第13話
「──え?」
僕は雨の音を聞いた。さめざめと泣く
「おい、言い方ってのがあるだろ、雨音。」
「そうカ?ワタシは思ったことを口にした──否、事実を口にしたまでだガ?」
ハクは小さく舌打ちをしてそっぽを向く。
「なんダ。どこを見ている?ワタシはこっちだゾ?」
「ったく、お前のそういうところ、俺は嫌いなんだよ。」
「なにがダ?特におかしなことを言ったつもりはないガ。」
「あー、もう!分かってるさ、お前が
ハクは雨音に向かって怒鳴り、鼻から荒い息を出しながら蜷局を巻く。
「──我が話そう。雨音よ。」
「ウム!千恵よ、話してくレ。ワタシは話が聞きたいのダ。」
雨音は
「実はな──」
彼女は語り始めた。僕が崖から落ち、そして水源京に行ったこと、そして翡翠に出会ったことを。その姿は、千恵らしくは無かった。優麗にして神秘の神霊は、ただ雨に打たれているだけの、小さな女の子のように、僕には見えていた。
◇
「──成程ナ。では、翡翠はまだ死んでは居らぬのであろウ?ならば、よかったのではないカ?」
話を聞き終わった雨音の言葉には、妙に感情がない気がした。──いや、そんなことはないだろう。きっと雨がポツリポツリと僕たちの上に落ちてきたせいで、気が散って聞き取れなかったからそう聞こえただけだ。
「それで、翡翠は息災であったか?ハク。」
「ああ。あいつは今でも変わってねぇよ……40年前と、な。」
千恵に問われ、ハクは苛立たし気な太い声を発する。けれど、いつも怒った時に見せる怒りの感情とは、どこかが違う。
「……そうか。彼女は今でも、
「ああ。」
「ねぇ。」
僕は二人に向けて声を発した。
「しかし、千恵。ワタシには分からなイ。何故翡翠はそこまでして人を避けル?ヤツは
「お前も知っているだろう、雨音。彼女がどうやって神霊になったのかを。」
「ねぇってば……」
誰も、誰の瞳も、僕を見ていない。
「ウム。それは知っているゾ。もちろん、『紺家』に会いたくない理由も知っていル。だが、知ってはいるが、理解できなイ。」
「……それは、お銀の話と
「銀?ヤツと同じとナ?翡翠は人間、銀は狐だったのだゾ?ますます分からなくなってきたではないカ。」
「そりゃ、お前じゃ理解できねぇだろうよ。」
「三人とも──」
僕の言葉は、雨音の耳に入っていない。
「ほう。ではハク、オマエは理解できるのカ?オマエは人間ではなイ。千恵のような賢者でもなイ。ワタシと同じ、
「さぁ、どうだかな。オレは人間じゃねえし、千恵みたいな賢者でもねえ。それに、たとえオレが人間だったとしても、人の心の内なんて理解なんざできねーよ。」
「ムム?ではなぜさっきのような発言ヲ?」
「──それでも、テメーよりかはちったぁ
「ウウム。千恵の傍にいるからか、ハクも賢者に近づいてきているのカ?」
「ねぇってば!!」
僕の叫び声に、ようやく三人は視線を向けた。
「なんだ、碧?オマエには分かるのか?」
「雨音ちゃん、翡翠が“死にかけてる”って、どういう意味なの!?」
やっと、僕の言葉が届いた。僕は次第に強くなってきた雨のなか、三人に聞こえるように声を張り上げる。
「ねぇ、三人だけで話を進めないでよ。僕はまだ何も知らないんだ。翡翠が元人間だってことも、翡翠が山にいたことだって知らなかった。それと、翡翠と『紺家』の間に──いや、じいちゃんとの間に、何があったの?そして、それ以上に、死にかけているっていうのは、どういうことなのか、ちゃんと説明してよ!」
「?」
雨音は不思議そうに首を傾げ、そして知恵とハクを見比べる。
「なんダ。碧には話していなかったのカ?翡翠の存在ヲ?」
「……」
千恵とハクは答えなかった。そして、雨音はどうして二人が答えようとしないのかを、理解していなかった。だから、ものすごく端的に、ものすごく簡潔に、そしてひどく冷徹に事実を述べた。
「ではワタシが話そう。
翡翠はな、300年ほど前に、この山の里人達に人柱として川に突き落とされ、
『流水の神』の『精』に中てられて神霊になった、元人間ダ。」
「人柱!?」
「そうダ。そして水源京の主として『流水の神』から水源の管理を任されタ。
だがな、あの水源は、枯れかかっていル。」
「!?」
「水源京に長くいた翡翠は、水と同化──否、『流水の神』と同化しつつあル。つまり、水が、水源京が無くなれば、同じように翡翠は消えル。だから、アヤツは死にかけているのダ。」
話しきった彼女は、満足げに腰に手を当てて胸を張る。
僕はよくわからなかった。水源京とともに翡翠が消えてしまうということも、人柱として生贄にされていたということも、そして──雨音が何故、そんなにも表情を変えずに話をしているのかも。
「いや、まって!それ──え?いや、そんなの、なんでみんな放置しているのさ!だって、同じ山に住んでいる神霊同士じゃないの!?昔から知っている仲なんでしょ!?」
「──何も出来無いからだよ、相棒。」
声を荒げる僕に、ハクが静かに言い放つ。
「何もできないって、どういうことなの?」
「そのままの意味だ。どうあがいたって、翡翠が死ぬのをオレたちは止められない。」
「なんで!?千恵もハクも、『神霊』じゃないか!色んな力を持っているじゃないか!」
「じゃあ、どうやって枯れた『水源』を元に戻すんだよ。」
「──」
僕は息をのんだ。
「無理なんだよ。水が湧くってのは自然現象だ。それが無くなるのも、自然現象なんだよ。
川の流れやため池なんかは、確かに変えることはできる。人間はそうやって土地を開拓した。だけどな、どうあがいたって、大元の水源を自分で作ることは出来ねぇんだよ。自然現象そのものを変えることは人間でも精霊でも、現象から生まれた神ですら、できないんだ。」
「……」
「そのような『生き物』の手に余る所業、出来るとすれば、それこそ“神様”ってやつくらいしかいないんだ。」
「そ、そんな──や、でも、何かできるはずじゃないか!」
僕は必死に頭を働かせる。
「そうだ!雨音はさっき、“流水の神と同化しつつある”って言った!だったら、その同化を阻止すればいいんじゃないの!?」
「──やはり、彼と同じことを汝は言うのだな。」
千恵が小さく微笑む。その微笑みは少しだけ悲しそうだった。
「彼?」
「汝の祖父、銀灰だ。」
「じいちゃん!?」
「銀灰は40年前、汝と同じように考え、翡翠をあの水源京から連れ出そうとして──」
「失敗したんだ。」
ハクが僕の顔を、まっすぐ見つめる。
「あの時、銀灰には17になる自分の娘──つまり、お前の母親がいた。」
「お母さん?」
「そうだ。あいつは……自分の娘と同じ年端の姿をした翡翠を見て、助けてやりたいと思ったんだろう。あいつは、昔からそういう奴だった。命を愛し、助けられるものならば猫や蛇だって助ける、そういう奴なんだよ、あのジジイは……」
「だが、その想いは彼女にとって重荷になってしまったのだ。彼女は自分の行く末を理解していたし、そのことを受け入れようとしていた。
故に、彼女は銀灰を拒絶したのだ。そしてそれ以来、人を──特に『紺家』に、自分の水源京を知られることを拒んだのだ。我らが汝に翡翠のことを語らなかったのは、そのためだ。」
千恵はゆっくりと僕の方に歩み寄る。
「どうして、“重荷”になったの?」
「それを我が話すのは無粋に過ぎる。」
千恵は僕の前に立ち、小さく肩を竦めた。
「だが、1つだけ言うのであれば……
そうだな。翡翠はな、自分から人柱になることを願い出た──そういう、人間だったのだよ。」
「それは、いったいどういう……」
僕には分からなかった。翡翠が何故自分を助けようとしたじいちゃんを拒絶したのか。死ぬのが分かっているのなら、誰かに助けを求めたっていいはずじゃないか。
そんなことを考えていると、雨音が首を傾げながら僕に尋ねてきた。
「しかし碧。何故オマエはそこまで翡翠の身を案じていル?話を聞くと、翡翠に初めて会ったのは4日前であろウ?知り合ったばかりの相手を、何故そこまで気に掛けているのダ?」
そんなの、決まっているじゃないか。
僕は、じっと彼女の雲のような瞳を見る。
「たとえ4日間だけだったとしても、僕は彼女に出会って、彼女を知ってしまったのだもの。赤の他人──とは、僕は思えないんだ。そして何より、助けてもらったんだ。恩返しくらいはしたいよ。」
「ほう……」
未だに首を傾げる彼女を含め、僕は他の二人にもはっきりと言った。
「それに僕は、翡翠と友達になりたいんだ。」
「──」
僕の言葉に、一瞬の間があった。そしてその間はとても複雑だった。静かのように見えて、ざわついていた。
それぞれが、感じているものが違う。
雨音はやはり何も分かっていないようで、首をさらにひねって不思議そうな顔を浮かべている。ハクは僕から視線をずらし、何かを嘆くようにその赤い瞳を揺らしていた。そして知恵は小さく優しい微笑みを浮かべると、そっと僕の頭にその小さな手を載せた。
「
「……うん。」
母が撫でてくれた時と同じように、彼女の手は春のそよ風のように僕の頭を撫でた。
ああ。
僕は、この温もりを知っている。
家族が、家族を心配したときに見せる、温かい光を。
僕はこの時、理解してしまった。
きっと千恵もハクも、翡翠を助ける方法を知っている。いや、知っていると言うよりも、おおよその見当はついていると言った程度かもしれない。その方法は千恵にも、ハクにも、じいちゃんにもできなくて、きっと『精』が見えている僕だけが出来る方法なんだ。
そしてそれは、きっと僕にとって“よくないこと”か、彼女たちにとって“避けたいこと”なのだ。でなければ、賢者である千恵がこんなにも悲しい笑顔を浮かべるはずがない。
僕は千恵の言葉を思い出す。
「もし、汝が今の『心眼』と『対話』以外の
──その時、汝は神霊となる。」
潤んだ薄紅色の瞳が、僕にまっすぐ語りかけていた。
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