第137話 激突


 シュンは暗闇に沈む旧校舎の中を走っていた。いつもなら慎重に歩を進めるところだが、今はそうも言っていられない。


 現在は使われていないとはいえ、廊下を走るのは抵抗があったが、シンの行き先を確認するまでその足を止める気はなかった。


 御堂みどうを抜け、隠れ家の戸を引く。


 月明かりが差し込むその部屋は、無人であった。


 さすがに膝をついて呼吸を整える。荒い息を鎮めるのに時間がかかった。


 ——裏の草原にいるのかもしれない。


 シュンは足に力を込めて立ち上がり、広大な原野が見える窓の木戸を持ち上げた。





「理由? てめえの生まれなんざ理由じゃねえよ」


 カイは苛立ちを隠さなかった。


「もっとくだらねぇ理由さ。そのつらが気に入らねぇ。それだけだ」


「はぁ?」


 ——どういう意味だ?


 シンは何か含みがあるのかとカイの言葉を反芻するが、どうやら言葉通りシンの顔が気に入らないということらしい。


「子どもじみた理由でしょう?」


白兄はくけい』がやや呆れた声を出す。その目はこうなった事は本意では無いと告げていた。


 つまり『白兄』としてはシンと『墨兄ぼくけい』を対面させるのはしたくなかったという事だ。


 それなのに。


 従者の子どもじみた真似を、大胆不敵にも象国しょうこく王太子に向かって行う事を許すというのか——。


『白兄』はその形の良い武人らしからぬ人差し指を『墨兄』に向けた。指揮をするようなしなやかな動きに目を奪われる。


 彼の指に従って『墨兄』の顔を見れば、常にその顔の半分を隠している黒布に手をかけたところであった。




 シュンが隠れ家の木戸を押し上げた時、月明かりと共に眼下の風景が飛び込んできた。


 白く広がる草原に立つ三つの影。


 背の高い二つと、小柄な一つ。


 それを見るや否や、シュンは外へ出る為の床扉ゆかとびらに飛びついた。




 風が、一枚の布をカイの手からさらっていった。


 シンの目が大きく見開かれる。


 王太子の眼に映るのは、どこかで見た、見慣れた——顔。


 ——誰なのだ、彼は?


 似ているが、似ていない。しかしもし自分に兄がいたら——或いはあと数年成長したら——。


 そう思わせる『顔』。


 しかし、シンにはその脳をざわめかせるものの正体がわからない。


『自分に似ているから、なんだというのか』そう思いつつも、何かが引っかかる。


 そしてなぜ、似ているから憎まれるのか?


 目の前の青年は答えたようで答えていない。


 シンはそう思った。


「さて、彼が貴方あなたを嫌う理由はわかっていただけましたね?」


 穏やかに、しかし圧倒的に有無を言わせぬ口調で『白兄』はそう言った。


 ——わかるもんか。


 シンは心の内でそう呟く。


 ——わからない。わからない。


 だが『白兄』はシンの困惑をそのままに木剣のつかを差し向けた。


「さ、次は貴方が約束を履行する番です」


 白く流麗な顔を近づけられて雰囲気に飲み込まれ、シンは自然と木剣を受け取っていた。


「顔は傷付けるなよ」


『白兄』は『墨兄』にそう言う。


 シンはぼんやりとその言葉をどこか遠くの出来事の様に聞きながら、ぎこちない動作で木剣を構える。


 腕も足も、何もかも上手く動かない。冬の夜風さえもぬるく緩慢な流れに感じられ、シンは『此処で死ぬかもな』と他人事のように頭の中で考えた。


 二人の剣先が向き合い、至極穏やかな声が始まりを告げる。


「約束を果たされよ」


 おかしい。


 何もかもゆっくりと流れ、穏やかだ。


『墨兄』がゆっくりと剣を振り上げ、自分の剣もまたゆっくりとそれを受けるために動く。


 一合目を切り結ぶその刹那、一陣の風が吹きすさった。


 風は少女の形をしていて、今まさに戦いの火蓋を切って落とそうという二人の間に——飛び込んで来たのだった。


「あっ!」


 誰の声であったのかわからぬ。


 もしくはその場にいた誰もが発したのかもしれなかった。


 止まるはずのない二つの剣が、柔らかな少女の身体に打ち込まれた。




 つづく



 次回『一時の幻想』

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る