第03話

 雨。無数の白糸が、天から地面に向かって吸い込まれていく。風はなく、雨粒が木の葉を打つ音が小気味良いリズムを奏でている。

 湿った土の匂いが家の中に充満するころ、僕の隣にハクが現れた。


「こりゃあ、夜は荒れるぞ。」


鎌首をもたげるハクに、僕は相槌をうつ。


「今年は帰ってくるの早いね、雨音あまねちゃん。つい先月お別れを言ったばっかりなのに。」

「……そうだな。どこにいるのか見えるか?」


ハクの言葉に、僕は千恵の住む山のさらに奥を指さした。


「うん。あっちの山の奥が一番から、きっとあそこにいるんだと思う。」

「ほう?やっぱり100年前より、帰り道がちょっと北にズレてんな。」


ハクは赤い瞳を細める。


「まあ、あいつは自分の意志で移動することはできないからな。風の流れに身を任せるだけのことだ。もしかすると、何百年か後には、ここには来なくなるかもな。」

「そうだね。でも、それはちょっと悲しいね。」

「……だ?」


 ハクは僕の顔を、険しい顔で見る。


「え?いや、雨音に会えなくなるのは寂しいだろ?」

「……なあ、碧。」


ハクは僕の膝の上に体重をかけ、まっすぐ視線を合わせる。


「雨音と仲良くなるなとは言わない。言わないが、あいつにあまり心を許すなよ。」

「……それ、仲良くなるなってのと、何が違うの?」

「気を付けて接しろって言っているんだ。」


ハクの言葉に、僕は目を細める。


「何、それ。なんか感じ悪いし、ハクらしくないよ。ハクはいつも言っているじゃん。友達を──大切なものを守れない奴は、男じゃないって。雨音は友達じゃないの?」

「そりゃあ、あいつとは腐れ縁だ。だが、それでも、心を許していいってほどじゃねえ。あいつとオレ達は、違うからな。」

「それは、僕らとは違う『生き物』だからってこと?」

「そうだ。」


僕の質問に、間髪入れずにハクは答える。赤い舌を出すこともなく、彼は重々しく言葉を綴る。


「あいつは、お前のようなではないし、俺や千恵のような精霊でもない。物でも、死者でも、生物からでもなく、“から生まれた『生き物』”。

それが、『神』と呼ばれるモノたちだ。」


僕はすかさずハクに言い切る。


「けど、『神』『生き物』だろ?」

「そりゃそうだが……」


ハクは目を泳がせ、大きくため息をつく。


「『神』は“現象”そのものだ。虹と同じように、見えていてもつかめない。そこにあっていないような存在だ。だからあいつらは、自分たちが“生きていること”を実感したがる。その結果として、あいつらは己以外の他者に干渉する。

 それが他者にとって幸運であろうと、厄災であろうと、な。」

「……」

「『神』とは。雨の『神』であるあいつがオレ達に干渉するのは、別にオレ達と仲良くしようとしている訳じゃない。」

「でも雨音は、ハクの言う『神』とは違うと思うよ?彼女は普通に会話するし、『精』が見える僕のことを心配してくれているようだし?」

「だからこそ、なんだが……」


ハクはそういうと僕の背後に向かって叫ぶ。


「おーい、銀灰じじい、お前からもなんとか言ってくれ!」


 紺銀灰。僕の祖父であり、僕を術者として育てた恩人だ。ただ、短い白銀色の髪に頬骨の浮き出たその様はちょっと怖い。怒ると鬼みたいになってさらに怖い。ようは、ちょっと怖めの、近寄りがたい人だ。けれど、その灰色の瞳はどこまでも優しく、穏やかなおじいちゃんだ。


「なんだ、碧。ハクに酒でもせがまれたのか?」

「違うわ!!」


 じいちゃんはハクに向かって小さく笑うと、僕とハクの隣に座る。灰色の着物から香る煙草の臭いが、つうんと臭う。

 じいちゃんは漆塗りのキセルを咥え、雨を見ながら僕たちに問いかける。


「それで、雨音がどうとか言っていたようだが?」

「うん。ハクがさ、雨音に心を許すなって言うんだよ。ただ、神だからってだけでさ。そんなの、心が狭いと思う。」

「……そうか。」


 じいちゃんはそういうと、煙草を吸うばかりで何も言わなかった。

 想像以上に表情を変えなかったじいちゃんに、僕は少しむっとした。じいちゃんは術者だ。雨音とは僕以上に古い付き合いのはず。だったら、もっと何か言えたんじゃないだろうか。


「──別に、他の『生き物』と親しくなったっていいでしょ?大体、人間である僕と雨音が違う生き物だから近づいちゃダメって言うのなら、神霊であるハクと僕だって別の生き物だよ?」

「それは──」


ハクは何かを言おうとしたが、その口は皺だらけの手によってふさがれた。


「……」


 ハクは、自らの口をふさぐ老人をじっと見つめる。

その瞳には歳を重ねた人間の力強さがあった。済んだ瞳に宿る、小さいがはっきりとした光。その光を見ると、ハクは返事代わりに鼻から小さく息を出し、部屋の奥へと這っていった。


「碧。」


 じいちゃんはゆっくりと薄暗い顔を僕に向ける。


「おまえさんは、雨音といて楽しいか?」

「え?もちろん!」

「そうか。それは良かった。……儂もふらりとやってくるあいつと語らうのが本当に楽しくてな。若い頃は夜が明けるまで町や森の話をしていたものだ。」

「ふうん。」

「だがな、碧。

──雨音は『神』だ。親しき隣人には成り得ても、それ以上には、決してなってはならないモノたちだ。」


 低く、荘厳な声が、僕の心に突き刺さった。

雨音あまおとが消え、体が冷える。静まりかえった家の中を、冷たい空気が這っている。


「え?何を、言っているの、じいちゃん。」


問われた彼は、ゆっくりと雨に打たれる庭に視線を移し、思い出すように言った。


「『神』。それは生物とは違う『生き物』だ。

 現象から生まれた存在である彼らに、我々人間の常識など通用しない。

『神』は気まぐれだ。

 酒を酌み交わし、夜通し語らっていたとしても、次の日には自分を殺そうとしている時もある。」

「──そ、そんなこと、雨音あまねはしないと思うよ?」


 僕は彼の様子を窺うように、じっとその横顔を見つめる。

彼はゆっくり白い煙を口から吐き出すと、ふっと笑う。


「……まあ、とりあえずは気を付けろということじゃ。

 雨音は──であるからな。お前の予想打にしないことを、息を吸うようにするんじゃよ、あの娘は。」


じいちゃんはしわしわの手で、僕の頭を硝子細工に触るかのようにそっと撫でた。

 細いけど力強い腕。小さいようでいて大きな手の平。


僕は、頭をなでるその手が、妙に重いと思った。



「雨音のやつ、随分と張り切ってるな。」


 夜、夕飯を食べ終わったハクが、僕の隣で天井を見上げてつぶやく。屋根を打つ雨音あまおとは、もはや弾丸がふりそそいでいるんじゃないかと思うほどに重かった。


「すごい雨だねえ。いつもこの時期はたくさん雨持ってくるけど、今日は一段と多い。」

「あいつ、あれか?まさかダイエットでもしてんのか?落としすぎだろ。……こんなに降らせて大丈夫なのかよ。」


ハクの言葉に、僕は小さく笑う。


「やっぱり雨音あまねがいないと寂しいんでしょ?雨が完全に止むと、彼女はまたから。」


少しイラッとしたのか、ハクは尾で僕の腹を叩く。


「ちげーよ。あいつの心配じゃない。」

「いたた……。じゃあ、誰の?」

だよ。」


 そう、ハクがいった瞬間だった。

 空気を割る強烈な爆裂音。

 明かりがはじけ飛び、部屋の中は暗闇に包まれた。


「わっ。停電!?」

「落雷か。蝋燭でも持ってくるか?」


 よくあることだ。

 別に雨音あまねが来たときに限ったことじゃない。嵐の日、落雷で停電するなんて、どこの家でもあることだ。僕は立ち上がり、何度もしてきたように手探りで家具の位置を確かめる。


「いや、大丈夫だよ。僕が行く。」


 その時だ。

張りつめたハクの声が、部屋に響き渡ったのは。


「まて。」


ハクの言葉と同時に、僕も異変を察知した。

足の裏に、何か今まで感じたこともない小さな振動が走っている。蟻が足の裏を歩いているような、じりじりとした小さな触覚。その振動は息を吸う速度よりも早く、心臓にまで伝わる巨大なものへと変わっていく。


 揺れる電球、割れはじめる食器。

天井の隙間から埃が舞い落ち、壁が悲鳴を上げ始める。

そして、家の奥から全身を震わす竜の唸り声を聞いたとき、ようやく僕たちは事態に気が付いた。


そう、これは──



「山崩れだ!!」




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