第111話 月光と暗闇と


「——ここまでで大丈夫です。寮はすぐそこですから」


 校舎の中と外。月明かりは真昼のように冴え冴えと全てを照らしているせいか、校舎の外は白く明るい。そして校舎の中は反対に影が濃い。


 その月の光と影の狭間に、二人はいた。


 シュンが月の光の中へ踏み出そうとしたその刹那、少女の腕は強く掴まれ再び影の中へ引き戻される。


 一瞬のうちにシュンはカイの腕の中に抱きとめられていた。


「カイ……兄……?」


 驚きと甘い感情とがせめぎ合い、息を詰まらせながらシュンはカイの名を呼ぶ。


「……この暗い廊下の中だけ自由に語れるなら、お前に言っておきたい事がある」


 カイもまたどうして良いか解らぬように声を抑えてシュンの耳元で囁いた。シュンは顔が熱くなる——身体中の血が逆巻いているのを感じ、反射的にカイの腕から逃れようとする。しかしカイは返って逃すまいときつくシュンを抱きしめた。


 息が、息が詰まる——。


「カイ、けい……」


 その小さな呼び声に、カイは右手を解いた。そのままその手は彼女の頬を包む。


 月明かりの欠片かけらが、閉じられた学舎の窓の隙間から差し込み、淡く辺りを照らし出す。


 二人はそこにお互いの姿を認めた。


 青年の手がそっと少女の顔を上向かせ、彼が見つめた少女の瞳は月の光を集めたかのように煌めいて揺れる。


 その微かなおののきさえ、青年には愛しく——。


 ゆっくりとその顔を近づけた。





 重なり合ったのは、一瞬。


 そしてまた確かめるように二度目の——。





 自らの身に起きたことが夢の如く感じられ、彼の胸に顔をうずめたまま、時が止まればいいと願う。崩れ落ちそうな少女の身体を、力強い腕で抱き止めた青年もまた、その暖かさに目を閉じた。






 微睡まどろむような陶酔を破ったのは、夜の鳥が羽ばたく音であった。戻らねばならぬという思いがお互いに目覚めを呼んだ。


「お前も寮に戻らなくてはな」


「——はい」


 別れを促す言葉では無い、別の言葉を求めてしまい、シュンは少しねたくなる。


 カイも何か言いたげにそっぽを向いていたが、機会をのがしたようである。代わりに軽口を叩いた。


「お前、暗い所で俺と歩くなよ」


「え?」


「だから、今みたいな事になるから、俺と夜に出歩くなと」


「な、何を言ってるんですか!」


 シュンは顔を赤くして思わず声を上げた。その抗議の声を聞いたカイは、安心したように笑う。


「じゃあな」


 黒衣の青年はそう言うと、あっという間にその姿を闇に溶かし見えなくなってしまった。





 花蓮カレンがいれば。


 今ほど友人にそばにいて欲しいと思った事があっただろうか。シュンは男女の機微に疎い。ましてや半ば己の気持ちを認めぬ所もあったくらいだから、誰かに相談したいと思っても不思議ではない。


 しかしそれも今は叶わない。花蓮ほどこの件に関して相談相手に相応ふさわしい者はいないのに、シュンにはそれをする事ができなかった。


 何家かけを裏切る行為をしてしまったのだから——。


 眠れぬまま、シュンはそっと床と布団の間から紫色の布包みを取り出した。息を詰めて中の物を確かめる。小さな板——だがそれは王太子の割符わりふであり、何家の宝物蔵にしまわれていた物である。


 じっとそれを見つめた後、シュンはそれを布に包むと元の場所に戻した。


 それから布団の上に寝転び、天井を見上げる。


 ——私の中に喜びがある。今だけ、今だけこの胸の中にある気持ちに素直に浸ろう。


 シュンは今、カイが示した気持ちを噛み締めていた。そして自らの中にも同じものがある事を認めた。


 ——カイ兄。


 そっと指で唇に触れてみる。心の中で繰り返すカイとの邂逅——。


 思い返せば雪山の時からカイとはその身を触れ合わせてきた。この想いがまだありえなかった時、その頃は何事もなく彼と接してきた。


 しかし今は。


 もはや以前のように接する事は出来まい。


 故に今だけ酔いたいのだ。


 明日のことは知らず、の人の手が、唇が私の肌に触れた記憶に酔いたい。


 今だけ、今だけ——……。




 つづく




 次回『穏やかな日々と』

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