第6話
5回ほど移動を繰り返すうちに、僕は街が傾いていることに気が付いた。
緩やかではあるが、徐々に僕は坂を上っているようだ。そして、穏やかな水流が存在していることも分かった。幸いにその流れは下から上に、この街を沿うように流れている。
「よし、だったら流れに乗って上を目指すぞ。」
そう意気込んでからさらに15回繰り返したとき、僕は自分のやっていることに自信を失っていた。もうかれこれ数百メートルは移動している。こんなに移動しているのに、水面が見えてこないのはどういうことだろうか。
いや、そもそも、ここは僕の知っている世界なのだろうか。家を包むような泡も不思議だけれど、なによりこの巨大な水底の街の存在を、僕は知らない。あの山の近所にダムが建設されたなんて話は聞いたことがないし、そもそもこの街は全体的に江戸時代や平安時代のような、そんな時代錯誤なところがある。それと──
「随分と『精』がすくない……」
藻や魚、カニなど小さな生き物たちの『精』は確かにある。しかし、その数は多くは無いし、全体的に
「いったい、何があったんだ──」
家の中に、小さな毬がある。色あせてはいるが、まだその形はしっかりと保たれている。持ち上げると、中から綺麗な鈴の音が聞こえてきた。
「……」
きっと、ここには子供が住んでいたんだろう。可愛らしい桜の花を彩った、白い毬。女の子の遊び道具としては最適だ。
なのに、どこの家も生活感がない、綺麗な“無”の臭いがする。
けれど、この毬があるおかげで、この家はいくらか安心できた。誰かが生きた証が、やっぱりここにあるんだと思うと、何故かほっとした。どうやら僕はこの水の底に1人でいて、寂しいと思っているのかもしれない。
たったの1,2時間だ。
けれども、ここはとてつもなく心細いところだと思うようになった。誰かが住んでいたのだろうけれど、その痕跡がまるでない。世界から忘れられてしまった空間。あるようで、ないような、そんな部屋だった。
「──あるようで、ないような──」
僕は毬を持ったまま、次の目的地を定めようと足を踏み出す。
と──
「!?」
柔らかい感触。続いて、踏み出した足の先から、一気に体重が下に抜ける。
床を踏み抜いたのだ。
何度も移動を繰り返している間に、注意力が散漫していた。そのせいで、僕は泡の外に放り出されてしまった。
まずい。
空気を十分に吸う余裕がなかったせいで、体に力が入らない。
それに、疲れも取れきっていない。
体が言うことを聞かない!
見る見るうちに、さっきまでいた部屋が遠ざかっていく。僕は歯を食いしばり、腕と足を懸命に動かす。しかし、もがけばもがくほど、空気は体から薄れ、体は沈んでいく。
そして、沈んでいくさなか、ようやく僕は気が付いた。
そう、僕は
床の下にあったのは大地ではなく、果てしない水の塊だったのだ。さっきまでずっといたあの街は土の上に建っていたのではなく、
僕は焦った。
この街の下は、
それが僕の心を恐怖のどん底へと突き落とす。怖くて背後を振り返ることができない。もはや先ほどまでの部屋にたどり着くことはかなわないけど、それ以上の決定的な恐怖を突き付けられる気がしたんだ。
今なお街の遥か下へと沈んでいるこの感覚だけで、もういっぱいだ。これじゃあどうあがいたって、水面どころか空気にすらありつけない!
「──」
身体の空気を使い切り、僕は水の重みに負けた。
薄れ始める意識の中で、僕は遥か上空を見上げる。もうそこに日差しはない。街によって太陽の光は遮られ、暗い天井が広がっている。
何を、やっているんだ、僕は。
じいちゃんを助けようとして、なんで知らないところで僕は溺れているんだ。あのままじいちゃんとハクと、一緒に叔父さんを待っていればよかったじゃないか。結局、
でも動かずになんて……
いや──本当に馬鹿だ。何がしたかったんだ、僕は。
僕は遥か彼方の光に手を伸ばす。
どうすれば、あの天井の向こうに辿りつけるんだろう。
どうすれば、助かるんだろう。
僕は──どうすれば、いいんだ?
「面倒くさい客だ」
声が、した。
渓流のように瑞々しく、清らかで強い、澄んだ声。春の小川のように穏やかで冷たく、それでいて海のように深く美しい声だった。
その声が聞こえるや否や、僕の体は不自然に上昇する。
背中を突き上げる巨大な水圧。滝に打たれた時の衝撃を感じながら、水を切る振動が骨に伝わってくる。みるみるうちに街の底が近づき、そして──
「ガハッ!」
僕は、踏み抜いた部屋へと押し戻された。
肺と胃から水を吐き出し、僕は床に倒れ伏す。
「──ゲホッ、た、助かった……」
僕は空気をこれでもかというほど吸い込み、全身に酸素を送る。そして安堵の溜息が出るほどにまで落ち着いたとき、僕の背後から、あの声がした。
「──まったく、次から次へと面倒ごとを起こしてくれる。
どうしてじっとしていられないんだ、人間って生き物は……」
その姿は天女のようだった。
白く細い首に、細めの頬。海のように濃い藍色の瞳が、その乳白色の肌に映えて宝石のように輝いている。背の中ほどまで伸びた髪は群青に染まり、その先は水に溶けるように薄くなっている。容姿端麗、仙姿玉質。白い肌に桔梗色の着物が映えた、華奢で美しい女性だった。
だが、彼女はきっと人ではないと、彼女の『精』が告げていた。
人生を変える
であるならば、この時が間違いなく、僕の“運命”であろう。
中学最後の夏休み。その始まりに、僕は、彼女に出会ったんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます