第25話 幕間──エヴァン・ブライアン
エヴァン・ブライアンはオスカーの寮室にいた。未だこの部屋の主人は帰ってきている様子はない。窓を開け放ったまま窓際に座り、静かに待った。手のひらサイズの水晶玉を覗いてアメジストの目を細める。水晶玉に映ったのは、オスカーが目を開け、広間らしき部屋を見回している姿だった。
唇から安堵の息が溢れる。
「どうやら無事だったみたいね」
隣からシャーロットが水晶玉を見下ろした。窓から入り、唇だけを微笑ませる。業火の赤さを満たした髪の毛を指に絡ませる。
「私の弟子だ。生きていて当然だ」
「さっきまで喧嘩していたじゃないの」
鼻で笑うシャーロットをエヴァンは呆れ顔で見下ろす。きっと彼女の使い魔である機械仕掛けの梟──彼女は人間以外の動物が苦手なのだ──で、オスカーとの会話を覗き見していたに違いない。エヴァンの視線をピーコックグリーンの瞳は涼やかに受け流す。見た目は十代の少女であるが、エヴァンより約百歳年上だ。年下の睨みなど意に返さない。
シャーロットは勝ち誇った顔で話を進める。窓から機械仕掛けの梟アンネが飛び込んで彼女の右肩に留まった。
「それで、計画通り魔術師の工房に入れたのよね、彼」
「ああ。数百年──数百年捜した。油彩魔術師ドラクルの尻尾を掴んだ」
「何人もの吸血鬼を産み出しては、女性を殺して更に死体を辱めた奴が、こんなに近くにいたなんてね」吐き捨てる。
分かりやすいほど、エヴァンとシャーロットは怒りに満ちていた。表情にさほど感情の起伏は見られないが、周囲の空気は冷え切っている。
生と死の境界を越えた存在というのは、死神にとって邪魔でしかない。何よりそういった存在は、肝心なソレに対して敬意も畏怖も全く持ち合わせていないのだ。
持ち合わせる者は越える途中で、越えてしまったあとでも己の間違いに気付き、諦める。
長年死神たちに追われ続けるということは、持ち合わせていない者たちだ。
浅ましき、愚かなる。侮蔑すべき存在だ。
特にドラクルという魔術師は侮蔑すべき魔術師である。一九世紀に恐ろしき殺人鬼切り裂きジャックを生み出し、本来ならば葬送されるべき神聖なる遺体を傷つけたという辱めを行った。残念ながら、公式に国が発表した被害者リストは一部に過ぎず、死神機関──死神が所属している死神の職場──が所持している正式なリストによると一九世紀から現在に至るまでの間の犠牲者は百は軽く越えてしまっている。
「これ以上は犠牲者を出すわけにはいけない」
何よりエヴァンにとって、ドラクルは長年追い求めた魔術師の一人。
義腕を握り、顔が険しくなる。
「痛むの?」
シャーロットが義腕を服越しに撫でた。
「やっぱりあなたは行かない方がいいんじゃないかしら」
「弟子が待っている。私は行くぞ、シャーロット。魔術師に奪われてきたものを取り返す」
エヴァンは水晶玉を弄ぶ。最終的にはクロックコートのポケットのなかに収まった。
二人は寮を出て学び舎の屋根に登った。死神としての権能を放つ二人を認める人間はおらず、平然と気にも止めずに敷地内である外を行き交っていく。
屋根の上には古い射影機──オブスキュラを組み立てたベンジャミンが待っていた。漆黒のエプロンを身につけたウェイター姿のまま。
「遅かったね。すでに空間への介入準備は出来上がったよ。これでいつでも、ドラクルが工房に帰るとき、その空間を補足と固定ができる。それで入れるはずさ」
「手際がよくて助かる、ベンジャミン」
エヴァンはもう一度水晶玉を覗き込んだ。オスカーが亡霊であるウォルター・リチャード・シッカートを見つけ出している。じっくりと彼がしていることをエヴァンは観察する。つられてシャーロットとベンジャミンも、同僚の弟子の動向が気になった。
オスカーが吐く姿に思わず噴いたのはシャーロットだ。集まった二人の視線に咳払いをする。
「あんたはドラクルの動向を見ときなさいよッ、
ベンジャミンを肘で小突く。まさかの八つ当たりの的にされた彼は、肩を竦めてオブスキュラの前に移動した。
「泥棒みたいに言わないでほしいなぁ」
華やかな顔を物憂げにし、漆黒のオブスキュラを撫でる。それにはシャーロットの大鎌に彫られてあった紋章が刻まれている。
交わる双剣と下の部分が千切れたメビウスの輪──鉄槌卿の徴だ。
「昨日だって写真術式空間固定による結界を作ったんだよ? 少しは労ってくれよ、シャロ」
「はいはい」
「あと少し、手伝ってくれる?」
「えっ、嫌よ」
「今度お菓子たくさん焼くから。君の好きなチョコチップ入りのスコーン」
「やらせていただきます」垂れてしまった涎を拭きながらベンジャミンのもとに駆け寄った。
甘いもので釣られてしまった同僚を珍しい生き物のように見つめたあと、エヴァンは水晶玉に再び視線を戻した。
オスカーはうまくやれているとは思う。
だが、人間としての欠落している部分は顕著だった。両親が死に、今は魔術師に目をつけられているというのに一切泣くようなことはなかった。あの瞳は潤むことは知らない。そう印象付けるほど。
我慢強い、というわけではない。あれは本当に欠落しているのだ。忘却していると言えばしっくり胸に落ちる。
エヴァンはオスカーのその部分を心配していた。
感情を忘却した人間の行く先は、他の人間と比べて圧倒的に危うい。一本の線を千鳥足で行くようなもの。
何より、滑落してしまった人間を、エヴァンは知っている。
「オスカー」
エヴァンは水晶玉に語りかけた。
「落ち着きたまえ、オスカー・ビスマルク」
魔術師ドラクルが工房に入ろうとする姿を確認して、ベンジャミンが猛禽類の如く目を光らせた。手は写真機のシャッターチャンスを今か今かと震えている。
ドラクルが誰もいない裏庭に歩く。いつもの服装の上を覆う漆黒のローブが闇夜の霧のように動いた。魚の尾にも見える。足音も立てずに裏庭に着くとローブの袖口から銀色に光るものを取り出す。エヴァンたちの驚異的な視力によってその形が鍵であることが分かる。
精巧な彫りによって複雑な形状をしている鍵が何もない空中に吸い込まれた。
軽い小さな鐘の音が一つ。
それが工房の鍵が空いた合図。現実の空間と隠された空間が繋がったのだ。鍵穴から染みるように広がる油彩の扉。色はレディバッグ・オレンジ。
その瞬間をベンジャミンは見逃さずにシャッターを切る。
「空間固定」
ドラクルは撮られているとは知らぬまま扉のなかに消える。銀の鍵は無くなり、扉が消えそうになるがベンジャミンたちは慌てなかった。
「これで写真機は記憶したよ」
特注のオブスキュラは長い現象作業を省くことができる。漆黒のアンティークフォルムの箱型、丸いレンズの下にある細く狭い長い口から現像された写真がジリジリと機械的に飛び出た。写真を取り、ひらひらと空気に煽ぐ。真っ白に見えた写真はモノクロに映り込む。これが済んだら仕上げだ。真っ直ぐに放り投げると一枚の写真はボロボロと崩れ、その代わり消えたはずのレディバッグ・オレンジの扉が現れる。
「行くぞ」
革手袋を剥ぎ捨てエヴァンは扉のハンドルを回す。開いた扉を撮影し、固定したことによって鍵など必要ない。
一歩踏み出し、エヴァンは重力に負けた。扉の先は闇色の大きな落とし穴。落下するエヴァンにシャーロットが、ベンジャミンが続く。
「ちょっと上見ないでよね、エヴァン!」ふんわり広がるスカートを抑えてシャーロットが叫ぶ。エヴァンは返答代わりに鼻で笑った。
「安心しろ、お前の下着に興味はない!」
「喧嘩売ってるのかしら?!」
「それにそんな暇なんてないぞ! 構えろ!」
「!」
侵入者三人に工房の防衛機能が牙を向く。深淵のなかから無数の光がエヴァンたちを睨んだ。そして現れたのは無数の油彩の触手、牙、鉤爪。
ベンジャミンの写真機が。
シャーロットのタイプライターが。
エヴァンのヴァイオリンが。
迫りくる敵を刈り取る姿へと変貌した。
「邪魔だ、どけ」
ただ一言告げてエヴァンは大きく大鎌を振り下ろした。
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