第27話 少年、過去と再会

「友よ……よかった……」モーリス氏が口元から血を零しながら微笑した。


 モーリス氏の胸をクミンの手袋のそれが貫いて、心臓を掴んでいた。


「モーリス、何故、何故だっ、何故私を庇った!!」


 悲痛な叫びが雨音に閉じ込められる。エヴァン師の瞳から憎悪は消え、代わりに怯えと後悔に満ちる。それがモーリスの背後にいた小柄の魔術師へと移された。


「やめろ、ヨアン。彼、を、離せ」


 魔術師は是とも否とも口で答えなかった。フードのなかから一瞬見えた美貌が、否と代弁するが如く嗤う。銀糸の髪に白磁の肌、瞳は狐よりも狡猾に光るマンダリンオレンジ。薄い厚さのローズ色の唇。見た目は僕と同じくらいの年頃だというのに、大人びた──というよりも老人くさい気がするが──雰囲気を纏っている。

 ヨアンと呼ばれたその魔術師は嬉しそうにマンダリンオレンジの瞳を細めた。腕をモーリス氏の胸から引き抜く。その時も肉か何かの繊維がぷつんぷつんと千切れてしまう音が聞こえた。

 モーリス氏の体は意図が切れてしまったマリオネットのように傾いて道路に倒れる。


「死神候補の人間の魂だなんて、希少なんだよ、兄さん」


 ヨアン──彼の手には、心臓が脈打っている。


 どくん、どくん、どくん、どくん、どくん……。


 死神候補の人間、ということは、モーリス氏はエヴァン師のただの知り合いというのではないのだろう。もしかしたら僕と同じなのだろうか。


「兄さんたちが逃した魂たちとは比較できない。これは素晴らしいものを手に入れられた」

「それはようございましたな」

「祝杯を捧げるよう皆にお伝えせねばなりません」


 背後の魔術師たちが喜色に染まってヨアンを賛辞する。恍惚げにそれを背後で受けるヨアン。

 僕はヨアンを殴ってやりたくなった。絵画で作られたから本人じゃないとしても。

 何が素晴らしいんだ、人の命をなんだと思っているんだ。モーリス氏にもし家族がいたら? きっと悲しむに決まっている。きっと苦しい。

 僕の隣でアーネストがヨアンに対して唸り声を上げた。

 落ちてしまったエヴァン師の右腕を、背中を曲げた老人が拾い上げた。骨のように角張った手が恭しく右腕をヨアンに捧げた。フードから溢れる汚らしい纏りのない灰色の髪。

 ヨアンはその腕を受け取らず、口元だけ笑う。


「それは君たち三人にあげるよ。分け合うといい。……僕は別のものを兄さんから貰う」


 ヨアンの言葉に魔術師たちはエヴァンの右腕に対し、手をかざした。


「骨よ」ドラクルが。

「筋よ」灰色の髪の老人が。

「肉よ」もう一人の長身の魔法使いが。


「別れの時だ」三人同時に。


 瞬時に右腕は切り目もなく、バラバラにされることもなく、骨、神経、肉に分かれる。それぞれの魔術師が受け取った。細く長いガラスの管に収納され、ローブの下に消える。

 モーリス氏の心臓はご丁寧にガラスの瓶に詰められた。ストロベリージャムみたいに真っ赤なそれがガラス瓶のなかで鼓動を続けている。

 再び豪奢な指揮棒が振るわれる。エヴァン師の体はまた硬直し、ヨアンに両膝をつき、顔を見せる形になった。瞳は大きく開き、ヨアンを見つめている。彼はエヴァン師にゆっくりと近づき、モーリス氏の血で汚れてしまったミンクの手袋を剥ぎ取った。そして指先が右のアメジストの瞳を丁寧に、強引に抜き取った。

 苦悶と痛みの声が師の薄い唇から漏れる。指揮棒を縦に振ると師の体は地面に倒れた。


「出会った時から……これがずっと欲しかったんだ、兄さん。ありがとう……ありがとう……ふふっ、くくくくっ」


 アメジストの目玉を愛しげに撫で回し、今度は己の右目を掴んだ。


「ぐっ……う、うう……」


 くぐもった声、肉を千切る音がした地面にマンダリンオレンジの目玉が一つ転がり落ちた。

 そしてまた、くちゃくちゃと肉が抱擁する音が響く。


「あ、ああ……っ! なんて素晴らしいのだろう! 兄さんの見るものを今度は僕が見ることができる」


 鳥肌が立った。

 このヨアンという魔法使いはなんなのだろう!

 胃が空っぽだというのに吐き気を催す。

 忌まわしいとさえ思う仄暗い声音には歓喜が満ち足りていた。雨の路地をヨアンは両腕を広げて雨粒を受け入れる。フードは完全に下がり、エヴァン師とは似ても似つかない美貌が露わになった。輝く銀糸の髪が艶やかに雨水を吸う。

 闇夜に隠れていた魔法使いたちが麻袋を広げてエヴァン師を詰め込んだ。


「喜びを叫ぼう、我らが未知が開拓された!」


 号令の声とともに過去はかき消えた。残ったのは、雨の路地だけ。


「なんてことだ」

「……ひどい」


 ありきたりの感想しか言葉にできない。


──刹那。


「そうだろうか」


 聞き慣れた声が背後から降りかかった。

 身体中が震え上がり、指先から温度が消える。

 振り向くとドラクルが怪しげに微笑んで立っていた。手には油彩の雷がバチバチと音を立てる筆。


「……ドラクル」


 僕の呟きにドラクルは血走った瞳を三日月に歪ませる。


「そうとも、それが私の通称。本当の名はどこかに消えた。ドラクルこそが私という存在の名に相応しい」

「本当の名じゃない?」

「我が息子よ……」


 何も持っていない血色の失せた左手を僕に伸ばす。僕はすかさず後ろに下がった。指先は愛しげに空を切る。

 先程まで嗤っていた顔は怒りに満ちたものになり、今度はウォルター氏を睨みつけた。


「この役立たず」


 ウォルター氏を罵ってドラクルは自身の唇を舐めた。


「我が息子を唆したのはお前だな?」

「ち、違う──違います、ご、ご主人さま」恐怖でウォルター氏は震え上がった。

「僕の意志だ!」


 ウォルター氏を後ろに下がらせて僕はありったけの力で大声で叫んだ。


「なんだと?」

「僕の意志であなたから逃げたんだ! 僕はあなたの息子じゃない、なるつもりなんてない!」


 無言になるドラクルに僕は勢いに任せて口を動かす。


「僕を五番目の息子って言った。何人、殺したんだ! ミス・ジゼルや女性たちを含め、何人の子どもたちを殺したんだ! そんな奴の息子だなんて僕はなりたくない!」

「黙れ!」


 ドラクルの大きな声が響いた。落ちていた油彩の雨はピタリと止まる。それを払い除け、ドラクルは今度こそ僕に近づいた。大きな油絵の具の匂いのする左手が僕の口を覆って掴んだ。


「お前は私の息子になるのだ。私の手足となって、材料を集める……それが名誉あることだ」


 名誉なんてない。

 僕は必死にドラクルを睨みあげる。息が苦しいけれど、諦めずにドラクルを拒み続ける意志を絶やさなかった。

 ドラクルが言う息子の言葉に、愛情はないのはすぐに分かる。僕たちのことをただの奴隷だとしか思っていない。そんな奴の子どもに誰が進んでなりたいと思うだろう。ジゼル嬢は騙されたのだ。生きたいという希望を踏みにじったこの魔術師が、憎くて仕方ない。

 身勝手な思いで、アントニオ氏から娘を奪ったのか。


 僕の両親を奪った時、魔術師はなんとも思わなかった?


 目の奥が熱くなって、何かが溢れる。

 息苦しさを振り払おうと踠きながらも、少しずつ意識が遠くなった。


「僕、は……っ、お前の思い通りに、なる、もんかっ」


 ドラクルの怒りが頂天に達した。空気が重くなり、僕の肺を圧迫する。このままでは僕はエヴァン師の言伝である「魔術師の前で死んではならない」を守れなくなる。

 それだけは嫌だったのだけど。

 だって僕は、結局子どもで、エヴァン師を責めても昨日見殺しにしてしまった婦人が蘇るわけでもない。

 目蓋が重く、意識がまた遠ざかる。


 だめだ……。



「良く耐えた」



 バリトンボイスが頭上から降り注ぐ。

 瞬間、空気が縦に裂けた。


「っ!」


 目の前で肉と骨の砕ける音がして、肺の圧迫感が解けた。膝をつき、いきなり侵入をはじめた空気を落ち着かせようとして咳き込んでしまう。膝近くに、血溜まりと男の腕が落ちている。新鮮にも指がピクピク動いていた。それを踏み潰すのは血に汚れたココアブラウンの革靴。

 ゆっくりと視線を上げる。

 血だらけだけど、間違いない。

 僕は嬉しくて嬉しくて、その目の前の人の名前を叫ぶように呼んだ。


「エヴァン先生!!」

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