十九
静香が咳き込み始めた。その身体から出る霧が薄まる。麗奈も叫び疲れたのか、息を切らして膝をつく。
橘が這いつくばりながら麗奈の元へ向かう。床に一筋の血の跡が引かれた。
「……橘」
麗奈は目を潤ませ、橘を抱き寄せた。
「……わしのせいじゃ。わしが米澤に共感石のことを伝えたばっかりにこんな……」
独朗が唇を噛み締め自らを責める。
「くっそ! まだや!」
照美が立ち上がり影に向かう。
「布団がふっとんだ! 仏像をブツぞー! 靴がくっついた! えーっと、えーっと……、もうわからんわ! うんち! ちんちん!」
照美が息を切らし、ありったけのダジャレを言い放つ。
「……ろ」
ふいに、照美の耳にか細い声が聞こえた気がした。
「下ネタは止めろ言うたやろ!」
声がしたかと思うと光が漏れ出し、明人を覆っていた影が千切れた輪ゴムのように勢いよく吹き飛び、米澤のそばの壁に激突した。
「なに!」
米澤も驚きを隠せない様子で声を上げた。
「明人!」
照美が明人に駆け寄る。かろうじて立っていた明人がぐらりと揺れるのを支えた。
「おう、ただいま」
明人が弱々しく声を出す。
「ただいまやあるか! 遅すぎるわ……」
照美が明人の胸に顔を埋める。少しだけその頭を撫で、明人は足に力を込める。
「照美。アイツはおれらが成仏させたろ」
「当たり前や。……あと、サンディーって呼べ」
照美の言葉に、明人は笑みを零す。
「準備はええか? プリティーサンディー」
「……アンタ、ちょっとバカにしてるやろ?」
照美が明人の腕を小突いた。
「明人はん……」
静香が目を真っ赤に腫らしている。
「フン、真打登場ってわけね」
麗奈が口角を上げる。
「みんな、お待たせ。力貸してくれるか?」
静香と麗奈がゆっくりと立ち上がる。橘と独朗も笑みを浮かべる。
「さぁ、いっちょやったるで」
照美が腕をまくり上げた。
「あぁ、モう! 何をサっきからお涙頂戴見せつけちゃってクれてんだヨォ。どのミちお前たちはこコで死ぬんだヨォ!」
米澤は身体を震わせ怒りを顕わにする。その目は血走り、狂気に満ちていた。言葉もどこかおかしな響きを含んでいる。
「いケ! 全員地獄ニ送っテやれ!」
米澤が腕を振ると、壁にへばりついていた情魔がまとまり、よりその密度を高めた。それはもはや小型のブラックホールとも言えるような漆黒であった。
そして、バネのように一瞬縮むと、ものすごい速度で四人の元へ飛び込んで来た。
静香がとっさに霧の壁を形成する。バチンと凄い音と衝撃で情魔が壁にぶつかり、一瞬で壁が破られそうになる。
「アンタはこの世で一番かわいそうな呪いや。……だからあては見捨てへん。一番そばで、その情念を受け止めたるさかい!」
静香の涙の訴えにより、情魔を少し押し戻す。
「そしてこの怒りは、アナタ達に向けたものじゃないわ。アナタの後ろにいる、極悪非道のクズ野郎に対する、私の怒りよ!」
稲妻が走り、静香の壁から情魔を引き剥がす。
「ええぞ! 二人とも!」
明人が拳を握りしめた瞬間、情魔が怒りを表すように大きく膨らんだ。そして流れるように形を変え、まるで人の拳のような形状になった。
「嘘やろ?」
照美が言葉を失う。
情魔は振り上げた拳を怒りに任せて振り下ろした。
「あかん!」
静香が涙を流し力を込めたが、その一撃で四人を守っていた障壁が破壊された。四人は衝撃で後ろに吹き飛ばされる。
「なんという情念。……いや、生者への執着心と言うべきかしら」
麗奈の声が震えていた。心が折れそうになっているのが、誰の目にも明らかだった。
静香の膝も震えている。あれだけ寄り添うと決めた呪いを前に、恐怖心が勝ろうとしていた。
「いや、なんで諦めてんねん!」
明人が二人の背中を叩いた。その瞬間、静香の身体と麗奈の十字架が激しく発光し出した。
「これ……」
日照りでひび割れた土地に、恵の雨が降り注いだような感覚がした。二人の心に気力が満ちてくる。
「頼む。あと少しだけ、アイツを止めてくれ」
明人が二人に頭を下げる。
「……まったく、仕方ありませんわね」
「あてのこと、頼って下さるんどすな?」
二人が背筋を伸ばしまっすぐ情魔に向き合う。
「静香さん、私はフォローに回るわ」
「静香って呼んで下さい。麗奈はん」
「それじゃあ、アナタも呼び捨てになさって。……静香」
「ふふふ。あて嬉しくて泣けへんかも。頼んますね、麗奈」
二人は一瞬目を交わして笑顔を見せてから、引き締まった表情で前を向いた。
――余計なことは考えない。自らのすべきことをするだけだ。
「照美、やるで」
明人が照美に目を向ける。
「うちじゃなくてアンタのほうが心配やわ」
文句を言いつつ、明人の隣にポジションを移す。
「さぁ、笑かし死なしたろ」
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