第08話
「水源京?」
「そうだ。この世すべての水源には、都が存在する。ここはそのうちの一つだ。」
僕の言葉に、彼女は振り向かない。けれど、泳いでいてもはっきりと聞こえる声で、僕にゆっくりと説明してくれた。
「お前、竜宮城を知っているか?」
「え?あの浦島太郎に出てくる、あれ?」
「ああ。あれは、実在する。」
「本当に!?」
ハクや千恵のような神霊がいるのだから、御伽話の世界はもしかしたら本当にあるのかもしれないと思っていたけれど、本当にあるなんて!僕は身を乗り出しすぎて、泡から顔が出そうになった。
「ああ。海の底にある、『海の神』が住まう場所。それが竜宮城だ。
『神』が住まう場所には都ができる。ここはそれと同じ。『流水の神』が誕生し、住まう場所。それが、『水源京』だ。」
「神が住む場所……」
「ああ──、そら、見えたぞ。アレが水源京、その中心だ。」
「!」
水源京。それは渦そのものだった。まるで糸で縫い合わせたかのように家が列を成し、何本もの巨大な螺旋を描いている。太陽の光をめいいっぱい受ける植物のように、街は大きくその枝葉を広げ、輝いている。僕がさっきまでいたあの街は、この渦を描く街の一部だったんだ。
そして渦の中心に、その塔はあった。太陽を目指す木々のように、まっすぐにのびる五重塔。その表面は苔や藻で覆われ、美しい緑の着物を纏っている。
「わあ!やわらかい!!」
塔の最上階、その巨大な一室に僕たちは降り立った。滑らかな苔と藻で埋められたその床は天然の絨毯だ。足の裏に触れる苔の感触がちょっとこそばゆい。
「少し待て。」
水で満たされた部屋を、翡翠は滑るように泳ぐ。そして部屋の最奥にある箪笥から何かを取り出し、再び僕の元へもどってきた。
「これを飲め。」
「何、これ?」
「丸薬だ。」
彼女の手に握られていたのは、泡に包まれた瑠璃色に輝く玉だった。まるで海をガラス玉に閉じ込めたようなその丸薬は、食べるなんてもったいないくらいに綺麗だった。
「食べるの?これ。」
「ああ。これを食えば水の中でも息が吸える。」
「へぇ!すごい!水の中でも息ができるの!?」
「ああ。昔の術者がつくったものだ。お前にくれてやる。……落とすなよ。こいつは水に触れると泡になってしまう。これが最後の一個だからな。」
「えっ!そんな貴重なもの僕が食べていいの!?」
驚いた僕は、危うく丸薬を落としそうになった。
「……ああ。いつまでもその泡の中にいては何かと不便だろう。それに、そいつは私には不要なものだし、この先も必要になることはないだろうしな。」
「どうして?」
僕の問いに、彼女は答えなかった。ただ、少しの間何かを考えているみたいで、じっと僕の顔を見つめていた。そして、小さく水の中でため息をつく。
「いいから、さっさと飲んでしまえ。あまりこの部屋に空気を入れたくない。」
「……うん。じゃあ、いただきます。」
口に放り込んだ丸薬は雪解け水のように冷たく、すこし甘かった。舌に触れると炭酸のような音を立てて溶け、桜の蜜のような甘味が口いっぱいに広がる。
「苦いのかと思ってた……」
「300年くらい前は食べられないほど苦かったらしいが、術者たちが改良したそうだ。」
「へぇ。……これ、もう泡の外に出ても大丈夫なの?」
「ああ。ただし、一度水の中で息をしたら、泡の中に顔を突っ込むなよ。効果は外の空気を吸い込むまで続く。一度でも空気を吸ったら効果は切れる。」
「分かった。」
僕は泡の表面をじっと見つめる。ゆらゆらと揺らめく水面に、少し不安そうな、けれどそれ以上に高揚した目が僕を見つめ返している。僕は肺一杯に空気を吸い込み、そして──
「──」
肌を包み込む、冷たい感触。周囲の音が
肺に、冷水が入っていくのが分かる。けれども感じたのはそれだけで、不思議なことにむせることもなく、空気を吸うのと何ら変わらなかった。
「あんがい、普通なんだね。もっと、苦しいのかと思ってた。」
「──」
一瞬、翡翠の顔に影が差した。眉間に皺をよせ、怒りに似た感情を露わにする。けれどどうやら本当に怒っているようではなく、彼女は吐き出す水とともに、その影を自らから追い出した。
「いや、それは……薬、だからな……」
◇
「いいか、さっき言ったことを覚えているか?」
「うん。この塔から一歩も出ないこと、翡翠の邪魔をしないこと、そして空気にふれないこと、だよね。」
「そうだ。」
僕はここでしばらく休養をとる代わりとして、翡翠の要望という名の制約を聞くことになった。けれど、それは
「お前の持ち物はその箪笥に入れてある。必要であれば持つがいい。」
「うん。分かった!それにしてもこの着物、水の中でも随分と動きやすいんだね。これも術者がつくったの?」
「いや。それは私が以前に織ったものだ。……大きさが合わぬか?」
「たしかにちょっと小さいけれど、問題ないよ。でも、僕より小さいってことは、子供がいるの?」
僕の問いに、彼女は首を振った。
「いいや。昔、この都に住んでいた住人に与えたものの中の一着だ。……やはり、
その顔は、やっぱりとても暗かった。度々見せる翡翠のその表情は、彼女の顔から生気を失うほどに曇っていた。けれど、僕にはその理由は分からなかったし、その問い事態が何を意味しているのかも知らなかった。だからやっぱり、僕はほとんど何も考えずに、思ったことを口にした。
「ううん?そんなことないよ。僕は割と好みだよ。だってほら、春先の空みたいに爽やかだもの!」
「──!」
彼女の瞳が、大きく見開く。そして何かを思い出したのか、彼女は小さく、本当に小さく、哀しそうに言った。
「……そう、か。」
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