第71話 夜の散歩


 シンが身を寄せた大木は、小柄なシンの身体を受け止め、その身を大地へといざなった。


 彼はそのまま寮の庭へ出て、人の気配を避けながら敷地を出る。


 難なく寮を脱出した事に、クスリと笑いが浮かんで来た。バレたら甘凱かんがいに怒られるだろう。一息ついて、外から寮の建物を見ると、明かりがついている部屋が多く、皆勉強でもしているのだろうかと、我が身を振り返り少し恥ずかしくなる。


 しかしまた、笑い声や楽の音が流れて来たりする部屋もあり、そんなさざめきが、シンに街の生活を思い出させた。


 なんとはなしに、もう一度だけ弓道場を覗きに行く。踏み出した学内は静かで、歩く者は誰もいない。


 あまりの静けさと暗さに、寮にいた方が良かったかと少し後悔する。月の光が差さぬ影から、何かが出て来そうな気がしてしまうのだ。


 弓道場の入り口は閉められていた。それでも諦めきれず、昨日逃げた場所から場内に入り込む。当たり前だが、真っ暗な場内には誰もいない。


 シンは仕方ないか、とため息を一つつくと、来た道を引き返す。


 ふと見れば夜の闇に白く浮かぶ花が見えた。春の夜に美しく咲く白木蓮を見つけたのだ。一つや二つではない。並木道のように並ぶそれは、何処かへ続いていた。


 白木蓮にさそわれるように進んでゆくと、また白い花に出会う。遅咲きの梅の木で彩られた広い中庭の様な場所である。建物に囲まれていて、所々に見える橙色の灯が花々を一層幻想的に見せていた。


 シンは暫しの間、その光景に見入っていた。ただひたすらに綺麗だと——。どのくらいそうしていたのか、ふと気がつくと、だいぶ辺りの灯りが消えていた。


 ——俺達の棟は、どっちだったっけ?


 部屋に戻ろうとして、方向を見失う。自分達のいた棟からも中庭が見えたから、あの大木を見つければ良いのだが、どうにも見当たらない。


 もしや別の場所に入り込んでしまったかと不安になったが、素知らぬ顔で誰かに教えてもらえば良いかと考えた。多分にシンの顔を知らない者もいるので、かまうまいと思ったのだ。


 折りよく人影が見えた。


 小柄で自分くらいの年嵩の者であろうと見当をつける。


「おーい、すまないが、場所を教えて……」


 声をかけた方も、かけられた方も驚いた。


 女の子?


 シンが声をかけたのは同じ年頃の女子であった。上質な布地の、ふわふわと柔らかそうな服に、ゆるくまとめ上げた髪。年上の者を真似まねたのか、かんざしが差してあった。


 シンも驚いたが、声をかけられた女子はもっと驚いたのだろう。目を丸くして動きを止める。目の前の者が何であるのか理解するのに時間を必要としたらしい。


 やがて、可愛らしい唇がゆっくりと開き、悲鳴が上がる。


(やばっ!)


 どうやら驚かせてしまったらしい。この声を止めるか、逃げるか迷っているうちに、数人の足音が近づいて来た。


「どうしたの、明花めいか⁈」


「お姉さま方!人が……」


 近くの回廊から「お姉さま」達が出て来たが、シンの姿を見るなり「あっ!」と声を上げる。


 そして声を揃えて、


「男子!!」


 と指を差す。怒号にも似た指摘を受けて、シンは飛び上がった。


「誰か!シュン様をお呼びして!」


 シンがおろおろしているうちに、木剣を手にした、やや背の高い女性が現れた。


「シュンお姉さま!あそこに賊が!」


(えっ!俺、賊⁈)


 シンが慌てて否定しようとするが、女子達の騒ぎ声で遮られる。その女子の人垣をすり抜けて、見覚えのある顔が見えた。


「シュン姐さん!」


 ようやくシンの声が通る。シュンもシンの姿を目にして驚いた。


「なぜ、此処ここに?」


 シュンはシンの身分を考えて、走り寄る。彼は見知った顔に安心したように話しかけた。


「此処、どこ?」


「知らずに入って来たのですか?」


 うなずくシンを見て、シュンは他の女子を下がらせる。


「すみません、私の友人です。私を訪ねて来たようです」


 ざわめきは一段と盛り上がる。不審者では無いことがわかり、今度は好奇心の混じった声になる。「小さい子ね」とか「なぁんだ」などと聞こえてくる。或いは物珍しげに見ている者もいた。


「ねえ、シュン姐さん。此処は?」


 シュンは笑いながら、


「女子寮ですよ」


 と言った。


 シンは一瞬目を見開いたが、納得したように声を出す。


「そりゃ、悲鳴も上がるわけだ」




 つづく



 次回『小さな約束』

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