静香が自宅の最寄駅に着く頃には、時刻は夜の八時を回っていた。――京都、亀岡駅。駅に止めていた自転車に跨る。


 ――こんな遅い時間に帰るのは初めてかもしれへんな。


 静香はペダルに力を込める。両足に掛かる負荷はなかなかのものだったが、気持ちは軽かった。色々なことがあった一日ではあったが、友人との遠出が、これほどまでに楽しいものだったとは。


 ――あの麗奈はんも、帰り際に連絡先教えてくれたし。


 静香の顔には、自然と笑みが零れていた。なぜこんなにも嬉しいのだろう。


 これまでの静香は、目立たないようにして生活してきた。学校でも、最低限の会話はするが、遊びの誘いに乗るようなことはなかった。それが、泣女としての自分の義務だと教えられてきたし、自分自身もそう思っていた。


 呪いなどという常人には理解されないような物と深く関わり合っている自分が、普通の人間と仲良くなるということは、静香の中では現実的なものではなかった。


――いつか、もしそれがバレた時には、周りの人間も離れて行くだろう。だとすれば初めから一定の距離を持てばいい。傷付くこともない。


 そんな自分に友達と呼べる人間が出来た。同じように呪いと戦い、理解しあえる存在だ。静香の心は言いようのない幸福感で満たされていた。


 目の前に大きな鳥居が見えてきた。静香は自転車を降りて近づく。鳥居の前で立ち止まり、一礼をしてから左足から鳥居を跨ぐ。身体に染み付いた習慣であった。


 本殿前の狛犬を横目に見ながら、境内にある自宅の横に自転車を置き、静かに玄関の扉を開けた。


「ただいまー」と声を掛けると、奥から割烹着姿の母親が顔を出してきた。


「静香おかえり。こんな時間まで出掛けるやなんて、えらい珍しいやんか」


 長い髪を後ろで束ねたその女性は、笑顔でそう話しかけてくる。


「ちょっと、友達と遊んでた」と答えた静香の顔は、真っ赤に染まっていた。


「友達? そうか。そらよかったなぁ」


 母親は優しい微笑みを浮かべて静香を見ている。


「ほな、ご飯食べる前に着替えておいで」


 そう言って母親は台所へと消えて行った。静香は、嫌味ではなく素直に喜んでくれた母親の言葉が嬉しかったのか、跳ねるように自身の部屋へ向かう。


 静香の家は大きな平屋であった。中庭に面した縁側を通り、間もなく部屋に到着するというところで、手前の和室から声が掛かった。


「静香」


 その声を聞いた静香の身体がびくりと跳ねた。その声の主は静香にとって畏怖の対象でしかなかったからだ。


「ちょっとこっちき」


 障子の奥から声がする。うっすらと浮かぶシルエットには、小さな身体が浮かんでいた。


「……はい」


 静香がゆっくりと障子を開ける。静寂の中に障子の擦れる音だけが響いた。部屋の中には、座布団の上で姿勢よく正座をしている小さな老婆がいた。着物姿で絹糸のような白い髪を丁寧に束ねて櫛で止めている。


「そこ、座り」


 老婆は向かいの座布団を指さし、静香に促す。


「……はい」


 静香は言われた通りに座布団に正座した。そこから、息の詰まるような静寂が部屋に充満した。静香は手の中でじっとりと汗をかいている。


「どこいってたんや?」


 永遠に思える静寂の中で、老婆が口を開いた。静香は緊張のためか口の中が乾ききっており、すぐに言葉が出なかった。


「と、友達のとこに行っておりました」


 ようやく出た声も、擦れきっており、外の虫の声のほうが大きいのではないかと思うほどであった。


「友達……ね」


 老婆が大きなため息を吐く。


「静香、アンタ泣女としての自覚が足らんのとちゃうか?」


 静かで、それでいて圧倒的な迫力を持って、老婆が静香に言葉を投げかける。静香は拳をぎゅっと握り怖れから身を守る。


「……あ、あては」と呟く静香の瞳のダムは、すでに限界水域に達していた。身体から白いもやが立ち上る。


「アンタの母親は、泣女としての才能に恵まれへんかった」


 静香の言葉を遮り、老婆が言葉を続ける。


「アンタは違う。歴代の中でも指折りの才能を持ってるんや。それは同時に、責任もあるっちゅうことや」


 静香は頷いているのか、拒否しているのか、首を少しだけ動かす。その反動により涙が一筋零れ落ちた。


「泣女は呪いに寄り添う存在や。これがどういう意味か。泣女は孤独でないとあかんいうことや。孤独を友とし、その感情を涙に落とし込み、呪いと寄り添う。なんべんも、アンタに教えてきたはずやけどなぁ」


 老婆が呆れ果てたというように大きなため息を一つ吐いた。


「あ、あては……」


 静香が懸命に絞り出そうとするが、その先の言葉が出てこない。


「あんまり目に余るようやと、また【かご】で修行することになるさかいな」


 【籠】という単語を聞き、静香の目が大きく見開いた。何かを思い出したのか呼

吸が荒くなる。


 ――籠


 静香の家の地下にある牢屋のことだ。泣女の修行だと言われ、静香は何度かそこに入れられたことがある。

 地上に続く扉を閉じられた瞬間、暗黒の世界になるあの場所――そこで静香は泣き続けた。時間も分からない。赦しがあるまでは出られない。しかし声も届かない。

 静香はそこで孤独と向き合い続けた。



「今日のところはもうええわ。……反省は、しなはれや」


 そう言うと、老婆は静香から視線を外し、手を振った。


「……はい」


 静香はゆっくり立ち上がると、老婆に向け一礼し、部屋から出た。廊下に出た途端、膝が笑い出し全身から力が抜けた。

 しかし、ここにいてはまた祖母に見つかると思い、静香は這いつくばるように自身の部屋まで辿り着き、部屋の扉をしっかりと閉めてから、声を殺し泣き崩れた。

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