第5話『勉強と晩御飯』

 葉月第一高校には、「スポーツマンたる者、文武両道は当然である」という校訓が、開校当時から存在している。


 バスケットボールの強豪校としてのイメージが強いが、実はそうではない。

 この学校は運動系部活動に力を注いでおり、毎年のように全国出場を果たしている有名校だ。

 つまり、バスケットボールだけの高校では決してない。


 この学校を卒業した者の八割は、プロとして日本で──世界で活躍している。



 しかし──だからと言って勉強を疎かにして良いことにはならない!



「うにゅにゅぅぅ……も、もう全然分かんないよぉ〜」


 そしてここに……身体能力ばかりズバ抜けて、尚且つ勉強嫌いの少女がいた!


「開始早々これかよ……」

「ここは日本なんだよ! 英語なんて使うことなんてないもん」


 ふんすか、ふんすかと怒りを撒き散らす妹の姿に、基晴はがっくりと項垂れる。



 そう──妹尾美菜は勉強ができない。



 その知能は、およそ小学校四年生レベルでしかないと思われ、特に複雑な公式が多い数学や科学、外国語など以てのほか。

 ただし美術、音楽といった芸術系の分野だけは割と平均以上をキープしている。


 しかし、それだけで学問を修めたことには決してならないだろう。

 美菜が小中学校を卒業出来たのは、ひとえに、この国に義務教育制度があったからだと言っても過言ではない!


 さらに、美菜のその抜群の運動能力が功を奏して、こうして高校に進学できた。

 唯一と言っても良い取り柄が、美菜の人生の九割を支えていたのであった……。


 だかしかし──


「いいか美菜。次の中間考査で赤点なんて取ったら、一週間は部活動を禁止されてその間の放課後は補習の毎日だ」

「ぅぅぅぅぅ………そんなの、イヤだよぉぉ……」

「じゃあ真面目に頑張れ。ほら、次の問題は簡単だから」


 簡単じゃないよぉぉぉ〜、と美菜は潤んだ瞳で泣き言を吐き出す。

 だからといって、中間考査が無くなることはないのである。


「それにまだ入学したばっかりだよ? まだずっと先なんだから……」

「だめ。美菜は今からやるべき」

「なんで美菜だけ、こんな目に………」

「バカだから」

「お兄ちゃんの、イジワル………」

「そうか。だったらこの手錠……ていうかもう足枷? 外せば離れるぞ」

「それは……ダメ! 絶対ダメだからねっ!」


 基晴は心の中で舌打ちした。

 勉強は嫌い、やりたくない。でもお兄ちゃんと離れるのはもっと嫌なのだそう。


「ほらほら、今から予習復習すれば絶対に悪い成績にはならないからさ」

「お兄ちゃん……美菜のこと大切じゃないの?」

「大切だから心配してんの。お前、今後の成績次第では留年もあり得るぞ」


 日本の高等学校に義務教育制度はない。

 つまりそれは、今まで勉強しなくても勝手に学年は上がったが、今後は勉強をしないと留年することを意味している。


「い、イヤだよそんなの!」

「じゃあ勉強しよう。変な成績じゃなきゃ、留年はしないって」

「………が、がんばる」

「なんだよ今の間は………」


 ようやくやる気? を出した美菜に安堵した基晴は、嘆息して一年の教科書を開いた。



 数時間後──


「やっぱり無理だよぉぉ……」


 美菜は根を上げていた……。

 テーブルに顔を押し付けて、まさに疲労困憊な様子で身動きひとつ取れない。

 流石に根を詰め過ぎたかも、と基晴は少しだけ反省した。


「大丈夫か?」

「もうやりたくないよぉ……」

「そうだな。そろそろ晩飯にするか」

「ご飯……?」

「動けるか?」

「………ムリぃ」

「なら……手錠これ、外してくれ」

「んー、分かったー」


 基晴は美菜に見えないように、小さくガッツポーズを取った。

 案外と手錠を外すのは簡単だった。


「因みに、何かリクエストは?」

「んー……お兄ちゃんの作った料理なら、なんでもいいよ」

「『なんでもいい』が一番困る回答なんだけどな」


 基晴は取り敢えず、冷蔵庫の中身などの食材と調味料を確認した。


「よし……少しは頑張ってたからな」


 数秒の沈黙の後、基晴は今晩の献立を決めた。



 それから数十分後。

 すっかり疲れて寝入った美菜の鼻腔に、芳ばしい香りが入り込む。


「んんぅ………おにぃちゃん?」


 水面に浮上した時のように、ゆっくりと覚醒した美菜は兄の姿を探す。

 美味しそうな匂いの正体よりも、やっぱり基晴の方が優先される辺りは美菜らしい。


「おう、起きたか。ちょうど出来たぞ」

「ん? あ、あっ! オムライスだっ!!」


 寝惚け眼を擦っていた美菜は、一気にテンションが跳ね上がる。

 そう、オムライスは美菜の好物の一つ。

 母より料理上手な兄の手作りなので、美菜の歓喜に震え上がっていた。


「はやく! 早く持って来てよー」

「そう慌てんな。ケチャップがまだ──」

「美菜が描くの!」

「……はいはい」


 ふっ、と一つ息を吐く。

 基晴はオムライス二つとケチャップを持って、美菜の待つダイニングに移動する。


「お兄ちゃんのオムライス久しぶりー」

「ほら、テーブルの上の物は退かして」

「はーい」


 美菜は基晴とは違い、きちんとカバンの中に道具を入れる。

 基晴の場合は、そのまま床に置いて放置していただろう。


「お兄ちゃん、スプーンは?」

「あ、忘れてた……。すぐ持ってくるよ」

「もう、早くしてね」

「少しは手伝おうとは思わんのか」


 ただし、美菜は料理に関しては一切手を加えない。兄に任せきりだ。

 別に料理ができない訳ではない。

 兄の料理が美味し過ぎるから、自分の手で作る気にはなれないだけだ。


「ほら、ゆっくり食べろよ」

「うん! いっただっきまーす!!」


 ゆっくりと言ったのに、美菜は掻き込むようにような勢いで食べ進める。

 やれやれ、と肩を潜めた基晴もオムライスに手をつける。


「おいしい……美味しいよお兄ちゃん!」

「それは良かったよ。それより、もっとゆっくり食べなよ」

「うん! はぐっ、もぐもぐぐ……」

「まったく……」


 ゆっくり食べる気はない様子。

 ここまで喜んでくれるのは、作った側としては嬉しさを感じるのは当然。

 しかし、あまりにもガッツリと掻き込まれると、喉つまりの危険が伴うため少しばかり心配になる。


「ぐぐ……っ!?」

「──って、言わんこっちゃない!」


 慌てて水をコップに汲んで、すぐさま美菜の口に流し込んだ。

 迅速な対応だったため、大事には至らずに済んで安堵した基晴は深く長い息を吐く。


「げ、ゲホッ……げほ……」

「たく……だからゆっくり食えって言っただろう?」

「う、うん……けほ、ごめんなさい……」

「何かを食べる時は、ゆっくり味わって食べてくれ。その方が作り手にとっても嬉しいんだから」

「うん……ごめんね、お兄ちゃん」

「分かればいい。ほら、まだ残ってるぞ」


 目線を下にして、明らかに落ちんだ様子の美菜の頭を撫でる。

 しっかりと反省しているようで、基晴もこれ以上は何も言わなかった。

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