第07話
「……何を見ている。」
「え!?」
僕は慌てて彼女の顔から目を逸らす。
「ああ、あの、いえ、その……なんでもありません。」
「そうか。ではここを動くな。勝手に動かれて今みたいなことが起きたら面倒でかなわん。体が
「はい。──って、え?いや、ちょちょちょ、ちょっとまって!」
僕は部屋にあいた穴に片足を入れようとする彼女を呼び止める。
「……なんだ。」
「いや、あの。その、僕ここがどこかもよくわからないし、まだ自己紹介もしてないし──」
「不要だ。」
「え?」
彼女の低く冷たい声が、ぴしゃりと会話に水を打った。
「ここがどこか知る必要もないし、お前が名乗る必要もない。
なぜなら、お前はすぐにここを出て行くからだ。
……だから、私はお前に関わる気もないし、私も名乗る必要はない……」
「はい?」
「ではいいな。ここを動くなよ。」
「あ、いやちょっとまって、さっきは──」
僕の言葉を最後まで聞くこともなく、彼女は水の中へと飛び込んだ。冷たい水しぶきが、目つぶしのように僕の頬に当たる。
「──ありがとうって……伝えそびれた……」
僕は彼女の行方を探ろうと、穴から顔をのぞかせる。
「──!!」
深い。
底はこの異様な透明度のある水の中でも見えないほどに、遥か下にある。奈落の底のような暗闇に、見ているだけで引きずり込まれそうになる。
そしてここでようやく、僕はこの街の
街は一様に平たいのではなく、帯が螺旋を描くようにして存在していた。今いる家の下に見えているのは、螺旋渦巻くこの街の“続き”だ。建物の影から察するに、螺旋の直径は1キロ程度だろうか。
「──ここは、僕の知っている世界じゃない。」
◇
僕は部屋の柱に背を預けて思考を巡らせる。
ここは僕の知っている世界じゃない。
けれど、完全に僕のいた世界と隔離されている世界でもない。おそらく僕の住んでいる世界の中に存在する、“別の世界”なんだと思う。
神霊の中には、自分自身の住む“専用の世界”を創る者がいると、じいちゃんから聞いたことがある。
これもそのうちの1つだろう。だとすれば、この世界の主である神霊──
彼女の言動から察するに、僕を助けて治療してくれたのは、おそらく彼女だ。そうだとすれば、彼女は何かしら僕に危害を加えるような『妖』ではないだろう。
ただ一方で、彼女の口ぶりは人間を嫌っているようだった。あまりこっちを向いてしゃべろうともしなかったし、去り際のあの横顔は、思い出したくもないものを思い出してしまったときの、苦い表情だった。極力関わりたくはないけれど、仕方がないから助けた、というような感じだ。正直、友達になれるかと言われると微妙なところだ。
けれど──
「……だから、私はお前に関わる気もないし、私も名乗る必要はない……」
あの濡れた背中は、もっと違う何かを語っている気がした。
◇
「じっとしていろって言われてもなあ。」
僕は一通り部屋を歩いたのち、胡坐をかいて考え込む。
暇だ。
身体はもう十分に動く。彼女が言った「完全に」とやらが何かよくわからないけど、傷は癒えたと言っていいだろう。
こんな何もない部屋の中で何をしていればよいのだろうか。
というより、じいちゃんのもとに行きたいのだけど……
僕は床の穴をのぞき込む。
「多分、彼女は神霊だよなあ。僕をこの部屋まで押し戻したあの
顔を水に浸し、意識を世界に向ける。
やっぱり、『精』が少ない。水の『精』にここがどこか語りかけても──
「全然読み取れない──!」
僕は顔を上げ、盛大にため息をつく。
せめてここがどこか分かれば何か行動が出来たのかもしれないけれど、
「分かるのは“水”“都”ってことだけか。」
『精』は、言葉をしゃべっている訳じゃない。
『精』を見ていると、自然とその『精』が持つ、漠然としたイメージが浮かび上がってくる。僕はそれをただそれとして受け入れ、分かるものへと解釈するだけだ。空に浮かぶ雲の形に、動物を思い描くのと一緒なんだ。
これを対話というのは、夜空の星から神話を創りだすことと、何もかわらないかもしれない。作り話といえばそうなのかもしれない。
けれど、その神話には色がある。
お話に悲愴や歓喜が描かれているように、『精』にはその命が辿った嘘偽りのない思いと生き様が映し出される。だから、『精』の色は複雑で一つとして同じものはないし、感じるイメージもまた、一つ一つ異なってくる。
「そうなると、やっぱり彼女の『精』がああやって輪郭がおぼろげなのは、理由があるのかな。」
僕は三度水へと顔を近づける。
やっぱここからじゃみえないかな。下の方にいるようだけれど……
──ん?
遥か下。
連なる街の影の中から、一つの淡い光が灯る。
淡くはかなく、今にも消えそうなその炎は、垂らした糸を伝うように僕の下へと駆け上がってくる。そして瞬きをする間もなく──
「――」
「……」
彼女は、また僕の前に現れた。
◇
「……お前、『精』が、見えるのか?」
それは厚顔無恥な子供の好奇心に満ちた瞳でも、子供の成長に驚く親の表情でも、ましてやヒーローを見つけたヒロインの顔でもなかった。じっと僕を見つめるその細い瞳は、
僕は一瞬、口を開くことをためらった。それを言ってしまったら、どうなるのかと少し不安に思った。けれど特に嘘をつく理由はないし、彼女は『妖』ではなかったから、僕は素直に答えることにした。
「……みえる、よ?」
「──」
彼女の口が、わずかに開く。驚き──とは少し違う。恐怖と希望が入り混じったような、不思議な顔だった。聞かなければよかったと、そう呟きそうな顔だった。
「そうか。お前が……そうなの、か。」
彼女は長い沈黙ののち、それだけ言ってまた部屋の穴へと踵を返す。
「ちょっとまって!」
僕は慌てて彼女を呼び止める。
「なんだ。」
「いや、あの、やっぱりいろいろ話をしてほしい!ここがどこで、僕はどうしてここにいるのか。どうすればここから出られるのかを、知りたいんです。」
「……何故そのように急く?」
僕は、彼女のその言葉を逃がさなかった。彼女に一歩詰め寄り、僕は言葉を選び出す。
「僕は──
「……
「知っているの!?だったら話が早い。僕を外に──」
「それは許さん。今のお前を、外の世界に出すわけにはいかない。」
ぴしゃり、と彼女は言い切った。凍えるような冷たいその言葉に、僕は踏み出した足を思わず下げる。
“精霊には、人に害を成すモノもいる。”
ハクの言葉が、脳裏に浮かぶ。
「──どうして?」
恐る恐る聞く僕に、彼女は眉を顰める。
「どうして、か……お前、『精』が見えているのだろう?だったら、自分の精が今どうなっているか、確かめてみるといい。」
「え?自分の、『精』?」
僕は瞳を閉じて、意識を己の体の中心へと集中させる。心臓に意識がのしかかり、その鼓動を捕らえた瞬間、僕は瞼を開けた。
「なに、これ──」
全身の毛がよだつ。
額には気持ちの悪い汗が吹き出し、手足の末端から血の気が引いていくのを感じた。
普通であれば、自分の『精』は、体を取り囲むように輝いている。
だが、今は違う。
孔が、空いている──
紙魚が本を食った後のような、虫食いの穴が、体を取り巻く光を潰している。さらにその食われた光は、外気へと霧散し、滲んでいた。
「──」
僕は『心眼』を解き、膝をついた。自分の『精』に、こんなにも怖気を感じたことはない。蛆の湧いた肉を見ている気分だ。
「お前、山で『鈴鳴り』に出会っただろう。」
「『鈴鳴り』……?」
僕は吐き気をこらえながら彼女を見上げる。
「そうだ。熊避けの鈴を鳴らす『妖』だ。」
「──!」
「……その顔はちゃんと覚えているという顔だな。なら、いい。お前は『鈴鳴り』にはなっていない。このままここに居れば、じき『精』も治るだろう。」
「どういう、こと?」
僕の問いかけに彼女は表情を曇らせる。そして小さく舌打ちをすると、僕に向かってこういった。
「……ついてこい。」
◇
水の泡。
僕の体をすっぽりと包む大きな泡が、ゆっくりと昇っていく。何の音もしない、無音のエレベーター。泡の表面は柔らかく、羽毛布団の中にいるようだ。
僕の上を行く彼女は、泡には入っていない。足をばたつかせもせず、ただまっすぐ矢のように淡々と突き進んでいく。次第に強まる太陽の光が、その矢を白く、そして美しく輝かせた。
「ここだ。この池から、お前は落ちてきた。」
もうあと少しで水面というところで、彼女は止まる。彼女は水の中でも声を出すことが出来るようで、彼女の言葉から察するに、どうやらここがこの“世界の端”らしい。あんなにも広い世界であったのに、この出入り口はとても小さい。大人2人が輪になったら、そこにすっぽりと入ってしまうほど小さな水面だった。あの街をあんなにも明るく照らしていた光の基が、井戸ほどの小さなところから差し込んできていたのかと思うと、不思議だ。
「外に、出ないの?」
僕がそう尋ねると、彼女は黙って日の光の奥を指さす。僕はその場所を見て、すぐにその理由に気が付いた。
「──!」
「アレが、『鈴鳴り』だ。」
あの夜、僕の前に現れた“闇”が、水面の外で蠢いている。外界に広がるのは日の光にあてられて輝く崖と森だが、そこだけぽっかりと穴があいたように夜が続いている。
僕は震える両腕を抱えた。
「あの『妖』は、一体何なの?」
「……アレは元々は人だった。」
「人間だった!?」
僕は目を見開いて闇をみる。どう見ても、“人間”の面影すら感じないただの闇だ。時折姿形が変わって見えるが、天井の染みを人の顔や手なんかと見間違えるソレと同じだ。闇自体はただそこにあるだけだ。
「そうだ。アレは300年ほど前に、山で遭難した人間だ。」
「遭難しただけで、神霊になるものなの!?」
「……」
彼女は水中で大きく息を吐き出し、話し始めた
「……人間が神霊になるには、大きく2つの方法があると言われている。ひとつは術者として修業を積み、自ら『精』を操るようになるもの。そして、もう一つが、神に
「神に、中てられる?祟りみたいなことが神ってできるの?」
「いいや。神は、ただそこにいるだけだ。神は人に恵みを与えるわけでも、人を呪うわけでもない。
──人が、己に降りかかった幸運と厄災を、勝手に神のせいにしているだけだ。」
彼女は忌々しそうに闇をにらむ。
「アレは、知らず知らずのうちに、ただ“霧の神”の中に入ってしまっただけの人間だ。」
「霧の、神──」
彼女は淡々と話を続ける。
「神は現象から生まれた『生き物』だ。故に、その体は現象そのものであり、その『精』はその現象としての特徴を強く持つ。そして、神の『精』に長く触れていると、触れている生き物は神のその特徴を帯びてしまう。」
「特徴を、帯びる??」
「……たとえば、
「……じゃあ、霧の神の『精』に触れているとどうなるの?」
「霧の神は、“微小な水滴が空気中に漂っている”──霧という現象から生まれた神だ。その特徴は“漂う”というものだからな。霧の神の『精』に触れていると、ただそこで漂うだけの存在になってしまう。」
僕はじっと闇を見つめる。
「『鈴鳴り』は、山に出た濃霧によって道を見失い、遭難した人間だ。長い間神の『精』に中てられたそいつは、自身でも気づかぬうちに“漂う者”になってしまった。神に中てられた生物は、その神の特徴をもった、いわば神の分身みたいなものになる。故に、ただ“漂っている者”というだけではなく、他者を“漂わせる者”でもあるのだ、アレは。」
彼女は瞳を閉じ、静かに言った。
「……アレはただ家に帰りたくて、300年間周りを巻き込みながら帰り道を探している、哀れな生き物なんだ。」
「──」
僕は、目の前にいる闇を見て、悲しいと思った。
あんなにも恐怖を感じた存在であるのに、そんな話を聞いてしまったら、ただ
だって、ただあの神霊は、家を探しているだけだ。
きっとあの鈴の音は、『鈴鳴り』になってしまった人間が身に着けていたものなのだろう。家に帰るまでの、己の身を守るために……
「……かわいそうな、話だね。」
「かわいそう、か……」
彼女は細い瞳をさらに薄く細める。
「──それでも、他者に害を与える存在には間違いないのだ。現に、お前の『精』は半ば『鈴鳴り』に犯されている。」
「……心配、してくれているの?」
僕の言葉に、彼女は目を見開いて僕を見た。まるで、そんなことなど全く気付いていなかったかのような、そんな顔だった。
彼女は小さく口を開けたが、再びきつく口を結び、僕から視線を外した。そして、しばらく闇を見つめてから、自分に言い聞かせるように言った。
「……いや。私のためだ。
『鈴鳴り』はお前を取り込みそこなった。だからヤツはあそこにいる。お前から同類である“漂う者”としての性質が抜けきるまで、『鈴鳴り』はこの入り口に張り付いている。玄関に『妖』がいるのは、目覚めが悪い。」
「……そうなんだ。」
奇妙だと思った。
彼女の言動は矛盾しているような気がしたからだ。具体的にどこが、と言われるとはっきり言えないけれど、嫌っているようで憐れみ、突き放すようで暖かかった。彼女が僕のことを心配してくれている、というのはなんとなくわかった。けれど、それだけじゃない。何かうまく言葉ではいえない、曖昧模糊とした何かが、そこにある。
それに、僕は彼女に生まれて初めて会う。けれど、彼女はどうやら僕を知っているようなそぶりを見せる。いや、僕を知っている、というのは言い過ぎかもしれない。『精』が見えると言ったとき、彼女は「お前が、そうか」と言っていた。僕自身ではなく、僕に関わる何かを知っている──そんな気がする。
けれど、そんなことは関係なく──
「でも──」
「なんだ。」
僕の言葉に、彼女は視線を向ける。清らかで滑らかな美しい瞳に、僕はまっすぐ言った。
「助けてくれて、ありがとう。」
「……そうか。」
再び視線を外した彼女に、僕は言った。
「……じゃあ、僕はしばらく外に出られないんだね。」
「ああ。だが、お前の祖父──は、おそらく大丈夫だろう。」
「どうして?」
「……私はハクを知っている。お前の体からは、あいつの臭いがした。何があったのかは知らないが、お前の傍にハクがいないと言うことは、ぎ──」
彼女は小さくため息をつき、言葉を紡ぎ直す。
「ハクは、お前の
「……」
ああ、やっぱり。
この人は、
僕は少しほっとした。何も知らない人ではない。
じいちゃんとハクを知っているということは、やっぱり
「確かに。ハクは面倒見が良くて優しくて強くて頼りになる奴なんだ。それに──」
僕は彼女に笑って見せる。
「ハクは、僕の親友なんだ。」
「──そう、か……」
「まあ、じいちゃんを託したっていうより、置いてきちゃったって感じなんだけれどね。」
僕は頭を掻きながらハクのことを思う。
帰ったら絶対怒られる。ハクのことだ。出会い頭に僕の額に頭突きをかましてくるに違いない。
「まあ、でも、今はハクに頼るしかないのかな。」
「……ああ。」
「──」
彼女の横顔は、何かに耐えているような、ひどく悲愴なものに見えた。それが何かは分からない。それに、どう言葉を掛ければいいかは分からなかった。
けれど、次の会話をどう切り出すのかは分かっていた。
千恵とハク以外に、初めて出会った“いい”『神霊』。なら──
「じゃあ、これから少しの間、君の世界でお世話になるんだね。だったら──」
僕は泡の中から手を差し出し、彼女に微笑んだ。
「僕は
「……」
彼女はしばらく黙って僕の手を見つめていたが、観念したかのように、彼女は自らの名を名乗った。
「
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