第26話 少年、過去と雷雨

 油彩でできたロンドンの街並みは、微妙なズレがあるだけでほぼ完璧なロンドンではないようだ。

 肩や頭にかかる雨はさらさらとした手触りで僕たちの体を撫でるように落ちる。雨はドラクルが仕掛けたらしい。


「人がいない、ですね、だからかな、少し不気味な街って印象が……」


 絵画のなかだから当然かもしれないのだけれど、不気味というのが合う。明るいはずの鉱石灯はデザインが数十年前のもの、五年前には消えた父が好んで通っていたパブ(言っておくけど僕は一度も入ったことがないからやましくない)まであった。

 入れる建物もあれば、入れないハリボテと変わらない建物も。


「人は描かないように言われていたんだ。指定された建物ばかり描いていたよ。入れない建物は私の作品で、入れるのはドラクルがしたんだ。……内装なんて知らなかったから」

「……じゃあ入れる建物にはドラクルが行ったことがあるってことですよね」

「そうなる」


 好奇心で父の通っていたパブに入ろうとする。残念なことに、扉はびくともしなかった。


「それは私が描いたパブだよ。……なんか、ごめんね?」


 憐みに似た視線が降り注ぐ。真っ赤に熱が灯る顔を隠して扉のハンドルから手を離した。

 一九歳になったら、絶対パブに行ってやる。


 その時だった。


 僕の視界に見慣れたフロックコートが見えた。右から左へと駆け抜ける人影。青白い顔に波打つ黒髪。

 思わずその人物の名前を呼ぶ。


「エヴァン先生!」


 手を伸ばしかけて止める。エヴァン師は僕を見なかった。一瞥さえもしないまま後ろを振り向いて鋭い舌打ちを吐いた。よく見ればエヴァン師は血塗れで、黒人の大柄の男性を担いで雨のなかを走っている。まるで逃げているかのようだ。黒人の男性は雨の冷たさに白い息を吐きながらも弱々しく胸を上下させている。エヴァン師とは違い、きっちりと着込んだスーツは赤黒く染まっていた。血だ。それも大量に。もう長くは保たないだろう。それが子どもである僕でもわかるほど。


「モーリス! モーリス! しっかりしろ、お前はここで死ぬべきではないッ」


 初めて見るエヴァン師の狼狽する顔に僕は衝撃を受けた。

 師は今にも泣きそうにアメジストの双眸を歪ませる。

 双眸? アメジストの?

 師は確かにアメジストの目を持っているが、右目は違う。ルビー色だったはず。それによく見たらエヴァン師の右手は義手ではなく、青白い生身の手だ。

 しかも二人はよくできた油彩の輪郭を持っていた。僕は慌てて下がる。ドラクルの施した魔術とはつまり、エヴァン師と黒人の男性──モーリス氏は返事ができないようだが、代わりにエヴァン師の肩に回している右手を弱々しく握った。

 二人は何かに逃げているようだ。僕がそう悟ったとき、雨音に紛れて哄笑する声が重なり合う。おぞましい笑い声は一つだけではなく、幾重にも折り重なっていた。老若男女n声がこだまする。


「穿てッ!」


 その一つの哄笑が、鋭くエヴァン師とモーリス氏に向かって告げる。僕にとっては一瞬の出来事だった。

 甲高い音が真っすぐに劈いた。

 その瞬間。


「っ──!」


 エヴァン師の右腕が飛んだ。空気を弄んで流れた音がエヴァン師の右腕を切り裂いたのだ!


「エヴァン先生!」僕は思わず叫んでしまった。けれども僕たちにエヴァン師もモーリス氏も、哄笑たちも僕とウォルター氏とアーネストを見ることはなかった。


 嫌な予感が当たった。もうお分かりではないだろうか。これは、過去だ。過去のロンドンの出来事。そしてエヴァン師の過去でもある。

 腕を突然失ったエヴァン師はバランスを崩してモーリス氏とともに地面に倒れた。痛みによる叫びを発さずにエヴァン師は悲鳴を噛み殺す。血色の悪い肌はなおさら青みを増し、モーリス氏もやっとのことで上体を起こす。

 その二人の後ろから漆黒のローブの人影が四つ。少し距離を取る形でその四つの人影の背後にはまだ何かの影があった。ひどく痙攣した動きを見せる巨体や明かに人の姿をしていない異形の影まである。僕はそれらをはっきり見ることをやめた。怖くなってエヴァン師たちを見守る。

 過去の出来事なら、僕にはどうすることもできない。


「僕たちは今日に至るまで闇雲に進んでいた」


 四人の人影のうち一番小柄の人物が前に出る。顔はローブによって隠れているけれど、声の高さは僕と年齢が近いのではないだろうか。


「でも、今日、僕たちは大きな前進をする」


 小柄の人物はローブから豪奢な指揮棒タクトを取り出す。魔法使いの杖のようにも見えるが、グリップの部分は不死鳥の羽根のような彫り飾りがつけられ、細い本体にその飾りである不死鳥の尾が巻きついている。本体の材質は真鍮だろう。グリップの土台は銀細工。不死鳥の飾りはビフレフト鉱石である。

 指揮棒を持つ手はミンクの毛皮がついた手袋に覆われており、その下の腕は禁欲的にココアブラウンの袖口で隠されていた。

 小柄の人物は足音も立てずにエヴァン師に近づいた。まるでこの世の生者とは思えない。


「兄さん」


 今、なんて?

 なんて言っただろうか。


 僕は小柄の人物とエヴァン師を交互に凝視した。


「……お前が、お前が、そう呼ぶのか」苦々しげにエヴァン師が人物を睨み上げる。

「何度だって、呼ぶよ。兄さん、僕の生きる全て……!」


 この声音に複雑な念が込められていることに、容易く気付く。

 仄暗い憧憬。

 泥沼の憎悪。

 不協和音な思慕。


「お前はもう私の弟じゃない……ッ」エヴァン師はアメジストの双眸をきつく吊り上げた。「お前が魔術師という馬鹿げたものに足を踏み入れたせいで何が起こった? 何人、死んだ? 何人、失望させた?!」

「兄さん、僕のために、兄さんの肉体と魂を頂戴。安心していい……大事に実験してあげるから」


 声を荒げるエヴァン師が動く前に小柄な魔術師は豪奢な指揮棒を軽く振った。円を描くように軽く、けれども確かに力強く振ったのだろう。空気が啼く音がした。

 そして呻く声がする。

 エヴァン師の体は硬直し、口を開こうとしても何も音が出ない。


「強すぎたかな」


 小柄な魔術師は小さく笑って更に近づいた。指揮棒を袖のなかに戻して、右手がエヴァン師の心臓をなぞって捉えた。

 今からしようとする行為に鳥肌が立つ。

 何をしようかだなんて予想がつく。

 魔術師は魂を奪うのだ。

 そして、昨日見てしまったのだ、魂が心臓の形をしているのを。

 彼はエヴァン師の心臓を奪うつもりなのだ。

 死神の心臓を奪ってしまえば、研究が進むと信じている。


 魔術師が己の腕を引く。


──やめろ。


 エヴァン師の口がそう動いた気がした。


 手が真っ直ぐとエヴァン師の心臓目掛けて鷲掴みしようと迫る。


「やめろっ!」


 思わず僕も叫ぶ。どうにもならないというのに足が動いた。


──だめだ、間に合わない!


 僕の手は虚しく油彩の雨をつかんで滑り落ちる。思わず目を瞑る。

 雨音のトンネルのなか、肉を千切る音がした。


「……」


 ゆっくりと目を開けて、絶句した。胸を抉られたのはエヴァン師ではなかった。

 まさかの出来事に、小柄の魔術師も驚嘆しているようだった。エヴァン師も目を丸めている。彼は濡れた道路の上に仰向けに倒れており、誰かに押されて倒れたのだ。では誰がエヴァン師を押し倒したのか。掛けられた術が解いたエヴァン師が声を荒げる。


「モーリスッ!! モーリスゥッ!!」


 身代わりとなってしまったのは、モーリス・ガードナー氏だった。

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