第9話


 「さてと、今日はどこに行こうかな。」


 僕は水草の布団から這い出て、眼下の街並みを眺める。

 水源京に来て4日目。僕はすっかりキャンプに来た気分で日々を過ごしていた。ここは見るもの触れるもの聞くものすべてが新鮮で、飽きることがない。目を覚ませば部屋の中を魚が泳ぎ、一歩外に出れば見たこともない生き物がたくさんいる。

 翡翠は「塔から出るな」とはいったけれど、僕はそれだけでも十分すぎるくらいに楽しんでいた。

 この塔が、とんでもなく大きかったんだ。

 五重塔とは言っても、見た目とは違って中は迷路のように入り組んでいる。この『水源京』という異界の中に、もう一つ別の異界が存在していると言っていいだろう。部屋を開ければまた部屋が、壁だと思ったらどんでん返し、気が付いたら同じ通路を何度も回っていたりと、もう迷宮だ。だからこそ、僕は飽きることがなかった。探検から3日たった今も、まだ2つ下の階層にしかたどり着けていないのだから。

 ただ、確かに探検も楽しいけれど、僕にはこの塔よりももっと気になっていることが1つあった。

 そう、翡翠だ。

 翡翠はじいちゃんが心配だという僕の気持ちを汲んでくれて、ハクと千恵の下に“使い”を出してくれた。そしてその“使い”である『水の妖精』から、じいちゃんが無事病院で元気に過ごしていることを知った。もちろん僕は彼女に感謝の気持ちを伝えたし、こうしてここで療養してもらえているのはありがたい。

 けれど、やっぱり彼女は何故か僕を避けている。この塔で僕と出会っても目も合わさずにどこかに行っちゃうし、名前を呼んでも返事がない。


「でも、お話をしたいんだよな~」


 僕はハクや千恵以外で、会話のできる神霊に出会ったのは初めてだ。だから僕は、彼女と友達になりたいと思った。僕の知らない世界に住んでいる彼女は、きっと僕の知らないことをたくさん知っている。彼女と友達になれたなら、どんなに楽しい人生を送れるだろうか。

 僕はいろんな話を聞いてみたかった。千恵やハクが語ってくれる、学校では聞けない、人間では到底体験できない昔話は面白い。だったら彼女の話だって、絶対面白いに決まっている。是非聞いてみたい。

 僕はハクや千恵、雨音あまねと友達になれたように、きっと彼女とも友達になれる。そう思った。けれど、彼女はどうしてか僕を避けている。それが僕には、すこし寂しかった。

 もしかすると、昔、じいちゃんと何かあったのかもしれない。彼女は度々じいちゃんのことを「銀灰」と言おうとして、「祖父」と言い直している。それに、じいちゃんはあまり術者としての自分の話をしなかったから、何かあったとしても不思議じゃない。実際修業はほとんど千恵任せだったし、じいちゃんが教えてくれたのは術者としての有り方くらいで、自分のことはこれっぽっちも話さなかった。


「そういえば、使いを出したってことは、ハクも千恵も、翡翠のこと知っているんだよな……」


 僕はため息をこぼす。翡翠はハクと千恵と面識があると言っていた。だから、ハクと千恵だってここに翡翠がいることを知っていたはずだ。だったら、紹介してくれたってよさそうなのに。


「もー、じいちゃんもハクも千恵も、どうして何も話してくれないのかな~。もっと早くにお友達になれたら、今頃打ち解けられていたかもしれないのに~」


 僕はぼやきながら、次の扉を開ける。もう3階層目も大分探検した。そろそろ下に降りる通路を見つけてもよさそうな気がする。翡翠はどうやら一番下の階層で過ごしているらしく、僕は彼女の部屋を探していた。……いや、ちょっとストーカーっぽい気がして気が引けるけれど、彼女以外に話し相手がいないし、万が一なにかあった時に彼女の元に行けないのは心細い。


「さてと、次はどんな部屋──って、うおおお!?」


 僕は踏み出した足を慌てて戻した。他の部屋とは雰囲気が全く違う。太陽の光が一切入り込んでいない、真の闇が広がる巨大な空間が、そこにはあった。


「これって、空洞?」


僕はしゃがんで足元の真っ暗な床に手を当てる。しかしそこに手ごたえはなく、僕の手はそのまま床より下へと抜けていく。


「あっぶな!落ちるところだった……」


 僕は下を覗き込んだ。あるのは闇。底なんて全く見えない。どうやらとんでもなく深いようだ。


「うーん、でもこれ、水で満たされているなら、泳いで下に行けるかなぁ。でも暗くて何があるか分からないし、やめておいた方がいいかもしれないな。」


 僕がもう少し中がどうなっているか確認しようと身を乗り出した、その瞬間だった。


ゴポッ


 風呂場の栓が抜けて水が流れ出た時の、あの小さな音が、耳に届いた。そしてそれに続く髪をなでる小さな水圧を感じて、僕は何が起きようとしているのかを悟った。


「あ」


 そのときには、もう遅かった。

 僕が扉に手を伸ばすよりも早く、その「流れ」は起きた。全身に降りかかる水圧は、瞬く間に僕を闇の中に引きずり込んだ。その激流は強く、泳ぐどころか手足を動かす余裕すらない。

 僕は消えていく太陽の光を見ながら思った。


 まずい。どうしてこうなったかはよくわからないけれど、この状況はまずい!どんどん体にかかる水が重くなっていく!このままじゃ、押しつぶされる!

どうすれば──!


 扉からの光が点になるころ、それは突如起こった。流れが急におさまり、暗闇の中で僕は不思議な浮遊感に襲われた。


「た、助かった──?」


が。それは違った。そう思った瞬間、今度は地響きのような轟音が、背後の暗闇から聞こえてきた。


「あー、なんかすごく嫌な予感がする!」


 その予感は見事に的中した。水が、強烈なタックルを僕にかましてくる。逆流する水は僕を押し戻し、見る見るうちに扉の光が近づいてくる。

 そして、僕は叫び声をあげる間もなく、塔の外へと放りだされた。


「ええ!ちょ、ま、嘘でしょ!?」


 僕は自分の見ている光景に慌てた。

 水の速さが尋常じゃない。次々と変わる景色。何百という家の屋根の上を飛び、中心の塔はどんどん点になっていく。まるで新幹線に乗っているみたいだ。


「おいおいおい!どこまでいくんだ!?このままじゃ──!」


 僕は自分の進む方向を見てギョッとした。

 岩だ。

 塔からでは全く見ることが出来なかった、水源京のを僕は見た。そこには崖のようにそびえたつ岩の壁があった。しかも、それは1つだけじゃない。焦げ茶色の岩は、一つ一つが山ほどもある巨大なもの。それが幾重にも積み重なって、巨人のようにそびえたっている。


「こ、このまま突っ込んだらぺしゃんこだ!」


 僕は必死で流れに逆らって泳ぎ始める。最初の時ほど体の自由が利かない訳じゃない!

 けれど、どう考えてもそれは赤ん坊のよちよち歩きよりも動けていなかった。


 もうあの五重塔どころか、街並みすら見えない!

 見る見るうちにごつごつした岩が近づいてくる。

 ああ、岩に生えた藻まで視認できるようになってきた!

 これは、もう──


 ──終わった!





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