第96話 夏の日


 夏の日もシュンは稽古へ出る。


 相変わらず午前は講義に出て、午後は隠れ家へ行く。しかしその日、隠れ家の部屋へ入ると、意外にも誰もいない。


 少しがっかりしたものの、最近忙しそうにしている白兄はくけいを思い出し、仕方がないかと思ったその時、開け放たれた窓の外から素振りの音がした。


 床に設てある扉を開けて外を見ると、カイが木剣を振っていた。


 低く、数を数える声がする。


「カイ兄!」


 シュンの呼び声に、剣を振る手がピタリと止まる。こちらを仰ぎ見るカイの顔が少しだけ笑っているように思えた。


「よぉ、また来たのか」


「来ますよ」


 シュンも木剣を手に外へ降りる。


「今日暑いな」


「ええ。……あら、この部屋の下はいくらか涼しいですね」


「少しな」


 日陰で、わずかながら風が抜けて行く。シュンは地面に降り立った。


「カイ兄はもう講義には出ないのですか?」


「いや、僅かだがまだ残っている講義がある。ケイは今日も出ているぞ」


 カイはそう答えながら再び素振りを始めた。シュンもそれに倣う。


「白兄は、ほとんどの講義を修めたと聞きましたが?」


「ああ、そうだ。俺はまぁ、一通りってとこだ。アイツは気に入った講師に付いて学んでいるからなぁ」


「ただ講義を受けるだけではないのですか?」


「ケイは実際に議論することを学んでいるのさ。お前も討議はやるだろ? それをもっと実践的にやってるんだ」


「なるほど。……すぐにまつり事に参加できますね」


「まぁな。でもアイツはこっちも好きなんだよな」


 カイは木剣を振って示す——武芸も好きなのだというのだろう。


「戦場に出るのかとも思うが、どうだろうな。いまだ決めかねている、というところか」


「決めかねている……」


 贅沢な悩みだと思いながら、あの白兄が卒業後の事を迷っていると聞いて、シュンは不思議そうに首を傾げた。


「ケイはしゅう家——分家だけど、そこの跡取りだからな。どちらも旨味がある。政治家になるのも、武将になるのも。……だから最終的には周公しゅうこうの采配によるのかもな」


「周公の思うところに配置される、という事ですね」


「……お前、手が止まってるぞ」


「あっ、はい」


 カイに指摘されて、シュンは慌てて木剣を振る。暑さで、剣を振るたびに汗が噴き出て来る——。





「……九百九十九、千」


 ふぅーっと息をついて、シュンはへたり込む。とてもカイについていけず、せいぜい三百くらい振っただろうか。いつもながらカイの胆力には感心させられる。


「あー……あちい」


 流石に汗だくになり、カイは片肌を脱いだ。そのまま隠れ家で使う為の大きな水瓶に手桶を入れて、その水を頭から浴びる。


 跳ねた水滴がシュンの元にも飛んでくる。


 ——冷たくて、心地よい。


 シュンの視線に気が付いたのか、カイが手桶を向けて来た。


「お前も水かけてやろうか?」


「いえっ、さすがにそれは……」


「冗談だよ、冗談。上の部屋にも水桶が置いてあるだろ。お前はそっちで汗を流して来い」


「はい」


 シュンは梯子段を昇って隠れ家に入る。薄いしゃで出来た幕を引いて目隠しにすると、その幕の内側に座し、水桶に浸した布で身体を清めようとした。


 汗で濡れている服が肌に張り付いて気持ちが悪い。


 シュンも片肌を脱ぎ、次いで両肩をはだけた。それだけですうっと涼しくなる。


 衣服の中に着けていた胸を押さえる布もいて行く。棚に換えの衣服があったはずだと思いながら、締め付けから楽になった身体を清めていく。


 身体を拭いて少し涼しくなると、シュンはため息をついた。暑いからと言って鍛錬を減らしては意味がない。暑くとも動ける体力をつけねばならぬとシュンは思った——。






 それは、偶然であったのだが、何気なにげなくカイは階上へ上がった。シュンの身繕いがすぐ終わると思って部屋へ入ると、薄い紗の幕の向こうにシュンの白い背中が見えた。


 その光景に目を奪われる。


 霞がかかったような紗の薄布うすぬのを透かして、天窓からの陽光がちょうど彼女の身体にかかり、その姿を余計に白く際立たせていた。


 引き寄せられるように、カイは紗の幕に手を掛け——。





 つづく



 次回『初恋』

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