第100話 シュンの迷走


 ——いや、困惑の中にも良いことはあった。カイ兄に『綺麗だ』と言われたことだ。


 今まで誰にも言われたことなどなかったし、あのようにまぶしげに自分を見つめてくれた人など居なかった。


 間近で交わされる吐息や触れ合う肌の熱さ——、そしてその身に刻まれた危うい感覚。それを思い出すだけでシュンは自分の肩を抱かずにはいられない。


 自覚しつつも口に出せないカイへの好意を持て余し、シュンはしょうに突っ伏した。




 寮の食事や風呂のことがなかったら、シュンは一人で部屋にこもってしまっていただろう。


 しかし何をしていてもふと昼間の事が思い返されて、顔がかあっと熱くなる。


 ——むうう……。


「どうかしましたか、シュン姉様」


 下級生の明花めいかだ。心配そうな面持おももちでこちらを見ている。


「な、なんでもない」


「そうですか? 何やら心ここにらずという感じでしたので……」


「そ、そうかな」


「ええ……いえ、逆でしょうか」


「逆?」


「何か良い事がありましたでしょう?」


 うふふと微笑む年下の少女に指摘されて、シュンは顔を真っ赤にした。それを隠すように「何もない……」と慌てて自室へと走り去る。


「?」


 後に残された明花はいぶかしげな表情でその背中を見送った。





 翌日は通常通り講義のある日であったが、シュンは気もそぞろに午前の講義を受けると、早々に寮へ引き上げた。


 とてもではないが、カイに合わせる顔がない。どうして良いか分からず、長い間逡巡した挙げ句、結局は寮へ帰ったというのが正しい所だ。


 ——お二人の顔をまともに見れない。


 シュンは文机ふづくえにコツンと額を当てた。





「……」


 意外にも隠れ家へ入れないのはカイも同じであった。


 隠れ家へとつづく旧校舎の窓から、一人で誰も居ない裏庭を見下ろしている。破れた窓から時折風が入ってきて、彼はその風に前髪をそよがせながら、ただ外を眺めているばかりだ。


 ——。


 かすかな足音をカイの耳がとらえた。


 カイは反射的に暗い影の中に身を隠す。足音は迷いもなく隠れ家のある御堂の方へ入っていった。


 ——あの足音はケイだな。


 カイは明らかに気落ちした。


 再び窓辺に立つと、外を眺める。鮮やかな緑が目に染みた。


 ——来ない、な。


 軽く溜息をつくと諦めたように御堂へ向かう。隠れ家の中にはやはりケイが居た。


「来たか」


「おう」


 短く声をかけると、ケイはふと気が付いたように、


何処どこかへ行っていたか?」


 と、問う。


「いや、そこで外を見ていた」


 ケイの質問の意図するところは分かる。ケイよりも受講数も少なく、時間のある自分が彼より遅く来たからだ。


「シュンは来ていないのか?」


 何気なくケイは聞いたのだが、カイは過剰に反応する。


「お、俺が知るわけないだろう?」


「……そうだな」


 悪気はないのだが、ケイは笑いをこらえながら木剣を手に外へ出る。


 ——こういう時は放っておくのが一番だ。


 床の扉から外へ出る時に横目でカイの様子を伺うと、火の気の無い囲炉裏端にあぐらをかいて、苛立たしげにその灰をかき混ぜている姿が見えた。


 ——そこまで気になるなら、会いに行けばいいものを。


 今はただ友人としてカイを揶揄からかいたい。微笑ましく思いながら、ケイは梯子段をそっと降りた。




つづく



次回『忘れられぬが故に』




◆100話記念


どうしても挟みきれなかったお話。


其の一、シュンの手料理。

 多分とてつもなく下手だと思います。カイが我慢して食べてくれそうですね。ケイも女性に恥をかかせぬよう涼しげな顔で食べるのではないでしょうか。あまりの不味さに、戦場での野戦食だと言って料理を教えてくれるのはケイです。


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