第104話 その一瞬に想いを


 いつもの黒衣に口元を隠す黒布。漆黒の髪は表情を隠すように目元までかかっていたが、それは少し俯いているからであるようで、前髪の間から覗くけんのある瞳は真っ直ぐにシュンを捉えていた。


 何故ここにカイ兄が、と思うと同時に胸が熱くなる。この舞い上がるほどの喜びは何なのか。


 先に部屋を出た生徒たちはちらちらと此方こちらを見ていたが、やがて潮が引くように誰も居なくなる。


『墨兄』の畏怖は健在だ。


 あたりに誰も居なくなったのを確認すると、カイは黒布を下げる。


 その顔を見てシュンは数日ぶりなのにひどく懐かしい気がした。いつもは眉をひそめた厳しい顔が、今日は少し困ったような表情である。


 そして何故か怒った口調でシュンを問いただす。


「なんだってこんな授業に出ている?」


「いえ……あの……」


 今度はシュンが困った顔をする。カイ兄に茶を淹れてあげたいために講義を受けていた、などという子どもじみた動機は知られたくない。


「探したぞ」


「……私をですか?」


「当たり前だ」


 それを聞けばシュンは嬉しくなる。カイ兄は怒っているように見えるが、実はそうではないらしい。


「すみません、ちょっと思うところがありまして……」


 隠れ家に行きにくかったとは言えない。行きにくい理由を述べるなど到底無理だ。


 それを思い出してしまい、シュンは自分で顔が赤くなるのがわかった。




 と、いきなりカイはシュンの前で膝を折ると両手のこぶしを廊下の床について頭を下げた。


「カイ兄⁈」


「……悪かった」


「やめて、やめて下さい!」


 シュンも膝をついて、カイの肩を掴んだ。真近に身を寄せて顔を突き合わせる。


 今までだって幾度となく身体を近づけていた二人が、今はその些細な行動一つに動揺して動きを止めてしまう。


 シュンはすがるように触れた手を離そうとした。離そうとしたが、同時にこのままずっと触れていたい気もして、結局離せなかった。


 カイ兄の顔は見れず、彼の腕に添えた自分の手を見る。


「……カイ兄がこのような事をするのは私の願うところではありません」


「どういう意味だ?」


「私なんかに頭を下げないでって言ってるんです」


 いつもより強い口調のシュンにカイは驚く。


「なんで『私なんか』って言うんだ。お前はじゃねぇよ」


 カイにとっては何よりも大事な——。


 不意にカイの手が——シュンがつかまっていない方の手が、彼女の頬に触れる。無骨な手のひらで包むように、しかし誰よりも優しく触れた。


 シュンの心臓が跳ねる。


 思わずカイの方を見ようとした刹那、カイの手がシュンの髪を撫でながら、彼女の頭を自分の胸に抱き寄せた。


 カイの鋼の如く鍛え抜かれたその胸に顔を寄せ、頭を彼のかいなに抱かれたままシュンは驚きのあまりに息が出来なくなる。


「……」


 ほんの一瞬、桃の花びらが宙に舞って大地へ落ちるくらいの時間、カイはシュンを抱き寄せると、「悪い」と言いながら彼女を離した。


 そのまま立ち上がると、くるりと背を向ける。


 ——そのままカイは立ち去ってしまった。




 つづく



次回『王宮のシン』

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