第28話 少年、師匠と画家

 ああ……ああ!


 人に会えたことに過剰な安堵と感激を覚えたことは今までなかった。けれど、今日、僕は心底エヴァン師の到来に感謝せざるを得なかった。

 血塗れの我が師は振り向きもしなかったが、僕に対して微笑んでいるのではないかと思った。


「オスカー、今の言葉は加点に値する!」


 その言葉に目元がまた熱くなる。あの声音には、僕に対する嫌悪など何一つなかった。


「魔術師にくれてやるものなど何一つない!」


 エヴァン師の言葉にドラクルは気分をおおいに害したことだろう。吐き捨てるように舌打ちを響かせて、落とされた腕とエヴァン師を交互に睨んだ。


「……エヴァン、ほう? あのエヴァンか。あのお方のお気に入り」濁った歯を見せつけて嗤う。

「十数年ぶりだな、ドラクル。貴様に奪われたものを返してもらおう」

「返すものなどない」


 ドラクルははっきりと拒絶する。


「アレはどうした。門番をつけていたはずだが」


 その言葉のあとにドラクルの後ろから地響きがした。正しくは絵画の部屋の外から。そして大きな悲鳴も。悲鳴は獣のような恐ろしい断末魔で、人間のものとはかけ離れていた。ドラクルは後ろを振り返り、そしてまたエヴァン師を睨む。先程の睨みは小さな苛立ちだったが、今は忌々しく憎しみを込めていた。


「よくも、私の、作品を──やってくれたな。仲間まで連れてきたのか」

「私が一人で来ると思ったのか、魔術師の工房に? しかも、吸血鬼の魔術師の工房に、単身で乗り込む馬鹿はいないぞ」


 二人は睨み合った。どちらも出方を見ているようだった。僕は何も出来ずにウォルター氏と震え上がっている。アーネストは僕たち二人の前に立って警戒の唸りを口から吐き出していた。隙あらばドラクルの喉笛でも噛みちぎろうとしているのだろう。

 僕に出来ることは何もない。

 ただ見ることしか出来ないことに歯噛みする。


「オスカー。君に課題を出そう」


 唐突にエヴァン師が僕に一瞥だけ寄越した。これを好機と見たドラクルが左腕の袖から絵筆を取り出した。すでに雷は描いてあったのだろう。バチバチと黄金に輝く稲妻が蛇のように絵筆の先から溢れて彼の左腕を纏っている。それが素早く縦に振り下ろされた。しかし、エヴァン師が軽く大鎌で振り払う。

 スパーク。それが交差の合図だった。二人はそれぞれの武器のぶつかり合いに発展した。

 大鎌の美しい曲線の刃を弾くドラクル。

 雷の攻撃を弾いては追撃を起こす我が師エヴァン。

 二人の武器が交わるたびに落雷と金属の甲高い響きが迸る。そして同時に雷の光がフラッシュのように飛び散った。

 激しいぶつかり合いに縮こまる。視線が追いつかず、二人の行動を理解するのは極めて困難で、僕はどちらをどう見るべきか迷った。

 理解の追いつかない僕に、それでもエヴァン師は僕に課題の内容を言ってくる。


「ドラクルの真名を探せ! 魔術師は真名を切り離すことで延命している!」

「どうやって探せっていうんですか?! どこにもなかったら、探しようもないでしょう?!」


 僕が叫ぶとドラクルの表情は険しくなってエヴァン師への攻撃を一層強引に行うようになった。


「あ、あるかもしれませんね……」


 思わず呟く。


「あるとも! 早く行きたまえ!」


 ドラクルの雷撃を全て躱すか大鎌で弾く師に背中を押され、僕は立ち上がった。極度の恐怖で震える足をなんとか踏ん張って動かす。

 早く行かなければ、と必死に。ウォルター氏も僕の後ろに続き、アーネストも追随する。


「誰が行かすものかっ!!」


 筆先が空気を切り裂いた音を宿して僕たちに向けられる。

 風が筆先動きに合わせて生まれていく。本来なら描けるはずがない風だ。だって空気だぞ? それを描くなんてとんでもない!

 いったい何をする風を描くのかと思って足が止まる。


「立ち止まるな、オスカー!」


 エヴァン師が叫び、大鎌の刃を下から上へドラクルに振り上げる。尖った刃の先が描かれる絵を切り裂いた。


「させるか、ドラクル! 貴様は今宵、我々死神機関のものとなる!……行け、オスカー!」


 空気が震えるバリトンボイスに、僕はようやく走り出した。この街の出入口である額縁を越え、やっと僕たちはあの広間に戻ってきた。

 一先ずホッと息が出──。


 ドシン!


 地鳴りがした。

 目の前に何か大きなものが降ってきたせいだ。

 油彩の強烈な香りに、僕とウォルター氏が固まり、アーネストが前に出て吠える。

 何か大きなもの──それはあのサトゥルヌス。


「ひぃっ!」


 上げた醜い相貌が、狡猾にニヤリと嗤う。


 クォオオオオオオオオオンッ──!


 アーネストが遠吠えを掲げる。そしてサトゥルヌスに向かって果敢にも突進した。大きな体躯ではあるが、サトゥルヌスはもっと大きいのだ。勝ち目なんてあるだろうか。

 僕の心配をよそに、アーネストはサトゥルヌスの油彩の体に噛みつき、その都度漆黒の体が一回りずつ大きくなっていく。ガーネット色の瞳がギラギラと獰猛さを有し、サトゥルヌスを圧倒しはじめた。


「今だ」ウォルター氏が僕の腕を掴んで進む。


 二匹の激闘を横に、僕たちは巻き込まれないようそこらへんの絵画を漁りはじめた。

 真名というのが広間にあるとしたらなんて楽だろうか。ドラクルが真名という存在をエヴァン師に暴かれた時の血相を見るに、よほど大事なものであることは間違いなかった。ならば広場にはない。そうなると、絵画の部屋のどこかにあるのだろう。


「真名って名前ですよね?」

「そうだね」


 激しい激闘の音にかき消されないよう僕たちは叫ぶように会話した。


「ドラクルは偽名ってことですか?」

「そうなる! ……サイン」

「え? なんです、聞こえません!」


 アーネストが大きな体躯をものともせずに後ろ足でサトゥルヌスを蹴り飛ばす。いいぞ、もっとしてくれ。サトゥルヌスにはトラウマを植え付けられかけたんだ、吹き飛ばして欲しい。


「サインだ! 画家は絵画に必ずサインを入れるんだ!」


 ウォルター氏が閃いたと言わんばかりに笑顔になった。


「ドラクルは画家の魔術師だ。絶対にサインを入れた作品がある、はず!」

「でも絵画の部屋にはありませんでしたよ」

「そんなすぐには見つからないようにしているさ! 部屋のなかにある!」

「なら、あるとしたら」

「私がいた部屋だ! あそこは物置でもあったんだよ!」


 取り憑かれたように僕とウォルター氏は、出会った部屋の絵画を探しはじめた。

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