第24話 少年、魔術師と遭遇
「うわああああっ!! うわっ! うわあああああああああああっ!!」
二人同時に悲鳴がいっぱいになる。僕たちはパニックになって部屋から逃げ出した。ウォルター氏も僕も必死で、押し合いながら階段に踊り出る。
後ろから臭い息が追いかけてきた。動きは本当の蛇みたいだ。時折やってくる移動動物園の白いアオダイショウの動きがそうだった。
皮膚や服を擦る音が聴こえる。
階段に出れたはいいが狭い絵画の扉から化け物は這い出ようと体をくねらせる。そして忘れてはいけないのが、魔術師ドラクル。広間の床に散乱していた絵筆の道具を見下ろしたあと、僕たちを確実に見つけた笑みを浮かべている。目が合った……。
「サトゥルヌス! 奴らを捕らえろ!」
ドラクルが絵画から出ようとする化け物に命令する。化け物はドラクルを一瞥し、心得た、と言わんばかりに満面な笑みをこぼした。全然可愛くない。アーネストがまだ可愛い。断然可愛いに決まっている。東洋で言う月とすっぽん。アーネストが月なら、奴は一九世紀のテムズ川に流れる汚物だ。五フィート以上離れているはずなのにあの泥臭さと油彩特有の油の臭いが混ざった息が容赦なくかかる。
階下には魔術師ドラクル。
正面にはサトゥルヌス──ローマ神話の子を喰らうサトゥルヌスの方がまだマシに見えてくる──という化け物。
僕たちの選択肢は階段の上へ登ることだった。押し合いながら、けれども片方落ちないようにしながら上を目指す。後ろをアーネストが時折サトゥルヌスを威嚇する。僕はそれにハラハラしてしまいながらアーネストを呼んだ。
先に上へと辿り着いたウォルター氏は天井に手を伸ばす。扉を開けようとしているのだろう。扉のハンドルを手探りしはじめた。
「開くわけがないだろう!」
階下から笑い声が響いた。下を見ればドラクルが鬱なる漆黒のローブから一本の筆を取り出す。筆先が空中を滑り、何かを描く。
嫌な予感がして僕はその筆の動きを一挙一動見逃すまいと見つめる。
あれはいけない……。
あれが完成させたらいけない……。
金に色を帯びはじめた空中の絵は生き物のように渦巻いた。バチバチといった音が次第に激しく鳴り響く。
油彩でできたのは、生きた雷。唸る声がドラクルの絵筆の先から聞こえる。
深呼吸だ。僕はゆっくりと息を吸って吐いた。目を澄ませ、耳を凝らして、ドラクルの動作を視る。不思議なことにドラクルの動作がゆっくりに見えた。彼の絵筆を持った腕が持ち上がる。同時にローブの袖が蝶の羽ばたきと見間違えるほど揺れた。
近づいてくる。くる。
振り下ろされる瞬間、僕は駆け出した。ウォルター氏の腕を掴み、アーネストを見る。
「アーネスト!!」
「引き裂け!!」
ほぼ同時だった。
僕がアーネストを呼ぶ声とドラクルが油彩に命を吹き込む声が広間に広がり、次に落雷特有の爆音が駆け巡る。ウォルター氏が造った階段はヒビが入り、崩壊しはじめる。その時すでに僕たちは階段を手放していた。つまり、僕たちは今、床も地面もない高い場所にいる。
残念なことに、僕は、当然なことだけど、空を浮かぶ術なんてない。
また落ちる。
僕は、死んでしまうのではないだろうか。
ウォルター氏はともかく、アーネストはともかく、生身の人間のオスカー・ビスマルク。重力に負けてあの生きる広間の冷たい壁に頭を打ち付ける形になってしまう。
頭部強打の即死? それとも痛みを感じながら死へ歩むのか。生きろと言ってくれたエヴァン師の命令を無碍にしてしまうではないか。いや、あれは単に死ぬなでなく、魔術師の前で死ぬな、だ。厳密では生きろではない。
「うわあああああああああっ!!」
本日二度目の絶叫をあげた。
地面が。
絵画と一緒に落ちる。油彩の瓦礫の先に見えたのは、床。
もうだめだ。
もう無理だ。
父さん、母さん。
死──。
「オスカーくん!」
大きく揺さぶられ、僕は目を開けた。冷たい手が僕の肩を掴んでいる。僕を呼ぶのはウォルター氏。焦りと安堵が混じる複雑な声。
僕はゆっくりと目を開けた。目の前にはやはり安堵したようなウォルター氏の顔があった。その隣にはアーネストが。一人と一匹は僕の顔を見てにっこりと笑った。
「良かった。起きたね、焦ったよ……恩人である君が、もし、死んでしまっていたらどうしようって」
「生きているんですか? 僕、死んだはずではないんですか?」
「生きているとも!」
周りを見てごらんと言われ、僕は素直に見回した。僕の体を油彩の匂いのする雨が打ちつける。煉瓦造りの建物、薄い光の鉱石灯、凸凹に整備された道路。全て、油彩画でできている。
遠くから列車の音が聴こえる。
ガタンゴトン。
ガタンゴトン。
線路に揺れながら蒸気が盛大に撒かれる音も。
「我らが都、ロンドン!」
「そう。ここはロンドンを描いた部屋だよ。ずっと私が抱えていたキャンバスだ。どうしても離し難くて持ち出したんだ。私にとって知らないロンドンだったから」
「落下しているときに入ったんですか」
「一か八か、だったけれど。……ただ」
「ただ?」
「この部屋はドラクルとの合作なんだ。私の知らない魔術が施されているかもしれない。だから気をつけて」
「分かりました」
絵画のなかに隠れられたのは名案だ。たくさんの絵画が床に落ちて、そのなかから僕たちのいるこの部屋を探さないといけないのだ。時間がかかることだろう。
それなりの猶予ができたことを知ると希望が湧いた。
「何かないか調べてみましょう」
僕たちは絵画のロンドンを歩き出した。
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