第04話
家の壁を貫き、土砂が部屋を飲み込む。
田畑を砕き、川を埋め、土砂はあらゆる人の痕跡を埋め尽くす。巻き込まれれば、人間などひとたまりもない。
全身を強打する岩の濁流。
息をすることもできず、身動きなど1ミリたりともとれるわけもない。瞬きの間に奈落の底へと、それは人間を引きずり込んでしまうものだ。
そう、
「──ハク!!」
眩い閃光。太陽のごとき強くあたたかな純白の光が解き放たれる。
光は流木を割り、岩を砕き、土砂を竜巻のように吹き飛ばした。そして光は僕を包み込むと、曇天に向かって高々と吠える。その純白の光は筋となり、竜のように雨を駆けあがる。そして雲に鼻が着くほどにまで昇ると、その向きを反転させて瞬く間に大地へと降り立った。
「げほっ!」
僕は口の中から泥を吐き出す。小石と木の枝が口の中で暴れまわり、血の味がにじんでくる。
「大丈夫か、碧。」
白い光を帯びたハクが、心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。僕は最後の砂利を吐き出すと、小さく笑った。
「うん。大丈夫。ありがとう、ハク。ハクの“力”がなかったら、今頃死んでいたよ。」
「──そうか……無事なら、いい。」
ハクは、雨音にかき消されそうな小さな声で、そう呟く。その太く長い背中は少し嬉しそうで、そしてどうしてだか、少し寂しそうだった。
彼は視線を僕から逸らし、雨に濡れるもう一人の人物を見る。
「銀灰の奴、気絶しているな。」
「じいちゃん大丈夫!?」
僕は慌てて灰色の祖父に駆け寄る。心臓の鼓動、呼吸の有無。学校で習った、付け焼刃にもならない浅い知識を頼りに、僕は命に別状がないことを確認する。
「どうだ、相棒。」
「うん、大丈夫──だと思う。ケガもしてないし。でも、念のため病院には連れていきたいな。そろそろ鉄叔父さんも仕事から帰ってくるころだし、それまで雨の当たらないところに移動しよう。」
「そうだな。」
僕はハクと協力して、じいちゃんを近くの大木の根元に運んだ。その体は温かいが、その顔に元気はない。
「……」
僕とじいちゃんをあの濁流から救ったのはハクだ。
ハクは土の『精』を操れる。だから、土をある程度自由に操ることが出来るらしい。本当なら、術者である僕がその力を借り受けて、逆にハクとじいちゃんを救わなければならなかった。
けれど、僕にはまだそんな力はない。
千恵の修業は『精』を見分け、対話するものばかりだった。だからハクの力を、本来の用途で借りる術を、僕は身に付けられていない。
鉄叔父さんがまだ仕事で帰っていなかったのは幸いだ。いくらハクに土を操る力があっても、一瞬で3人同時に助け出すことは不可能だ。彼の『精』は、そこまで“大きく”ない。
「ハク、疲れてない?」
僕は木に巻き付くハクに、そっと問いかけた。
「あん?ああ、大丈夫だ。気にすんな。」
「……」
ハクは素っ気なく言うと、眠そうに瞼を閉じる。
嘘だ。
神霊の異能力は、神霊自身の『精』の大きさに依存する。使える効果の範囲や時間が変わるし、使うたびに『精』を消費する。今、ハクはもともと少ない『精』を使いすぎて、蝋燭程度の小さく幽かな光になっている。
術者が精霊の力を借りて術を行使する場合、自分の『精』を精霊に分け与えて、精霊が疲弊しないように調節するのだそうだ。だけどそれはやはり、その術を使えるだけの技量を持った術者にしかできない。今の僕に、そんな技量はない。
僕はじいちゃんの手を握る。皺だらけの手は水分を含んでふやけ、不気味な柔らかさを感じさせた。
「──体温が、下がってる……」
胸が、ざわついた。
自分の手足から、血の気が引いていくのを感じた。
──似ている。
両親の手から、そのかすかな温もりが消えていった、あの時に。
僕は空を見上げる。
どこまでも暗く重い曇天の夜空。手が届きそうなほど重く自分達にのしかかっているのに、それでいて石を投げても当たらない遠い存在。雨は弾丸のように容赦なく降り注ぎ、見上げようとする顔をたたきつける。
「
僕は瞼を閉じ、深く息を吸い込む。雨の大気を体いっぱいに感じ、その気配を探り出す。
「あそこに、いる──」
山の頂上付近。千恵のいる場所よりももっと奥、ここから南東の方角に、一番色の濃い“雨の色”がある。きっとあそこに、この雨の主、雨の神である雨音ちゃんがいる。
「ハク!!」
僕は泥だらけのズボンをめくり、頬の雨をぬぐう。
「じいちゃんを、頼む!」
僕はそういうと、ハクの返事を待たずに駆けだした。
絶対に、ハクは僕を止める。
僕は雨の山を、一度も一人で出歩いたことがない。そんな危険な行為を、相棒が許すはずがない。けれど、ハクは衰弱しているし、ここでハクと一緒に出て行ってしまっては、おじいちゃんを見る人がいなくなる。かといって、僕が残っていても、何もできない。
だったら、僕が雨音の下にいって、この雨を少しでもいいから弱めてほしいと願い出るしかない。
この雨は雨音ちゃん
──いや、そうでないと、困る。
そうでなければ、じいちゃんは死んでしまう!
◇
僕は一寸先も見えない暗闇を走った。息は荒く、動機も激しい。脚は鉄のように重く、頭は釘を打たれているように痛い。それでも、僕は走り続けた。歩みを止めれば、じいちゃんは死ぬ。それだけは、絶対に嫌だ。
たとえ星の光がなくとも、『精』の光は見える。僕はこの山に根付くすべての命の光を頼りに、暗雲に光る神の『精』を追った。
けれど、走っても走っても、その光に手が届かない。
いつまでたっても、彼女は雲の上。
近づいているようで、いつまでたってもその距離は縮まらなかった。
「──そこにいるようで、いないようなもの、か。」
僕はハクの言葉を思い出す。思えば、
僕は足を止め、荒れ狂う自分の鼓動を押さえつける。
「──千恵のいた場所は、あっちかな。」
千恵のいる場所に行けば、もしかしたら向こうからくるかもしれない。
そう思って、僕は千恵がいるはずである場所を眺めた。
だが──
「──え?」
僕の口から、不安が吐き出た。
おかしい。ずっと走っていた方向から考えれば、千恵のいる方角は右手に見えているはずだった。けれど、僕の知る限り最も明るい光を放つ千恵の『精』は、そこに無かった。
僕は自分の瞼がまだ閉じているのではないかと疑った。雨粒に打たれながら、僕は必死で瞬きを繰り返す。けれど、何度見ても、そこにあのあたたかな光は無い。
「な、なんで?」
焦りは声を震わせ、鼓動を冷たく打たせた。
背中が急に強張り、無意味に足が動こうとする。
「──まさか、迷った!?」
僕は慌てて周囲を見渡す。けれど、何度見ても、彼女の光は無い。
あの穏やかな光を、僕は完全に見失っていた。冷たい雨が激しく僕の体を打ち付け、僕は大きく息を吐き出す。
「いや、だとしたら、何としてでも雨音ちゃんのところにいかないと──」
僕は天を見上げ、自分がたどり着くべき光を見ようとした。
そしてその時ようやく、僕は異変に気が付いた。
「──あれ?雨音の『精』が、消えた?」
僕は目をこする。流石にそれはおかしい。
こんなに激しい雨を降らせていたとしても、あれだけ巨大な『精』を、この短期間に使い切るわけがない。
それに、異様なほど
『精』は大気にも存在する。だから、どんなに暗くても、大気の『精』を見ていれば、ある程度世界は明るく見えていた。けれど、今はそれもはっきりと見えない。光は薄暗く濁り、その輪郭などもはや見えない。まるで濃い霧で覆われてしまったような、そんな闇が、自分の前に広がっていた。
そして、僕ははっきりと、その音を聞いた。
鈴だ。
熊避けの、太く高い、乾いた鈴の音だ。
その音が、森の奥、暗黒の闇の中から、静かに、けれどはっきりと僕の耳の中に聞こえてきた。
「──」
全身の毛がよだつ。
これは、人間じゃない。
氷る様な冷たい気配。
僕は、息をのみ込み、その闇を見つめた。
──濃い。
あの千恵ほどではないにしろ、雨音と千恵に次ぐ強い光を放っている。
その色は黒。この暗闇の中、はっきりとわかる不気味で巨大な漆黒の光だ。
そして、最も恐ろしいのは、その輪郭だ。
その輪郭ははっきりとしているのに、その形が定まらない。
人の姿であったり、ウサギや鹿、蜘蛛や蛾といった生き物の姿に、その形は次々と変わっていく。
まるでいくつもの『精』を取り込んだような、そんな不気味で巨大な『精』だ。
こいつは、危険だ。
僕の体は僕の判断を待たずして、その直感に従った。疲労を忘れ、目的を忘れ、我を忘れ、僕は逃げた。
あれは、『妖』だ。
人間に害を成す存在だ。
間違いなく、あれに近づいたら、殺される!
あの闇から、僕の背後からはっきりと聞こえるあの鈴の音から、僕は必死で逃れようとした。他の生き物たちの『精』はぱったりと見えなくなった。それが、余計に僕の脚を加速させた。どこを走っているのかなんて、もう分からない。僕は耳をふさぎ、震える体を動かし続けた。それでも、その鈴の音が耳から離れない。カランコロンと乾いた鈍い音が、無慈悲に脳髄に染みこんでくる。
寒い。痛い。怖い。
吸い込んだ大気が、氷の針となって肺を貫く。
打ち付ける雨粒が、手足の感覚を奪っていく。
それでも、僕は走った。
あの妖から、逃げるために。
雨音は空を切る音と混ざってもう何も聞こえない。
濡れた木の葉が、枝が、顔を、腕を、鞭のように叩いてくる。
顔も手足もきっと傷だらけだ。
今すぐに足を止めてしまいたい。
今すぐに楽になりたい。
諦めて、しまいたい。
けれど、この足を止めたら、両手を振ることを止めてしまったら――
後ろにいる妖に
嫌だ。
そんなのは、嫌だ。
妖に殺されるために、僕はこの森に来たんじゃない!
もっと早く、もっと遠く!
山をかけ上がれと命令する僕の脳が、金切り声を上げている。
死んでしまうと、叫んでいる。
後ろを振り返る暇などない。
恐怖から逃れるために、ただひたすら夜の森を、転げるように走り続けた。
だから、浮遊感を認知するのに時間がかかった。
ほんの1秒。
たった1秒。
でも、無限の1秒。
夜、星もない風雨の山林。
足を踏み入れたこともない闇の世界を、全力疾走していたんだ。
目の前に崖があるなんて、気付く訳がなかった。
崖に身を投げ出した──
それを意識した後は、一瞬だった。
頭が真っ白になるより早く、僕は冷たいものに、全身を包まれた。
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