第108話 重陽の節句


 重陽ちょうようの節句は月見の節句だ。


 人々はそれぞれに親しい者と宴を開いたり、或いはささやかに月に餅を供えて愛でたりするのだ。


 シュンもまた、校外で求めた餡入りの餅を携えて、夜の点呼の後にそっと寮を抜け出した。


 餅は少し名のある店で買い求めた物である。黒胡麻と豚の脂と黒糖とをふんだんに使ったねっとりとした甘い餡に、食感を楽しむために胡桃や干し杏が忍ばせてある。その餡を小麦の生地で包んで焼いたものである。ショウ国では一般的に月見の席に出る菓子だ。


 その店の中でも甘すぎない物を選んだのは「男の方でも食しやすいだろう」というシュンの気配りの一つだ。


 寮を抜け出したシュンはそっと旧校舎に忍び込む。夜に訪れるのは初めてで、流石さすがに夜の闇に沈む校舎は得体の知れぬ不安と恐れをもたらして、心臓が早鐘を打つ。


 それでも灯りは御法度だ。


 他人に気づかれてはならないのだから仕方がない。時折、板壁の隙間や、打ち付けた窓の間から白い月光が差し込み、シュンの道行みちゆきを助けていた。


 これ程に明るい光が差し込むなら、今宵の満月もさぞかし見事だろう。


 シュンは楽しい事を考えて自分を励ましながら、暗い道を隠れ家へと向かった。




 彼女が隠れ家の戸を恐る恐る開けると、中は天窓から差し込む月明かりに青白く染まっていた。その月の光を受けて『白兄はくけい』がたたずんでいる。


 その姿は優雅——。

 上背のある彼が、白を基調とした装束に加えて、いつもは身につけぬ上衣を纏っている。月明かりに定かでは無いが、珍しく黒地に銀糸の刺繍が入った物を着ていた。


 その姿に見惚れぬものはいないだろう。シュンでさえしばし言葉をかけるのを躊躇ためらったほどだ。


 気配を察した『白兄』が振り向いてシュンを見つけ、優しく笑う。


「やあ、よく来てくれたね。怖くなかったか?」


「あ……いえ、怖かったです」


 ははっ、とケイは笑った。


「帰りはカイに送らせよう」


 カイの名を出されて、シュンは反射的に飛び上がる。まだ、心の準備が出来ていない。いやむしろ室内にカイの姿が無いために、彼に会う前にここで引き返そうとさえ思った。


 しかしその衝動を抑えて、シュンはまずケイに向かって、招待状への謝辞を述べ、それから鍛錬に行かなかった事を詫びた。


「気にするな。女子寮を見に行く良い口実だったさ」


 ケイはあえて「詫び」の方には触れず、明るく笑った。


 一方で、彼もまた難しい匙加減をまかせられている。誓いの盃を交わし、仲間となり、あまつさえ親や友人からシュンを引き離しているのに、今更仲間割れをするのは避けたかったからだ。


 ケイとしてみれば元の三人に戻る手助けをしなければならない。それが出来るのはカイとシュンの間に立てる自分だけだと思っている。


 そう重いながらも、心の何処かでカイのを尊重したい気持ちもあった。


 ——全くもって厄介な。


 シュンに気づかれぬよう嘆息すると、ケイは上を指さした。


「今宵は晴れて良かった。カイは屋根の上で待ってるぞ」





 梯子段を登り天窓から屋根の上に出る。『白兄』に手を引かれて立ち上がると、そこには黒衣の青年がいた。


 一人、空を見上げている。


 つられて同じ方を見れば、見事な月輪がちりんが輝いていた。


 冴え冴えとした月の光は、そこかしこを明るく照らし、屋根の上にそれぞれの影をくっきりと映し出している。


「カイ、来たぞ」


 ケイの呼びかけに、カイは勢いよく振り向く。その真っ直ぐな目と自分の目とが合った瞬間、シュンは頬が熱くなるのを感じた。そして——素直に会えて嬉しい、と思ったのだった。




「——来ないかと思った」


 カイの言葉に胸が熱くなる。


 ——待っていて下さったのだ。


 今が夜である事にシュンは感謝した。昼間ならきっと顔が紅くなっていると気づかれただろう。それを誤魔化すように、彼女は慌てて言い繕う。


「あの、いえ、此処での月見はどの様なものかと思いまして……」


 いや、そんな事が言いたいわけじゃない。しかし何かが邪魔をして、上手く話せない。ケイがそんなしどろもどろのシュンの言葉を掬い上げるように話をつなぐ。


「この屋根の上は空を近く感じるからな。ほら、カイ」


「?」


「シュンの土産だ」


 ケイはシュンが持って来た菓子の包みをカイに渡した。


「ああ、月見に食うやつだな。いいね、節句らしくなってきた」


 こうして話すカイは普段通りに見える。シュンもその様子を見てほっとして返事が出来る。


「街で求めて来ました。あまり甘くない物を頼んだのですけど」


「そうか、楽しみだ」


 そんな二人を見ながら、ケイがはたと気づく。


「花を忘れたな」


 重陽の節句は菊の花を月に供えるのが通例だ。カイは花にはあまり興味が無いようで、軽口を叩く。


「そんな時もあるだろ」


「はい。これほどの満月を目をするのは初めてです。花など無くとも——」


 シュンも同意したので、ケイも頷いた。


「良いか?」


「はい!」




つづく




次回『月見の宴』

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