を緩やかに締め付けた。
「オレはな、怖いんだよ。
お前と同じ『人間』ではなく、『精霊』や『神』と一緒にいることの方が楽しいと、そう思っているお前が。」
「え。」
「別にそれは個人的な感情だろうから、他人がとやかく言うことじゃねぇのは承知の上だ。
だが、だがな?お前は、『精霊』や『神』といった、
「な、なにを言っているの?」
「オレは恐れているんだ。お前が、『神霊になってしまう』のではないか、と。そしてそれを、お前が
「──」
僕は口をつぐんだ。だってそれは──もし僕が神霊になってしまうのであれば、きっと彼が言うように「自然と」受け入れるだろうと、自分でも思っていたからだ。
「……オレはよ、神霊になったことを、後悔なんてしていない。確かに紺家の下僕にされた時は『こんちきしょう』とは思ったさ。でも悪くはなかったんだ。人間という生き物が温かい生き物だって知れたし、ジジイやお前にだって会えた。それは幸福なことだ。
だけどな、他者の『精』を操れる力を手に入れるってことはよ、ノーリスクじゃねえんだ。」
「……え?」
「よく聞け。神霊って『生き物』はな──」
ハクは、まっすぐ僕をみて言った。
「──記憶を失う、『生き物』なんだ。」
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