第99話 困惑の日


「あいつを斬るなら、俺はこの首を落とす……!」


 カイは低い声でそれだけ言う。視線は床に落としたままだった。


「カイ」


「俺は本気だ。この事であいつに危害を加えるなら、俺はいつでもこの首を落としてやる」


 ケイは息を呑んだ。


 ああ、そうなのだ。

 今まで結実しなかったものが、ついに形作られたのだ。


 そしてケイも薄々気が付いていて、そうなるよう心の奥底で願っていた事が表面化したのだった。


 沈黙の時が流れ、ようやくケイは口を開いた。


「わかった……だからそれを仕舞しまえ」


 その言質を取ると、カイはゆっくりと刃を退けた。鞘に収め、再び脇に置く。ケイは小さな溜息を吐き、言葉を継いだ。


「私が話さなければ周公は知るまい。よもや知られたとしても、必ず御大の手が及ばぬ様にする」


 ケイもまた視線を外しながら、ふと思う。


 カイがそこまでシュンを想っているのなら——。


 いっそシュンをにあげてしまえば良いのかもしれない。


 そんな考えが頭を掠める。しかしカイの低い声がそれを途切れさせた。


「お前には、わからねぇよ」


 諦めのような、羨望のような、そこにはどうしようもない身分の差を呪い、吐き出す昏い何かがあった。ケイはそれを振り払おうと心の底から言葉を返す。


「わかる」


「嘘だ」


「わかる。私とて自由に羽ばたけぬ身であるのは、お前も知っている筈だ。ましてや、シュンは我々と義兄妹の契りを交わした妹。私は妹を失うような事はしない!」


 カイはその強い口調にはっとする。それからようやく安心したように「ふっ」と声を洩らした。


 苦笑したのかも知れぬ、とケイは感じた。子どもじみた言い訳に聞こえただろうか。しかしカイは何処か遠い目で天を仰いでぽつりと呟いただけだった。


「結局、俺はお前の手の上で踊らされるだけだ」





 一方、部屋に帰されたシュンは——。


 シュンは走って寮まで戻ると、下級生の挨拶にもろくに返事もせずに自室に駆け込んだ。


 ふっくらと大きな坐布団を抱え込むと、そのまま床に倒れ込んだ。


 …………!


 顔から火が出る思いだ。


 坐布団に顔を埋めると、声にならない叫び声をあげる。


 ————!!


 カイ兄の馬鹿馬鹿馬鹿!

 何であんな事を——!?

 急に?

 何故?

 何で?


 自分に隙があったからとは考えず、まずはカイを罵る。坐布団を壁に投げつけると、それは跳ねて床に落ちた。


 まだ顔が熱い。


 ——落ち着け、落ち着け。


 混乱する頭の中を整理する。

 まず一つ。

 カイ兄は何故あんな事をしたのか?


 ——私が半身を見せてしまったから?


 いやしかしカイ兄がそれだけであのような振る舞いに及ぶとは考えにくい。


 ——か、揶揄からかうつもりだったのだろうか?


 いや、それにしてはその優しげな一言一言に真摯なものが込められていたように思う。


 そしてまた一つ。


 ——何故私は抵抗しなかったのか。


 たいしてあらがいもせずに、カイ兄にされるがままになってしまったのは何故か。


 ——驚いたから? いや……何か自然な気がした……?


 自然って何よ。


 ——でも、でも、嫌じゃなかった。


 カイ兄に触れられることは嫌ではないと思ったから抗わなかった。


 ——いや、そうではなくて。決して待ち望んでいた訳ではないが、いや、そうではなくて。


 あの時、カイ兄が私を『綺麗だ』と言ってくれたから?


 ——いや、やはりそれも原因かも知れないが、そうではなくて。


 私が——。


 私が、私が……カイ兄を……。


「いやあああっ!」


 自分への怒りと恥ずかしさからシュンは悲鳴をあげた。




 つづく



 次回『シュンの迷走』

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