第10話

 父さんは人生の雨宿りをしていたが、ずぶぬれになるのを覚悟して再び外へと駆け出して行った。だけど冷静に考えると、私も雨宿りをしているのかもしれない。私ぐらいの年頃になれば、皆多かれ少なかれ夢を持つだろう。だけど私にはそれがない。夢を持っている睦夫が輝いて見えるくらい、私には夢がない。でもそもそも人間の人生に夢は必要なんだろうか。夢なんてなくても働けばご飯も食べられるし、暇つぶしの趣味さえあれば生きていくには不自由しない。夢は必要でも、私に夢は必要なんだろうか。私には分からない。このまま夢を探してロマンチックに生きるのか、ただひたすらにストイックに現実だけを見て生きるのか。一体どっちが私の道なんだろう。誰にも答えられないこの難題の答えは未来の私自身がつかみ取ってくれるだろう。

 父さんとの漫才の稽古は白熱した。父さんは完全に芸人の顔になっており、台本をブツブツ暗唱しながら私へのダメ出しも余念がない。一方の私は照れもあってか台詞をとちったり飛ばしたりしてしまい、その度に父さんに指摘されていた。

 「オカヅ、大丈夫か? ちょっとづつでいいぞ。まだ時間はあるからな」       

 「うん、わかった。でもこの台本長すぎない?」

 「演じるとしたら五分で消化できる文量だ。むしろ短いぐらいだ」

  私が絶句した。ここまで細かく台詞や立ち位置が書かれている台本が、実際演じると五分で消化されてしまうという現実に。

 「あのさ、私は元演劇部だけど、それは昔の話だよ。当日の舞台でパニくったらどうするわけ」

 「あの日俺に見せたつまらない漫才を最後までとちらずやり切ったお前なら出来ると信じている」

 「父さん・・・」

 人を信じるのはとても難しい事だ。私はお母さんが死んだ後、人間不信に陥り、暫く友達からも距離を置かれていた。そんな私を救ってくれたのが睦夫だった。彼だけが私の味方になって一緒にいてくれた。私が立ち直るのを信じてくれていたんだと思う。父さんの言うように、今は無心でこの漫才が面白いと信じてみようと思った。


 それから私と父さんは寝る間も惜しんで夜な夜なネタの練習を重ねた。互いに白熱し、時に口論にもなったが良い舞台にしたいという父さんの情熱が私をクールダウンさせてくれた。夏も三十日もすぎれば日も短くなってくる。まだ七時だというのにもう真っ暗た。これからどんどん短くなっていく一日の日照時間に思いをはせながら、私が台本通りに漫才の練習を頑張った。こんなに何かに頑張ったのは久しぶりかもしれない。何だか私も燃えてきた。

 私が台本通りにボケようと身構えていると、父さんがしきりに足を気にして顔をゆがめていた。

 「どうしたの」

 「足の裏が痛い」

 「なんか画鋲でも踏んだ?」

 「そういう痛みじゃない。」

 父さんはとても立っていられない、と座り込んでしまった。父さんの足をみてみると、右足が異常な程に腫れていた。

 「父さん、大変。歩ける?」

 父さんは脂汗をかいていた。とても痛そうで眉をずっとしかめている。病院に行くにも歩けないのではどうしようもない。タクシーを家に付けてもらってもそこまでも歩けなさそうだ。

 「歩けない。死にそう」

 私は思いきって救急車を呼ぶ事にした。

 救急車は中々来てくれなかったが、その間、私は父さんの足を氷嚢で冷やし続けた。こうすると少し楽になるらしい。 

 その後、救急車が来て、私は乗り込み近くの総合病院へ運ばれていった。病院へつくと父さんは車いすに乗せられた。救急外来は父さん以外にも沢山の人であふれかえっていた。皆熱中症の患者なのだろうか。八月ももう終わりだというのに暑さはとどまることを知らないから、私も水分補給は欠かさず行っている。救急隊員は病院への引継ぎが終わると帰っていった。私は「ありがとうございました」と声を出してお辞儀をして彼らに謝辞を示した。 

 

 診察の結果、父さんは蜂巣炎と診断を受けた。足の傷口から黴菌が入り込み、父さんの足の皮下脂肪あたりを炎症させる病気で感染症の一種らしい。治す方法はただ一つ、抗生物質で菌を叩いて絶対安静にすること。

 ということで父さんは十日間の入院を余儀なくされた。菌が足から全身に回ると危険だからという判断らしい。父さんが病気になったのは、私のせいだ。私が足を踏んづけて傷つけたからそこから黴菌が入ったんだ。父さんはそんなことない、と言ってくれるけど、きっと間違いない。意地をはらず直ぐに消毒して絆創膏を貼ってあげればこんなことにはならなかったはずだ。私はひたすらに自分を責め続けた。 

 「オカヅ、お前のせいじゃない。父さんの不注意だ。気にするな」

 「そんなこと言ったって」

 入院手続きを済ませ、病室へと向かう中、父さんはずっと私をかばう様な言葉をかけ続けてくれた。しかし大変なことになってしまった。今から十日も入院したら、運命のライブ前日の退院になる。それまでまともに稽古できないなんて、最悪の事態だ。しかも十日たっても治るわけではなく、皮下脂肪の炎症は一か月程度続くという診断を受けた。これでは立って漫才なんてできっこない。

 「何とかライブ前に退院できそうでよかったな」

 「でも練習できないよ。それに退院してもすぐには立てないじゃない」

 「なあに、具合が良くなれば退院も早まるって先生も言ってただろう。それまでは病院で台本の読み合わせを中心にした練習をすればいいさ」 

 「お父さん」

 父さんが車いすを押す私の手に自らの手を重ねてきた。

 「心配するな。父さんは大丈夫だから」

 「お父さん」

 私は思わず涙がこぼれそうになった。 

 

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