第105話 王宮のシン
物事を知ればそれを知らぬ頃には戻れない。
シュンは今までどうやって一日を過ごしていたのか思い出せないほど、様々な日常の事が手につかなくなってしまった。
自覚したいが自覚出来ない心情に翻弄されながら、シュンは講義に出る。だが内容が一向に頭に入ってこない。切れ切れの断片的な知識が時折気持ちに引っかかるだけで、それらを繋ぐ考察が耳に入ってこないのだ。
この自覚したくない感情を認めてしまえば、何か自分ではなくなる気がする。
今まで男子と張り合うことで無意識に遠ざけていたもの——。
ある意味、自分とは無縁で、
男子と『武』で対等でありたいが故に、それを自覚してしまえば自分が普通の女子である事に気付かされるもの——。
シュンはどうしてもそれを認めるわけにはいかなかった。認めたくはないのだが、気がつけばカイの姿を学内に探そうとする自分がいる。
この矛盾を、シュンはまだ飲み込めない。
おそらく
隠れ家に勇気を出して行こうとも思うのだが、途中で足が止まる。苦手な事を先送りにする事に似て、シュンはそこから引き返してしまう。
——隠れ家に行くのが嫌なのではない。そうではなくて——。
恐れているのだ。
何かが変わる事に。
変化への恐怖。
シュンは苛立ってそばの壁を拳で叩いた。大きな音に遅れて痛みがやってくる。
——恐れる? 今さら私が何を恐れると言うのか。
恐れを抱くならば
カイ兄と白兄の信頼を得たいが為に、何家と花蓮の信頼を裏切ったのだ。それこそ恐るべき変節ではないのか。
シュンはわざと足音を立てて階段を駆け降りていった。
夏の暑い盛りを過ぎ、もうすぐ夏が終わる。
「もう一年以上前になるのか」
王宮の東側にある王太子用の宮の上でシンはそう呟いた。
東宮の屋上は城壁の上に似た造りになっていて開放感がある。そのためシンとソウは良く
この一年で様々な事を学んだ——覚えさせられた。
生活が変わった——飢えなくてすむようになった。
強くなった——意外にも武の才能がいくらかあるらしい。
曲がりなりにも家族がいる——兄は思っていたよりも自分の事を気にかけてくれている。
苦手なものは礼儀作法だが——その兄の為にも頑張って覚え、一応は身についてきている。
ひたすらに生き残る為に叩き込まれたものだったが、それらを学んでいる間に、驚くほど時は過ぎた。一年たった今、それを実感する。
ただ——気がかりもある。
貧民街に残して来た仲間のことである。忙しさと警備の固さに思うようにならない事の一つだった。
「それももうすぐなんとかなりそうだな」
ソウが口の端を楽しげに曲げて言う。
シンよりも幾らか自由のきくソウが、宮の周りを調べ周り、賄い方から兵士まで顔をつなぎ——更には城壁の辺りまで調べて来たのだ。
兵士の巡回時間からどの門に商人が入るのかさえも調べ、王宮から抜け出す機会を探し続けたのだ。
それというのも、シンが
そして気がつけば秋もすぐそこ——。
シンとソウは一度街の皆の顔を見に無断で里帰りすることにしたのである。
「何か持って行ってやりたいな」
「そうだな」
「……もうすぐ
『重陽』とは大陸での節句の一つで九月九日に行われる。
「食いもんがいいな」
「どうやって支度すんだよ」
「街のどっかで買ってさ」
シンとソウは顔を見合わせてどちらからともなく笑った。
塞ぎがちなシュンの元に手紙が届いたのはもうすぐ重陽の日だという頃であった。
寮の彼女の部屋に手紙を運んでくれたのはまだ幼い少女であったが、その後ろに別の女子学生がぞろぞろとついて来た。
手紙を持って来た本人もぼうっと頬を染め、
寮の礼儀にならって、綺麗な組紐で封をなされた書簡を銀色の盆に載せて差し出される。
「何かあったの?」
丸めて組紐で縛られたそれを受け取りながら、シュンは銀盆を持つ少女に声をかける。
少女はその声にはっとしたように「いいえ、なんでも——」と返すが、後ろの者達が我慢できずにどっと部屋になだれ込んできた。
「シュンお姉様っ!」
呼ばれた方はびっくりして、何かしでかしたかと記憶を探るが、心当たりが無い。
「ど、どうしたの?」
シュンが聞き返すと、声を上げたうちの一人がうわずった声で続けた。
「お姉様! そ、そのお手紙は、一体なんですの!?」
次回『手紙』
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