第94話 隠れ家の夏


 教練校にも夏が来る。

 例の隠れ家には風が通るが、それでもやはり暑さの方が勝つ。


「男子はいいですね」


 シュンが羨ましそうに言ってくる。


「なんだ急に?」


 カイが聞き返すと、シュンは水練の話をし始めた。さすがに彼女は参加できないから、水練の講義はとっていないが、


「こんな暑い日に水に入ったら気持ちが良いでしょうね」


 と、心底羨ましそうだ。


「お前もしかして、泳げないのか?」


 揶揄からかうカイに、シュンはむうっと頬を膨らます。


「子どもの頃、水浴場でぱしゃぱしゃ泳いだ事はありますけど」


 語尾を濁して誤魔化すシュンを見て、カイは笑う。


「もう、また笑う」


 怒るシュンを目にして、ケイもくすくすと笑う。


「白兄まで!」


「悪い悪い」


 そう謝る『白兄』はいつも涼しげだ。


 一人だけいつものように襟を合わせてきちんと服を着ているが、立ち振る舞いが優雅なせいか涼やかに見える。


 割符わりふの件以来、白兄は腹を決めたようで、シュンにも信頼を寄せている。その事がシュンには少々心苦しい。心のどこかで王太子をも助けようと考えているからだ。


 だがこの隠れ家に来る事は、今やシュンの何よりの楽しみになってしまった。


 武術の稽古はもちろん怠らないが、授業では行わない野戦食の作り方や調理をする事も面白い。


 苦手なのは持久力をつける事だ。だがそれがないと剣を振るのも続かないので、外の草原を走る事を自らに課していた。


「随分と励んでいるな」


 白兄に褒められた時、シュンは即座に答えた。


「目標が出来ました。戦える身体を作りたいのです」


「また、大会にでも出るか?」


 そう言われてシュンは首を振った。


 ——そうではないのだ。


「友人が窮地に陥った時、助ける力が欲しいのです」


「随分と具体的だな」


 少し驚いたような白兄に、シュンは微笑んだ。


 身体を鍛えるのはその力が必要になってからでは遅いのだ。いつその時が来ても良いようにだけしておきたかったのだ。




 一方、カイは時折『白焔翁』の話を聞きたがった。彼はシュンに武術を教えた剣の名手である。


 その名は剣の極みを目指す者は一度は聞いた事があると言う人物で、一線を退いた今では他国を遊説しているという。


「私が剣を習ったのは幼い頃ですよ。もう、十年以上も前……」


「聞きたいから聞いてんだろ。昔の事でもいいからよ」


「覚えているのは優しくて厳しいお爺様であった事ですね。象国滞在中、張家にいらしたので、その手遊てすさびに私に教えてくださったのでしょう」


 カイは至極楽しそうにシュンの話を聞いている。


 時折、シュンはその自分を見つめる漆黒の瞳に吸い込まれそうになる。


 その気持ちを、なんと言おう——。






 つづく


 次回『芍薬の花』

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