十一

 明人は一人、なんばの街を歩いていた。通いなれた劇場への道のりが、とても遠く感じられた。


『明日、ピンで舞台出るから。応援ヨロ!』


 ボッチからそんなメッセージが届いたのは、照美と別れて駅に向かうまでの間だった。明人はあまり気乗りがしなかった。


 しかし、自分と同じく、大切な相方を失ったボッチがわざわざメッセージまでくれたのだ。明人はある種の義務感に背中を押され、劇場へと向かうことにした。


 劇場で観覧していた明人だが、当のボッチがなかなか出てこない。ついには、最後の出演者全員によるフリートークの時間になった。


 ――なんやアイツ。嘘ついたんか?


 明人が不貞腐れて席を立とうとしたその時だった。


「待たせたな!」


 芸人達が騒がしく話をしている中に、突然の大声が響いた。舞台袖から黒のタイツを一枚履いただけの、半裸の男が現れた。


「……ぼ、ボッチ?」


 明人が呆気にとられて腰を浮かせたまま固まってしまう。


「誰も待ってないわ!」と芸人達が一斉にツッコむ。


「そんなはずはない! みんな私を待っていたはずだ!」


 ボッチは自身満々に大きな声を出す。引き締まった身体に力を込め、大胸筋をアピールする。


 きゃーっと歓声が上がる。コンビを組んでいた頃からのファンの女子達だった。


「いや、お前誰やねん!」と一人の芸人がツッコミを入れる。


「よくぞ聞いてくれた! 私の名前はボッチ! 訳あって、最近本当にぼっちになってしまったがな!」とボッチが答える。


「シャレならんこと言うなや!」と誰かが突っ込むが、笑いは起きない。「シャレにならんことを……」と続ける芸人の声が震えていた。


 それを合図に劇場に静寂が訪れた。



 客席から、すすり泣く声が聞こえる。舞台上の芸人達も、それぞれが涙を堪えるように、唇を噛み、目を真っ赤に染め、何もない頭上を見上げていた。


 明人の目にも涙が溢れていた。訳の分からない、消化しきれない感情が心の中で暴れていた。その傍若無人な感情は、明人の胸を突き上げ、口内を唾液で満たし、喉の奥から嗚咽をもたらした。


 その時、明人のぼやけた視界に幻想的な光景が映った。


 劇場内の全員の悲しみの霧が寄り集まり、一つの大きな液状の球体となったのだ。

 球体はゆらゆらと揺れながら、全員の悲しみを少しずつ吸収する。吸収する毎に膨らんでいく。

 明人はその球体から目が離せなくなっていた。


「それでもおれは!」


 ボッチが大声を出す。目は真っ赤に充血している。


 その声を合図に、劇場全体を包み込むほどに膨らんだ球体が、しゃぼんのようにパチンと弾けた。劇場の悲しみがどこか和らいだように感じた。


「おれはお笑いを続けるぞ! 空のてっぺんまで笑い声が届くくらい! おもろいことをし続けたる!」


 その声が劇場に響き渡ると、どこからともなく手を叩く音が聞こえてきた。一人、二人と立ち上がる。さざ波のような拍手が次第に大きくなり、ついには劇場にいる全員が立ち上がり、舞台に向け拍手を送った。


 明人の目に眩い光が見えた。まるでスポットライトかのようにボッチを照らす。


 ――そうか、これは。


 明人が垂れた鼻水を袖で拭う。


 ――希望の光か。




 泣き疲れたのか、明人は劇場の外でうなだれるように腰を下ろしていた。そんな明人の頭に大きな手が乗っかってくる。


「ボッチやろ」


 明人は顔を上げずにそう言う。


「来てくれたんやな」


 そう言ってボッチも隣に腰掛けた。さすがに服は着替えていた。


「んで? あの芸風で行くんか?」


 明人は黒タイツ姿のことを指してそう言った。


「あれでもいいんやけどなぁ。ま、試行錯誤してみるわ」


 ボッチは坊主頭をぽりぽりと掻く。


「あっそ」


 明人はつまらなさそうに口を尖らせた。


「なぁ、明人」


「ん?」


「そのTシャツ、どこに売ってるんや?」


 ボッチが明人の着ている赤いTシャツを指さす。その中心には【天上天下唯我爆笑】というなんとも間抜けな文字がプリントされている。


「なんやねん。ダサいダサいって馬鹿にしとったやんけ」


 明人が不満げに言葉を返す。


「いや、よう考えたらカッコよくなってきたわ。――天上天下唯我爆笑。……うん。ええ言葉や」


 そうしてしばらく、明人とボッチは目の前で流れる人の波を眺め続けた。

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