第6話 淡い思い出
「私、西崎くんは引っ越したと思ってたの……。ご家族のこと、あの、その……聞いたの……、それで大丈夫?」
彼女はそう言うと口をつぐむ。
思えば、彼女と会話が成立した事なんて無かった。
今だって、脳に大量に上がった血流が思考を鈍らせ、僕から言葉を奪う。
顔が熱くなり、流れる汗が頬を伝わるのを感じた。
気付けば、下を向いている彼女の小さな頭が僕の身体に触れそうだった。
僕の肩までしか背がない、地味で背が低い、少し垢抜けたセーラー服を着た女の子。
この子を意識するようになったのはいつ頃からだろうか?
気付けば、自然に目で彼女の姿を追うようになっていた。
それだけで良かった。
ふんわりと柔らかな残酷な時間。
こんなにも近いのに、決して届かない彼女の存在。
それでも抱く淡い期待が僕の心を踊らせる。
「西崎くん?」
彼女の声、その返事の言葉を選ぶのに気が遠くなる。
一秒がとても長く感じられ、それでも時計の針は変わらず進む。
僕は、ピエロにすらなれない。
「また、だんまり」
そう呟くと、手に持ったかばんの中に彼女は手を入れ、ゴソゴソと中身をいじり始めた。
彼女は僕のことをつまらない人間だと思っているに違いない。
実際、愛想がなく暗いのは自分でも自覚していた。
「レジの子、綺麗よね……、彼女できたの?」
「違うよ!」
「返事、はやっ! だよねー、でも」
彼女は少し慌てたそぶりを見せた。
振り返ると、神崎さんは、丁度、客が来たようで買い物カゴに満載された商品を一つ一つ手に取り、そのバーコードをスキャンしている最中だった。
ピッ、ピッ、機械的なレジのスキャン音が店内に響く。
ピッ、ピッ、ピッ……。
「でも仲よさそうだったわよ、あの子が手を振ってるとこ、私……見ちゃった」
「だから、それは」
「違うんでしょ。びっくりよね。はい、これ、借りてた本、返すわ」
かばんから素早く取り出された一冊の本。
苦い記憶が蘇る。
ピーーーー、レジから響くエラー音。
すぐに、天井のスピーカーから業務連絡の放送。
神崎さんの声は未登録商品の価格確認を依頼していた。
早口でイラついた声色で、最後にそれは受話器を置くガチャンという音で締めくくられた。
突然の出来事に驚いてレジに慌てて駆けていく先輩店員達。
店内は騒然とした雰囲気になった。
急いで受け取った文庫本をエプロンのポッケに隠すように入れる。
「それと、西崎くん、夏、同窓会があるらしいわよ、決まったらメッセージ送るわ、番号同じでしょ」
一緒の班になった時、皆で番号を交換したのを思い出した。
「同窓会はいいよ」
僕はバカだ。
「だと思った……。じゃあね」
最後に見た彼女の表情が悲しそうだったことに違和感を感じた。
なぜなら、彼女にとって僕と過ごす時間はつまらないに違いないからだ。
その後は、重い飲料の箱を持ち上げ特売場に積み上げていく。
冷房の効き過ぎで寒いと思っていた店内が熱く感じる。
時折、身体に当たるエアコンの風が熱をもった身体を冷ましてくれていた。
ドンと箱を積む音が耳元で響く。
教育係の高橋さんがドンドンと無言で箱を積み上げていた。
「聞いたぜ、お前のこと」
その言葉で何を聞いたかは想像できた。
でも、なぜ、この人は怒っているのだろうか?
ゆめちゃん店長は、事務室で制服を渡す際、一枚の書類を一緒に渡してきた。
「保護者の同意書にサインを貰ってきてちょうだい」
仕方なく、僕は淡々と事情を話して、後見人のおじさんがサインをする事で納得してもらった。
その時のゆめちゃんの表情もなんだか不自然だったのを思い出した。
教育係の高橋さんは、僕の家族が、もうこの世にいないことを知ったに違いない。
「さやかちゃんは知らないんだろう?」
こくりと頷く。
ドンと箱を積む高橋さん。
「そういうのは、ダメだぜ」
あっという間にレジ前の売り場は完成した。
何がダメなのか、僕には理解できない。
家族の死は、彼女には関係なく、僕だけの問題に違いないのだから……。
休憩室、バイトを上がった僕は、神崎さんと一緒になった。
他の皆より、上がり時間が早い僕らは、長机を並べた小部屋に二人きりになる。
「早く出しなさいっ!」
「ちょっと、やめてって!」
出会い頭に彼女は僕のエプロンに付いたポッケに手を突っ込んできた。
「あら、可愛い本ね」
獲物を手中に収めご機嫌な様子でからかってきた。
「貸してた本を返して貰ったんだよ」
返せよと手を伸ばすも、
「貸してた?」
とその手をかわして、彼女は本を読むようにしてページをパラパラと素早くめくり始めた。
可愛い?
確かに、ブックカバーが少し違う。
いや全然違った。
「手作りのブックカバーなんて付けちゃって、やらしい、返してあげるわよ」
「痛い!」
本の角で彼女は僕の頭を叩いた。
「大袈裟ね、ロリコンのくせに」
関係ないだろ! しかも彼女は同級生だぞ、同い年だ!!
「でも残念ね、本には何も挟まって無かったわ」
「そ、そんなの当たり前だろ、返せよ!」
彼女から本を奪い取る。
そんなの重々承知だよ!
バカ、バーカ!
そりゃ、彼女に本を貸したのが二月だったから、当時は多少期待したさ、ああ、したさ、したさ!
けど、何もなく、というか、言葉すら交わす機会も無く、今日という日を迎えたんだよ!
「ふーん、彼女、あなたのこと、好きかもよ、会計した時、睨まれたもん、迷惑しちゃうわ」
レジは、神崎さんの他にも数台、稼働していたはずで……。
えっ、えーーーー!!
「うそよ! 何よ、顔赤くしてパッカじゃないの、バーカ!」
お腹を抱えて大袈裟に笑う彼女は、「その本、大切にしてあげるのよ。あなたに返す為にわざわざずっと持ち歩いていたんだからね」と言った。
こうして、バイト初日は幕を閉じた。
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