叫び声のしたところに向かえば




 雫石さんの叫び声。

 何か緊急事態が起きたのかと思い、急いでキッチンの方に向かった。



「どうしたの? 大丈夫?」



 シンクの前でうずくまる彼女は、僕達が来たことに気が付くと、先にキッチンに入った僕の胸元に飛び込んできた。



「うおっ」



 柔らかくて、良い匂いがする。

 緊急事態のはずなんだけど、その柔らかさに心臓がにわかに騒ぎ出した。


 もう、腕の中にいる彼女のことしか考えられなくなる。

 ここまで異性が急接近したのは初めてのことだから、僕はみっともなくうろたえてしまった。



「だだだだだだだだ大丈夫?」



「おい、おちつけ。大丈夫かあ? 何があった?」



 僕が全く使い物にならなかったのを見ると、剛埼さんが代わりに聞いてくれる。


 周りには誰もいないから、襲われたわけではないのは確かだ。

 それなら、何故悲鳴を上げることとなったのか。


 しばらく僕の胸の中で震えていた彼女は、途切れ途切れにようやく悲鳴の理由を話してくれた。



「……ご……ごき……」



「ごき?」



「ごごご……ごき……ごきぶ……」



「ごきぶ? ……ああ! ゴキブリ?」



「その名前を言わないで!」



 いきなり叫んだから、驚いてしまった。

 しかし何故叫んだのか、その理由は判明した。


 まあ、キッチンだから出てもおかしくないよね。

 綺麗な家だとしても、絶対に出てこないとは限らないし。


 どんなに強いとはいっても、やっぱり女性なんだな。

 そんなギャップが、僕にとっては可愛いという印象に変えていく。

 僕はバレない様に、そっと抱きしめる力を強めた。



「ゴキブリかあ。全く、どこに行ったんだ?」



 拍子抜けしている剛埼さんは、軽く文句を言いつつもゴキブリを探し出す。

 僕も探そうとしたけど、彼女が胸から離れてくれないので、視線だけしか動かせなかった。



「どこだあ。でてこーい。早く出てくれば、楽に殺してやるからよお」



 剛埼さんは、真面目に探す気があるのだろうか。

 冷蔵庫の中を見ている姿に、僕はツッコミを入れたくなる。

 きっと真面目にしているのだろうけど、完全に見当違いのところである。


 仕方ない。

 何とか雫石さんには離れてもらって、探すのを手伝うとするか。



 彼女を説得しようと、肩に手を置こうとしたのだが、僕はその前に気がついてしまった。

 こちらに向かってくる、黒い物体を。


 カサカサとものすごいスピードで来ているのだけど、剛埼さんは全く気がついていない。

 未だに、冷蔵庫の中を見ている。

 腹ペコキャラなのかもしれない。


 僕が声を上げたら、腕の中にいる雫石さんはパニックになるはずだ。

 それだけは避けたいと、僕は近くにあるキッチンペーパーを取り、彼女の体を僕に背に行くように動かした。



「へ?」



 戸惑ったような声を聞きながら、僕は今までにないぐらい素早く、それを始末する。

 嫌いだけど始末することは出来るので、別に簡単なことだった。




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