第13話


「──え?」


 僕は雨の音を聞いた。さめざめと泣く雨音あまねの周りに振る雨たちが、強い存在感を放っている。


「おい、言い方ってのがあるだろ、雨音。」

「そうカ?ワタシは思ったことを口にした──否、事実を口にしたまでだガ?」


 ハクは小さく舌打ちをしてそっぽを向く。


「なんダ。どこを見ている?ワタシはこっちだゾ?」

「ったく、お前のそういうところ、俺は嫌いなんだよ。」

「なにがダ?特におかしなことを言ったつもりはないガ。」

「あー、もう!分かってるさ、お前がだってことくらい!」


ハクは雨音に向かって怒鳴り、鼻から荒い息を出しながら蜷局を巻く。


「──我が話そう。雨音よ。」

「ウム!千恵よ、話してくレ。ワタシは話が聞きたいのダ。」


雨音はで、虚ろのような瞳を千恵に向けた。


「実はな──」


 彼女は語り始めた。僕が崖から落ち、そして水源京に行ったこと、そして翡翠に出会ったことを。その姿は、千恵らしくは無かった。優麗にして神秘の神霊は、ただ雨に打たれているだけの、小さな女の子のように、僕には見えていた。



「──成程ナ。では、翡翠はまだ死んでは居らぬのであろウ?ならば、よかったのではないカ?」


 話を聞き終わった雨音の言葉には、妙に感情がない気がした。──いや、そんなことはないだろう。きっと雨がポツリポツリと僕たちの上に落ちてきたせいで、気が散って聞き取れなかったからそう聞こえただけだ。


「それで、翡翠は息災であったか?ハク。」

「ああ。あいつは今でも変わってねぇよ……40年前と、な。」


 千恵に問われ、ハクは苛立たし気な太い声を発する。けれど、いつも怒った時に見せる怒りの感情とは、どこかが違う。


「……そうか。彼女は今でも、なのだな。」

「ああ。」

「ねぇ。」


 僕は二人に向けて声を発した。


「しかし、千恵。ワタシには分からなイ。何故翡翠はそこまでして人を避けル?ヤツは。人間から神霊へと成ったヤツが、何故人を避ける理由がある?ワタシはそれを理解したいゾ。」

「お前も知っているだろう、雨音。彼女がどうやって神霊になったのかを。」

「ねぇってば……」


 誰も、誰の瞳も、僕を見ていない。


「ウム。それは知っているゾ。もちろん、『紺家』に会いたくない理由も知っていル。だが、知ってはいるが、理解できなイ。」

「……それは、お銀の話とだ、雨音。それに、翡翠は元々人間なのだから……」

「銀?ヤツと同じとナ?翡翠は人間、銀は狐だったのだゾ?ますます分からなくなってきたではないカ。」

「そりゃ、お前じゃ理解できねぇだろうよ。」

「三人とも──」


 僕の言葉は、雨音の耳に入っていない。


「ほう。ではハク、オマエは理解できるのカ?オマエは人間ではなイ。千恵のような賢者でもなイ。ワタシと同じ、『生き物』ダ。それなのに、人間の心、という奴を、理解できるというのか、オマエハ。」

「さぁ、どうだかな。オレは人間じゃねえし、千恵みたいな賢者でもねえ。それに、たとえオレが人間だったとしても、人の心の内なんて理解なんざできねーよ。」

「ムム?ではなぜさっきのような発言ヲ?」

「──それでも、テメーよりかはちったぁってだけの話だ。それこそ、お前にゃ理解できねぇ“心”で、な。」

「ウウム。千恵の傍にいるからか、ハクも賢者に近づいてきているのカ?」

「ねぇってば!!」


 僕の叫び声に、ようやく三人は視線を向けた。


「なんだ、碧?オマエには分かるのか?」

「雨音ちゃん、翡翠が“死にかけてる”って、どういう意味なの!?」


やっと、僕の言葉が届いた。僕は次第に強くなってきた雨のなか、三人に聞こえるように声を張り上げる。


「ねぇ、三人だけで話を進めないでよ。僕はまだ何も知らないんだ。翡翠が元人間だってことも、翡翠が山にいたことだって知らなかった。それと、翡翠と『紺家』の間に──いや、じいちゃんとの間に、何があったの?そして、それ以上に、死にかけているっていうのは、どういうことなのか、ちゃんと説明してよ!」

「?」


 雨音は不思議そうに首を傾げ、そして知恵とハクを見比べる。


「なんダ。碧には話していなかったのカ?翡翠の存在ヲ?」

「……」


 千恵とハクは答えなかった。そして、雨音はどうして二人が答えようとしないのかを、理解していなかった。だから、ものすごく端的に、ものすごく簡潔に、そしてひどく冷徹に事実を述べた。


「ではワタシが話そう。

 翡翠はな、300年ほど前に、この山の里人達に人柱として川に突き落とされ、

『流水の神』の『精』に中てられて神霊になった、元人間ダ。」

「人柱!?」

「そうダ。そして水源京の主として『流水の神』から水源の管理を任されタ。

 だがな、あの水源は、枯れかかっていル。」

「!?」

「水源京に長くいた翡翠は、水と同化──否、『流水の神』と同化しつつあル。つまり、水が、水源京が無くなれば、同じように翡翠は消えル。だから、アヤツは死にかけているのダ。」


 話しきった彼女は、満足げに腰に手を当てて胸を張る。

 僕はよくわからなかった。水源京とともに翡翠が消えてしまうということも、人柱として生贄にされていたということも、そして──雨音が何故、そんなにも表情を変えずに話をしているのかも。


「いや、まって!それ──え?いや、そんなの、なんでみんな放置しているのさ!だって、同じ山に住んでいる神霊同士じゃないの!?昔から知っている仲なんでしょ!?」

「──何も出来無いからだよ、相棒。」


 声を荒げる僕に、ハクが静かに言い放つ。


「何もできないって、どういうことなの?」

「そのままの意味だ。どうあがいたって、翡翠が死ぬのをオレたちは止められない。」

「なんで!?千恵もハクも、『神霊』じゃないか!色んな力を持っているじゃないか!」

「じゃあ、どうやって枯れた『水源』を元に戻すんだよ。」

「──」


僕は息をのんだ。


「無理なんだよ。水が湧くってのは自然現象だ。それが無くなるのも、自然現象なんだよ。

 川の流れやため池なんかは、確かに変えることはできる。人間はそうやって土地を開拓した。だけどな、どうあがいたって、大元の水源を自分で作ることは出来ねぇんだよ。自然現象そのものを変えることは人間でも精霊でも、現象から生まれた神ですら、できないんだ。」

「……」

「そのような『生き物』の手に余る所業、出来るとすれば、それこそ“神様”ってやつくらいしかいないんだ。」

「そ、そんな──や、でも、何かできるはずじゃないか!」


僕は必死に頭を働かせる。


「そうだ!雨音はさっき、“流水の神と同化しつつある”って言った!だったら、その同化を阻止すればいいんじゃないの!?」

「──やはり、彼と同じことを汝は言うのだな。」


 千恵が小さく微笑む。その微笑みは少しだけ悲しそうだった。


「彼?」

「汝の祖父、銀灰だ。」

「じいちゃん!?」

「銀灰は40年前、汝と同じように考え、翡翠をあの水源京から連れ出そうとして──」

「失敗したんだ。」


 ハクが僕の顔を、まっすぐ見つめる。


「あの時、銀灰には17になる自分の娘──つまり、お前の母親がいた。」

「お母さん?」

「そうだ。あいつは……自分の娘と同じ年端の姿をした翡翠を見て、助けてやりたいと思ったんだろう。あいつは、昔からそういう奴だった。命を愛し、助けられるものならば猫や蛇だって助ける、そういう奴なんだよ、あのジジイは……」

「だが、その想いは彼女にとって重荷になってしまったのだ。彼女は自分の行く末を理解していたし、そのことを受け入れようとしていた。ある理由・・・・から、な。

 故に、彼女は銀灰を拒絶したのだ。そしてそれ以来、人を──特に『紺家』に、自分の水源京を知られることを拒んだのだ。我らが汝に翡翠のことを語らなかったのは、そのためだ。」


千恵はゆっくりと僕の方に歩み寄る。


「どうして、“重荷”になったの?」

「それを我が話すのは無粋に過ぎる。」


千恵は僕の前に立ち、小さく肩を竦めた。


「だが、1つだけ言うのであれば……

そうだな。翡翠はな、自分から人柱になることを願い出た──そういう、人間だったのだよ。」

「それは、いったいどういう……」


 僕には分からなかった。翡翠が何故自分を助けようとしたじいちゃんを拒絶したのか。死ぬのが分かっているのなら、誰かに助けを求めたっていいはずじゃないか。

 そんなことを考えていると、雨音が首を傾げながら僕に尋ねてきた。


「しかし碧。何故オマエはそこまで翡翠の身を案じていル?話を聞くと、翡翠に初めて会ったのは4日前であろウ?知り合ったばかりの相手を、何故そこまで気に掛けているのダ?」


そんなの、決まっているじゃないか。


僕は、じっと彼女の雲のような瞳を見る。


「たとえ4日間だけだったとしても、僕は彼女に出会って、彼女を知ってしまったのだもの。赤の他人──とは、僕は思えないんだ。そして何より、助けてもらったんだ。恩返しくらいはしたいよ。」

「ほう……」


未だに首を傾げる彼女を含め、僕は他の二人にもはっきりと言った。


「それに僕は、翡翠と友達になりたいんだ。」

「──」


 僕の言葉に、一瞬の間があった。そしてその間はとても複雑だった。静かのように見えて、ざわついていた。

 それぞれが、感じているものが違う。

 雨音はやはり何も分かっていないようで、首をさらにひねって不思議そうな顔を浮かべている。ハクは僕から視線をずらし、何かを嘆くようにその赤い瞳を揺らしていた。そして知恵は小さく優しい微笑みを浮かべると、そっと僕の頭にその小さな手を載せた。


みどりよ。汝は銀灰に似て優しい人間だ。そして、自分に素直な人間だ。だから、思うように、したいことをすればよい。──ただし、無茶だけは、するでないぞ。」

「……うん。」

 

 母が撫でてくれた時と同じように、彼女の手は春のそよ風のように僕の頭を撫でた。


ああ。

僕は、この温もりを知っている。

家族が、家族を心配したときに見せる、温かい光を。


 僕はこの時、理解してしまった。

 きっと千恵もハクも、翡翠を助ける方法を知っている。いや、知っていると言うよりも、おおよその見当はついていると言った程度かもしれない。その方法は千恵にも、ハクにも、じいちゃんにもできなくて、きっと『精』が見えている僕だけが出来る方法なんだ。

 そしてそれは、きっと僕にとって“よくないこと”か、彼女たちにとって“避けたいこと”なのだ。でなければ、賢者である千恵がこんなにも悲しい笑顔を浮かべるはずがない。


 僕は千恵の言葉を思い出す。


「もし、汝が今の『心眼』と『対話』以外のすべを身に付けたら──

 ──その時、汝は神霊となる。」



潤んだ薄紅色の瞳が、僕にまっすぐ語りかけていた。



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