風鈴師椿・起

玉置こさめ

在坂(ありさか)ひびきは、ホームに降りた。グレイに白い縁取りのブレザー。白いシャツにベスト。千鳥格子のスカート。胸元にはえんじ色のタイ。式典用の制服だ。豊かな稜線をたずさえる山間の街では、浮いているように感じられる。薄いねずみ色の革鞄の取っ手を、強く握り締める。目の前を通り過ぎた和服の女性が、ふと足を留めた。

このあたりでは見かけない制服に目を細め、少女に声をかける。

「どっから来ただ」

 戸惑いながらも、少女は返答する。

「へ? わ…私ですか? か、神奈川です」

「遠ぐがら、まあ。そりゃ、こどだねえ」

「え? あ、あの、神奈川です。横浜です」

 出発点がどこなのか、そう問われたのだと思い込んだまま少女は繰り返した。

女性は眦をさげた。

「あ、あの…ええと」

 少女は、取りすがるように掌を伸ばして着物の袂を掴んだ。不案内な土地で、その柔らかな声の人は救いに思われた。

「私、風鈴師(ふうれいし)に会いたいんです。ご存知ですか?」

たおやかな和服美人は、目を見開く。熱のある目つきで、少女を見つめる。

「会えだらいいね。まずね」

 知ってるとも知らないとも言わず、その人が背を向ける。

ひびきは、そちらに向けてお辞儀する。改札を出た。

広沢市(ひろさわし)広沢町(ひろさわちょう)。その街は、扇状地の中央に位置する。山地が遥かに見渡される肥沃な大地。西から東にかけて、ゆるやかな勾配の川が流れる。名は龍(りゅう)成川(せいがわ)と云う。ふもとは古来より鋳物の名産地だ。下流には岩鉄などの砂鉄が運ばれ、鋳物業に必須の原材料が産出される。砂鉄や粘土。漆や木炭も、この川に育まれる。龍成川は広沢の街を豊かにしてきた。この街に鋳物業は深く根付いている。分けても鉄瓶が有名だ。それに次ぐのが広沢風鈴。鉄器の特質を生かした響きの良さが喜ばれる。工芸品の技術の修練、製品の素材は貴重だ。そのため、一般人には手の出しにくい高価な品となる。愛好家は世に限られる。

広沢の土を用いて魔工を経た『風鈴(ふうれい)』が打ち出されて以来、広沢鉄器の名は知れ渡った。魔工とは、魔覚を有する者の力を用いた工芸のこと。

女性に限り自然からある一定の刺激を受容するとそれを再現する者がいる。その感覚を魔覚と云い、その反動を魔力と云う。

風鈴とは、その効果によって、自然のバランスを調整する道具だ。

 ある一定の素養を有する者だけに製造しうる用具で、製作者は風鈴師と呼ばれる。

風鈴師は自然に与する。

まず、風鈴という器物がある。楽器と見るならば、それはあまりに単調な器物であろう。しかし、人々がこぞってその軒先に風鈴を吊り下げ、夏の風物詩と称されるほどに浸透したからには、秘密がある。ただ単調な響きとも思えるその一音には、実のところ妙なる和音が蔵されている。それが人々の耳に快い響きとして残る。涼しい、という感じを呼び起こす。風鈴がもたらすのは、音であって、涼風ではない。肌に涼風を吹流し、暑さを直接慰めるわけではない。涼しさを耳の皮膚で感じるわけではない。風鈴の音は鼓膜で覚えるものだ。

 涼しさとは何か。本来的には、それは大体が肌の表面で覚える知覚現象であろう。耳から入る風鈴の音も確かに『涼しいという感じ』を人に与える。こう言い換えられる。涼しさとは、肌だけではなく、耳で感じることもできる感触だと。その上で、風鈴は確かに効果的な器となりうる。だからこそ、暑い夏にのみ用いられる。風鈴は鳴るものだ。鳴るとは音が響くことだ。無人の場所でも、風が吹けばちりんと鳴り響く。その場にたまたま人がいれば、その人は涼しさを覚える。そこに誰もいなければ、効果したとは見なされない。これが風鈴の効果だ。

 そして、風鈴と呼ばれるものがある。風鈴が為す効果に、限りなく近いものとして、風鈴と涼しさの因果関係は前置きされる。だがそれは通常の風鈴とは異なる器物だ。

 風鈴は効果する。風鈴と同じように、けれど風鈴よりも強烈に空間に効果する。

 無論、人にも。

 少女の目指すところ、そこには冬の風鈴師が住む。



 ☆



 空気はからりと乾いている。足取りの不確かさに少女はいらだつ。山の傾斜のむごさに、膝が痛む。汗が染みてくる。衣服が素肌に絡みつく。革靴のひびきは何度も立ち止まった。今、どのあたりだろう。顔をあげて、伸びをして見渡す。柵もガードレールもない。道の真ん中に移ってあたりを眺める。道路脇の横に杉の丸太を見付けた。椅子代わりに腰掛ける。鞄を足元に置く。深く息を吐いた。視界はもう平面の大地から遠い。広沢の街が一望できた。青く澄んだ空は山々の稜線にゆるく区切られている。風が吹きぬけた。

 山々は広沢の街の屋根だ。龍成川に寄り添って、今はほのかな紅葉に色づいている。

 ところどころ立ち上る煙は鋳物の工房だ。

 人の暮らしと自然とが調和するこの場に於いて、無駄なものは一切ない。

 あるとしたら自分だろうとひびきは思う。異分子だ。

 木々は緻密に息を潜める。どんな秋も山からくるのだろう。風によって、雨によって、自ずから生じる紅色。黄色。山裾までが染められている。山の息遣いのうちに、少女の忙しない脈拍も元に戻った。

林の陰に紅いものがある。明らかに人の手を加えられた造形物だ。竹の一節をすっぱりと切った筒だ。くるりと巻かれた弦で枝に提がっている。筒には真紅の椿が一輪挿してある。舗装された道なりに鬱蒼とあたりを覆う木々。その奥に、少女は目を凝らした。

 椿の掛けられた木の向こうとこちらでは様子が異なる。道が山頂へ向かい急に狭まり、奥で途切れている。夥しい樹木が視界を阻むが、更に奥に、椿の筒が見えた。

 そこに椿を生けた人の名を知っている。確信があった。

 杉の丸太のそばに置いた鞄を取りに戻る。取っ手を掴む。舗装された斜面の林道に分け入って進む。椿の花は標識だ。まっさらな土に、小枝や落葉の降り積もった道。勾配はいよいよ急だ。ある地点へ踏み込んだとき、その香りに気付いた。この山に入ったときからそこにあったもの。土。天然自然。山の裾野から頂へと吹き抜けるもの。山々、田畑、大地から、この山の頂を目指して運ばれてくる清廉な香りだった。細道そのものが、香りを頂上に集めるために敷かれたように感じられる。芳しい香りから造り手の雑念は感じられない。この仕掛けに、少女は足を止めた。

 最初から、だ。

 この山の裾野に降り立った瞬間から、人はどうやらこの仕掛けに導かれる。誰の仕業か。隠された眼差しに心を見抜かれたように、少女は立ち止まる。大きく息を吸い、それから吐いた。

再び歩き出す。やがて林が尽きて、瓦作りの屋根が見えてきた。

風鈴師の邸宅だ。腕木門の引き戸の格子。呼び鈴もない。表札もなかった。

その隙間から広い和式の前庭が伺える。庭に椿の一木が花開いている。枝に風鈴。風が吹いた。



リーーン…



 響いてくる、その音。ここはもう世俗の地ではない。少女は、生真面目な兎が熊に出会ったかのように硬直した。

「あの…すみません」

 返事はない。

「すみません! どなたかいらっしゃいますか」

 悲鳴のような声で呼びかけた。

「おへれんせ。お客様さ、珍しいごともあったもんだな」

 その人が声を発した。低いが、澄んだ響きだ。姿が見えず、少女は戸惑う。入っていいのだろうか。

 格子の門を開いた。述べ段が、椿の一木をL字に囲んでいる。草木の屋敷だ。一階の屋根は胴板で庇が深い。二階は瓦葺。雑木林に囲まれた庭の端には溜め池がある。そこにかかる小さな石造りの橋。その向こうに据えた縁台が、その人の居場所だった。

渓流を思わせる木目の縁台。その上に胡坐をかいていた。一目でその人が普通の人と異なるのはすぐにわかった。とび職のような格好だ。体にぴったりと沿った腹掛けに股引。胸は隠れているが肩から背にかけて交差している紐の下は背があらわだ。そしてその肩から腕にかけて緋色の椿が入墨されていた。首のまわりには桔梗にも似た深みと菫にも似た優しさのある紫の染物を襟巻きにしている。その裾が縁台に垂れて広がるほどの長さだ。透明な明るい光が、漆黒の短い髪に宿る。傍らには、煌びやかな細工の箱が置いてある。その箱から、一条の煙が天を目指している。無造作に剪定された椿の枝と、花と鋏。女が、少女を一瞥する。何を思ったのか、しめやかに唸った。

「おめさは、ユリノキであんすね」

 手の甲に、紅椿の花弁が花開いている。和彫りの刺青だ。腰のあたりに長方形の革のケースを提げていた。長細い筒がケースと対で、双方を繋ぐ緒の真ん中には銀製の金具が光る。それをウォレットチェーンでつなぎの腰に引っかけている。筒をまさぐって、蓋を開いた。取り出されたのは細い煙管だ。

吸い口と雁首は無垢の銀。羅宇は真っ赤な朱塗りで、椿の文様が刻まれている。ケースから髪の毛ほどの太さの刻み煙草を摘み出す。指で丸め煙管の火皿に詰める。盆の上の火入れの壷に近づける。火が点る。煙がのぼる。

その行方を目で追うと、煙管の吸い口を薄い唇の隙間に置いた。なだらかな鼻。頬の丘は清冽な乳白色。瞳は、夜のように闇を蔵する藍の色。それは煌いた。湖の表面が輝くようだ。水であるものが、硬質な宝石に等しい光を湛えるようだ。硬直した客人をそのままに、風鈴師は煙を束の間吸う。ふっと吐いた。

「ゆりのき?」

「ふふ」

 袖口からのぞく刺青に少女は沈黙する。 動けなくなった。ここまで来た。それを実感する。

この女のいるところ、ここに来た。全身を支配する情動。皮膚が粟立つ。動揺を心に仕舞いこむ。何も映し出さない瞳で、ただ向き合う。額に、先ほどまでと異なる類の汗が浮いてきた。

「あなたが小雪屋(しょうせつや)?」

 目をそらすことができない。足が震えるのは、疲労のためではない。少女の声はうわずった。

「私、在坂ひびきです。母への手紙をみて直接参りました」

 その延べ段の冷たい石の上。深々と少女は頭を垂れた。

「私に、風鈴を作ってください」

 女が煙管の雁首を盆上の火落としへ当てる。小気味いい音が響き、灰が叩かれた。

「…なんしたって」

 風鈴師が破顔する。雁首を、少女の胸元に突きつけて告げた。

「風鈴さ、いくらかかるとお思いであんすか」

 寂幕たる世界に坊主の経文を唱えるような口調。

少女が変容を遂げる。

「知ってます! 高価なのは。でも必要なんです」

狼の唸るような声。強い声だ。突き上げてくるもの。清清しいほどの青さを呈する。対座する風鈴師が、肯定を得て、それまでと異なった笑みを浮かべる。

不敵な眼差し。藍を蔵した瞳。

望んでここを訪れたのはひびきの側だ。けれども、この女に予め召致されたように感じた。

風鈴師は煙管盆を手にすると縁台から立つ。背を向けられて、少女は慌てた。

「それが駄目なら」

 その場に、伏した。

「風鈴師にしてくださいませんか? 風鈴が必要なんです!」

 家主は目を細める。今度は笑わない。風鈴は唯一無二で、伝承は不可能だ。

 雪の結晶がすべて同じ形をしているだろうか? それと同じだ。

 女は、観察の眼差しを清廉な項に注いだ。足元に伏した少女の、あどけない旋毛を見つめる。道徳の教育を受けた者であれば、狼狽して立ち上がらせるかもしれない。煙草盆を縁台に戻した。

 少女は顔を上向ける。一途な眼差しが、風鈴師を射抜いた。

「在坂ひびき」

 名を呼ばれて、少女は瞠目した。

山の、林の、風の動きが、少女の周囲から消える。刹那、少女から生じたある熱情によって、山林すらも押し黙った。ひびきは、自分の手首を掴む掌を見た。

「ありさか、ひびき…。閏(うるう)の娘か…」

 女が腕を引く。少女は固く抱き寄せられる。その指は少女の髪の紐をほどいた。肩に髪が落ちて広がる。

何をされているのかわからない。

「道理で似てなさる」

 湖のように澄む藍色の目が自分を見ていた。

 少女は汗ばむ。動けない。風鈴師が構わずに続けた。

「風鈴さ教えられるもんじゃない、生まれるもんだ。魔覚が必要だがらな。けど、おめえじゃあ…いや…いや、わがねえな」

「あなた…ママととどういう関係なの…?」

 風鈴師が瞬きする。

「…どうして? あなたは何なの? どうして、うちに…その、教えられない、高価な風鈴があったの?」

 少女は鞄から紙の束を取り出した。封筒の束、手紙の束だ。

「あなたとママとの手紙、並の数じゃないわ。でも、近況報告ばっかりで…何にもわからない。ただ、これだけは言える。あなたの風鈴のせいでママは今も目が覚めない! 眠っているの! ずうっと!」

女の掌がすっと伸びて自分の背後にまわった。

「!」

 脇の下から、すくい上げるように腕で引き寄せられた。しゃんと立っていられなくなる。風鈴師は少女の股に足を軽く差し入れる。体勢が崩される。声をあげる暇もない。思わず、瞼を閉ざす。風鈴師が彼女の肩を支える。ひびきは薄目を開けた。

向かいの女の藍の目はこちらを検分するように見据えている。

「そっくりだな。素質さ、あるがもしんねえな」

 少女は薄く瞼をひらく。

 間近に迫る女の表情に声を失う。やけに優しく、やけにいとしそうに笑っている。

「ひ、人の話を…聞きなさいよ…」

 真面目に言い募っているのに笑われて動転する。だが椿は笑みを深くするだけだ。

優位の姿勢の崩れぬうちに、女が尻のポケットから文字ののった紙をとりだす。丁度、伏した少女の目線の高さにそれは広げられる。紙には、五十音が並んでいる。風鈴師が奇妙な問いを発した。

「この紙の文字に色がついて見えるげ?」

 少女は目をぱちぱちさせた。無論、墨の色がついて見える。謎掛けのような問いに、裏があるのではないかとは思いはした。だが、深く考えもせず、少女は答えた。

「墨の色」

 即答した素直さに、風鈴師が笑みを浮かべる。紙を巻いて、再び尻の隠しへと仕舞いこんだ。

「外れ。しょうがねえね。小雪屋に願いさすんなら、本当は相応のもんが必要だし、これが墨に見えるんなら、おめさには見込みもねえだな…」

 少女は呆然となる。肩から、力が抜けていく。風鈴師は少女を縁台に座らせた。泣きそうな瞳を見下ろす。顎に手をあてて上向かせ、まじまじと眺めた。

「人を物みたいに値踏みしないで」

「風鈴師になりでえっつうがら査定しただげだ」

「あなたがまともに人の話を聞かないのはわかった。けど、だったら…あたしにそれができないなら、尚更あなたが作ってよ」

 泣くのを堪えることはできても、力が出ない。

ただ、憎たらしさに椿を睨む。

すると女が奇妙な素振りを見せた。目頭を押さえて、軽くふらつくような足取りになった。覆いかぶさってくる体を支えて、ひびきは起き上がる。その腕をとって、その場に座らせた。急激な変化を訝り、椿の顔を覗き込んだ。

「何なの? 眩暈?」

「…あんまりそっくりすぎるだな…」

 女が蒼白な面を上げた。二人は間近に向かいあう格好になった。無防備なひびきの眼差しに、女は笑みを浮かべる。

「その分さ、割り引いてやる」

 咄嗟に反応できない。少女は真っ青になり、それから真っ赤になった。無論、恥じらいではない。風鈴師の顔に何かが付着した。

「ママにそっくりだから割引ってどういうこと? 何様よ…! あんたの道具のせいでママは眠っているのよ!」

 少女は苛立ちを隠さない。女が堪えきれず笑う。笑いながら、額を拭う。ひびきの唾液だ。

「チカチカすっがら吠えるんでねえ」

 ひびきに凭れたまま、風鈴師が真摯な声で呟いた。

「おめさ、葡萄は好きけ?」

「…ぶどう?」

 またしても、奇妙な問いを。少女はその身を突き放そうとする。けれど、女の目は閉ざされていた。その呼吸が浅いのに、ひびきは気付いた。声も出ないのか、相手が物取りでも構わぬと言いたげな無力さだ。



リーーン…



 門扉のそばの鈴が響いたとき、少女の身は惧れに戦慄いた。

 しかし、それは何事をも想起しない。ただの風鈴だった。





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風鈴師椿・起 玉置こさめ @kurokawa

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