第95話 芍薬の花
カイが街に出るのは珍しい。
そもそも不用意にうろつく事を禁じられているからだ。
ただその時のカイは妙に浮き立つ気分であったのは確かだった。
ふと、隠れ家に置いておく為の菓子を自分で
干し
カイの持つ金は労働の対価として支給される物だ。王太子の身代わりとして備える事が主な仕事だが、今のところ大きな仕事をしているつもりはない。身の回りの大抵のものは周家で揃えられるから、カイにとって金はあまり使い道のないものでもあった。
——久しぶりに使ったのが菓子とはな。
腹の底から込み上げてきた笑いが口から漏れそうになる。
帰り道にふと目に入ったものがある。
花屋だ。
いつもなら目に止まるものではない。
なのにカイは店の前で足を止めた。
「おい、店主」
「へい、どうも」
カイは品物のうちの一つを指さした。
「この花はなんでいうんだ?
「へい、
硬く丸い蕾が多いが、薄桃色の花を開いているそれは、小さな子どもの拳ほどもある大ぶりな花で、幾重にも重なる花びらがとても華やかに見えた。
「全部咲くか?」
「へい、たっぷり水を吸わせれば皆咲きますんで」
「よし、買った。この
「へっ? 全部……まいどどうも!」
花屋は手早く麻糸で長い茎をまとめると、持ち運ぶ為の手桶に入れた。どうやら手桶ごとくれるらしい。
「茎が長いな」
「へい、咲いたら短く切るのもなかなかのもんです」
「そうか」
「カイ、何だこれは?」
ケイの家——周家の分家の屋敷の中に、カイの部屋がある。ケイはその部屋に見慣れぬ花を見て、正直なところ驚いた。
「おぅ、何となく目についたんでな」
「……まァ、お前の部屋は殺風景だからな。
カイの部屋は白い壁に黒や濃茶の柱や横木が走り、調度品も同じような色で揃えられていた。その中にあって薄紅色の芍薬の花はほんのりと色づいた一片の飾りとなった。
「そうだ、あいつにも分けてやるか」
カイはパチリと指を鳴らすと、花屋がやったように半分の花を麻紐で纏めた。適当な竹筒に入れて隠れ家に持って行くつもりだ。
「それを持って
カイが——剣で鳴らした『
ケイが吹き出しそうになるのを
「そうだな、橋の側で馬車から降ろしてくれ。林の中の道から隠れ家に直接持って行く」
「本気か」
ケイが呆れた声を出した。
「どうしたのです、これ?」
シュンが隠れ家に置かれた芍薬の花束に見入ったまま、聞いてきた。
「なかなか綺麗だろ?」
「カイ兄にそんな概念があったのですか?」
驚くシュンに、カイが唇を尖らせ、
「お前、俺を馬鹿にしてるだろ」
「いいえ、驚いただけです。カイ兄が花を買うなど、想像もつきませんでした」
「……お前が食べる菓子や干し杏は誰が買って来てると思ってるんだ?」
「えっ⁈ まさかカイ兄が?」
「たまにな」
なんだ、と思いながらカイの買い物姿を想像すると、思わず笑みが浮かぶ。
「あ、笑いやがったな」
「いえ……いえ、すみません、ふふっ」
「なんだよまったく……。ソレはお前に分けてやるために持って来たんだぞ」
「ええっ?」
シュンは思わず大袈裟なほど驚いて薄紅色の花を見た。
「花は嫌いか?」
「そんなこと、無いです」
その返事にカイは少し安堵した顔をする。
「水をたっぷりやれば、丸い蕾のやつも咲くそうだ。茎が長いなら短くしても良いと花屋は言っていた」
「へえ……そうなんですか。ふふ、綺麗ですね」
珍しく事もあるものだと思う反面、またもや心の奥底がくすぐられる。
なぜ今こんなにも胸が高鳴るのか。
様々な覚悟を決めた今になって——。
芍薬の花束を持って、寮の自室に戻る。花器を引っ張り出して窓辺に飾った。窓から差し込む月明かりにも、その花は
——花には花の精が住むという……。
シュンは目を閉じて、瞼の裏にほっそりとした物腰の花の精を思い浮かべる。
この優しげな花をカイ兄が買ったというのが微笑ましくて、つい頬が緩んでしまう。
ふっと微かな笑いが
つづく
次回『夏の日』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます