第05話


「碧、具合はどう?」


──誰?


「ほら、寝てなきゃだめでしょう?」


柔らかな羽毛の布団が、そっと肌に触れる。爽やかな石鹸の香りが、彼女から香ってくる。彼女はベッドで横になる僕の手を取り、驚いて言った。


「まあ!とっても冷たい手。」


太陽のような穏やかな温もりが、光とともに彼女から僕に流れ込む。


「大丈夫、すぐによくなるわ。」


彼女は微笑み、僕に語りかける。


「だから、おやすみなさい。」


 乳白色の天井、そよ風に揺れる白いカーテン。

真新しいベッドの香り。


ああ、これは──





「──母さん」


 朝。僕は、自分の寝言で目を覚ました。

 見慣れない木目の天井が、視界いっぱいに広がっている。


「──ここは?」


 僕は首を横に動かし、部屋の様子を確認する。

 江戸時代の日本家屋。第一印象はそんな感じだった。部屋は四畳半ほどだろうか。土壁は崩れ、ところどころ骨組みが見えている。足元と左手の壁は障子となっていて、外の青い光を取り込み、部屋の中を涼し気に照らしている。部屋の隅には、漆が剥げた小さな文机が1つ。その上には装飾の消えた黒い小さな燭台が、もの寂しげに置かれている。古びた畳はところどころ藁がはじけ、枯れ草色のわだちをつくっている。

 最近まで誰かが住んでいたような気配はない。

 けれど、誰かがかつて住んでいたはずの気配も感じない。たしかに誰かがこの部屋に住んでいたのは間違いない。けれど、人がかつていたという、古い家ならではの臭いがない。この部屋からは、あるはずのがなかったんだ。どこまでも澄んだ、清らかで美しい水の香りがする。

 僕は麻と綿でできたかけ布団から起き上がり、さらに部屋の様子を確認しようとした。

 と──


「あれ?服が変わってる?」


着ていたはずの洋服はなく、代わりに浅葱色の着物が着つけてあることに気が付いた。見たこともない着物だし、サイズも小さく合っていない。


「これは……いって!!」


 窮屈な着物を緩めようと力を入れた瞬間、全身に激痛が走った。

全身打撲、というやつだろうか。足がしびれた時のような電流が全身に走り、骨を突き刺すような痛みが僕を襲う。


「~~~~~!」


 僕は布団の中で一通り悶えた後、自分の体が包帯でぐるぐる巻きになっていることに気が付いた。どうやら誰かが手当てをしてくれていたようだ。傷だらけの腕や指に、余すところなく丁寧に包帯が巻かれている。よほど几帳面なのか、包帯は全て等間隔で巻かれており、白と影の淡く美しい縞模様を描いている。血と泥だらけだった口の中は、一切の不快感も痛みもなく、不思議と傷は癒えていた。雨に濡れて硬くなっていた髪は、陽だまりの猫の毛のように柔らかになっている。


「誰が、助けてくれたんだろう。」


 僕は記憶をたどる。

あの妖から逃げているさなか、崖から転落したことは覚えている。それは覚えているのだけれど、その先が分からない。転落した後、僕はのだろうか?あの体を包む冷たい感触は、血だったのだろうか。

 僕は布団の中で小さく首を振る。

いや、そうではないだろう。もしそうであれば、僕はとっくに死んでいる。ここがあの世だというのなら、わざわざ治療を施す理由はないと思う。だったら、僕はまだ生きてこの世にいる。なら、あれは血ではなく──


「水、か。」


 落ちた時の、硬い衝撃と、その後に広がる柔軟な感触。ああ、あれは昔、川に飛び込んだ時のものによく似ている。ということは、僕は池か川かに落ちたのだろう。そして誰かが僕を見つけ、手当てをしてくれたに違いない。

 安心した僕は閉じた障子の向こう側に興味を抱いた。


「……池が、あるのかな?」


 障子を透過する光は、ゆらゆらと万華鏡のように揺れている。水面を移したかのような穏やかで清らかなその模様に、僕は見惚れた。生まれては消え、消えては生まれる光の筋。その静かな動きを見ていると、体の痛みや疲れが消えていく。


「──違う!」


 意識が薄れそうになった瞬間、僕の目の前に、冷たい手をした老人の姿が映った。


「こんなとこで寝ている場合じゃない!!雨音あまねのところに行かないと!じいちゃんが──!」


僕は痛む体に鞭を打ち、布団から這い出る。こすれる着物が、皮膚に突き刺さる。まるで針山の上を這っているみたいだ。


「くっそ!じいちゃんを、助けに行かなきゃいけないのに!これじゃ、無理じゃないか!」


僕は畳に拳を振り下ろす。乾いた藁がぼろぼろと崩れ、粉になって包帯の上に霧散する。

 ──いや、まて。

 手当てされているということは、この家には誰かいるということじゃないか!だったら、今やれることは1つしかない。

 僕は一番近くの障子に爪を立て、猫のようにその窓を開ける。


「すみません!誰かいませんか!」


僕は上半身を無理やり起こし、外に向かって力の限り叫ぶ。


「誰か!助けて、ほしいん──です……」


 だけど、僕の声は最後まで続かなかった。目の前に広がる景色が理解できず、言葉はその勢いを失った。


「え?」


 部屋の外にあったのは、池でも川でも、ましてや庭などでもなかった。

 水だ。水の壁だ。

 障子を開けたその窓の外に、水の壁がそびえていたのだ。


「は?」


僕は訳が分からず、状況を確認しようとその水の壁に顔を近づける。

そして、僕は、もっと信じられないものを見た。


「──は?え?……な、なにこれぇ!?」


 街だ。街がある──!

水の壁の向こう側に、水に包まれた街がある!

江戸の長屋のような素朴で穏やかな木造の家が、幾重にも重なり、連なっている。


「──」


 僕は唖然として水槽の中の街並みを見つめた。

 以前テレビで湖底に沈んだギリシャやエジプトの遺跡を見たことがあるけれど、目の前の景色は、まさにそれだった。屋根の上を泳ぐ小魚、苔の生えた柱。藻の生えた道の中を、親指ほどの小さな沢蟹が歩いている。差し込んでいる光は、きっと太陽の光なのだろう。上を見上げると、プールの底から空を見上げた時のように、その光は揺らいでいた。

 揺らめく光の帯が、水底の街を静かに照らす。その様は、自分は本当に死んでしまったのではないかと思うほどに、美しかった。


「ここはいったい……」


 僕はそっと水の壁に触れる。


「つめたっ!」


3月の始め。雪解け水がようやく土に染みこんできた頃の、谷川のような冷たさだった。7月末なのにこの部屋がこんなにも涼しいのは、この水のおかげなのだろう。


「本当に、水、なんだ……」


 僕は指についた水の感触を確かめる。艶やかで粘りのない清水だ。僕は再び水の壁に手を近づけ、そっとその壁の中に手を差し込む。


「冷たい──」


僕は水の中で指を動かし、手を握ったり閉じたりした。不思議と水の中では痛みを感じない。むしろ、痛みが水に溶けていくようで、胸のすく快感を覚えた。僕は腕を水の中から出して、その水を掬う。


「──おいしい。」


濁りも雑味もない、すっきりとした水の味。後からやってくるわずかな甘味を感じ取りながら、僕は深く息を吐き出した。

 清らかな水は、僕から不安と焦りを洗い流した。そして僕はもう一度、水の街並みを眺める。


「ここは一体……何?」





 水を飲んだ後は不思議なことに体の痛みを感じなかった。僕はこれ幸いと、調査を開始した。

 まず自分のいる部屋の状態を確認すると、どうやらこの部屋は巨大な泡の中にあるということが分かった。そして、水の壁の向こう側は本物の水であり、顔を突っ込んで息をしようとしても、溺れるだけだということも分かった。

 次に、僕はこの泡の中から街に向かって助けを求めた。

しかし、応答はない。どうやら声の届く場所に、僕を手当てした人物がいるわけではないようだ。

 そこで僕は、この泡から脱出する方法を考えた。ここでいつまでもじっとしている訳にはいかない。身体が動けるようになったのだから、一刻も早くじいちゃんのところに行かなくてはならない。水中に差し込む光の傾きを考えるに、どうやらもう朝8時を回っている。


もし最悪の事態になっていれば──


 僕は首を振ってその考えを振り落とす。向こうにはハクがいるし、おじさんも帰っているはず。そんな事態にはなっていないはずだ。

 でも、確証がないという状況が、僕の身体を動かした。とにかく戻ることを考えなくては、と。

 脱出する方法として真っ先に思いついたのが、泳いで水面へ出ることだった。太陽光が差し込んでいるのだから、ある程度水面には近いと思った。浮上するだけであれば、そこまで体力も必要ないと、そう思った。


 浅はかだった。


勢いよく水中に飛び出し、その勢いのまま溺れた。水面の影すら見る間もなく、息が続かず慌てて引き返した。


「思ったより水面が遠い……」


 次に考えたのは、別の部屋までの移動だった。

というのも、その溺れかけて部屋に戻ってくるとき、他にも泡に包まれた家や部屋があるのを発見したからだ。数部屋程度の距離であれば、今の体力でもたどり着ける。


 そう思った僕は、今、三つ隣の家で死にそうになっている。想像以上に水が重い。心臓が今にも爆発しそうだ。


「けど、いけない訳じゃない。これを繰り返して水面に近いところにたどり着ければ、水上に出られるはずだ。」

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