第20話 少年、困惑と侵入

「ぼ、僕はオスカー・ビスマルクです」

「そそそその、い、犬は?」カーテンから顔を覗かせるだけで、男は怯えだけを露わにした。

「えっ……と、犬、です」

「き、ききき君ののの、い、犬、じゃななな、い?」


 完全に怖がっている。特に僕じゃなくて黒妖犬に対して。僕の横に大人しく立っていた黒妖犬は、やれやれこれだから、と言いたげに男を見つめて一鳴き。空気を震わす声に男の体が大げさに震えて、尻餅を着いた。


 確かに突然訪れたのが大きな犬だったら怖い。しかも不吉な黒妖犬ときた。

 黒妖犬は男の反応に満足げに笑って、小さくなる。簡単に音もなく縮小。愛らしく尻尾を振って未だ真っ赤な舌をしまい忘れながらも笑っていた。


 なんだ、可愛いじゃないか。


 黒妖犬を抱き上げてみると、軽い。非常に軽く、さっきまでの重量ある体の持ち主だったとは思えない。僕の腕のなかに収まった黒妖犬が僕の顎を舐める。


「あなたは、誰?」


 尻餅をついて黒妖犬に唖然となる男に問う。名乗ったのだから、男の素性を聞く権利はあるはずだ。


「ぼぼぼ、僕、いや、私しししは、う、ウォルター・リチャード・シッカートだよよ。す、すす、すまない、今のぼ、わ、く、た、し、は、うまく、しゃべれ、にゃ、い」


 は?


 今度は僕が唖然とする番だった。というよりもひどく混乱している。

 ウォルター氏ではないのに、ウォルター氏だと名乗った男。


「嘘だ」

「うううう嘘じゃないっ」


 カーテンから体を現し、僕に詰め寄る。


「うまく喋れないのは、魔術師のせいですか」

「そうだよよよ、ミスター・ビースマルクゥ。あいつに、ここころされて、ずっとこのなぁかっさ」失礼、と咳き込む。

「もしかして魂に何か細工がされているかも。実は僕たちもこのなかに入れられて出ようと……あなたも、一緒に来ませんか?」

「い……いい、ともっ」


 何度も首を振ってウォルター氏──僕をここに閉じ込めた魔術師はニセモノと呼ぶことにした──は手にしていた筆をポケットに入れてカーテンの奥に消える。

 カーテンの奥を覗くと、キャンバスがたくさん無造作に置かれている。それらをウォルター氏は漁って一枚の絵を掴み、大事に抱きしめて立ち上がる。


「それを持っていくつもりですか? 邪魔じゃないですか?」

「いっいいやぁ。これは、ひつ、ひつよう、になる、かもっ」


 しゃっくりに似た返事をしてウォルター氏は入り口の扉を開けた。向こう側にはあの広間がぼんやりと見える。


「あれを通らないといけないのかな……」


 胃をさする。また通ったら多分だけど、僕は吐いてしまうかもしれない。

 扉の前で尻込みしていると背後に結構な重量がかかる。


「えっ──?」


 ドンッ。

 突然のことに対処できない!

 僕の体が前のめりに扉の向こうを越える。胃が再びギュッと握られて食道に何かが上がってくる。ちょっと前に飲んだホットミルクが攻め上がってくる。

 後ろから黒妖犬が大きな図体を現したので、犯人はこいつだ。


「ぅ……おえ」


 咳をきって飲んだホットミルクを吐き出す。気づくと僕はあの広間に立って床に吐瀉していた。睨むと黒妖犬は素知らぬフリでいる。憎たらしい。


「だい、だい、大丈夫かい?」

「……大丈夫です」ポケットからちり紙を出して口元を拭いて捨てる。

「は、はじめてのひひひと、は、すぐ、そそ、そーうなるぅんだ」

「はじめて……ってことは、僕以外にも人が来たことってあるんですか?」

「あああ、うううん。うん。そう、そうだ、ひっく、とも……きき君ぃ、以外にィいたよ」


 ウォルター氏はもう一つの絵画に手を伸ばす。


「ここここっちにいこ、いこ、行くぅべきだだだ」


 聞き取りづらい言葉ながらも、言いたいことはなんとなく分かる。まずは意思疎通をしやすくするために、彼にかかったものを解かなければいけない。

 吐き気の衝動をなんとか押さえつけて立ち上がる。

 ウォルター氏が手にした絵画は物置だった。瓶の棚がひしめき合い、巻かれた羊皮紙やらキャンパスになる布地がたくさん乱雑に置かれている。


「また通るんだ……」うんざりだ。

「も、もーう、だーいいいいじょぶー、でです」

「どういうこと?」

「はは入ればあ、分かるぅ」


 ウォルター氏がニッコリ微笑んでお先に絵画の中に入った。

 次に黒妖犬が。

 残される僕。


「……い、行けばいいんでしょ」


 床に散らばった吐瀉物を踏まぬように足を絵画に向けた。絵画から犬の鳴き声が急かす。

 分かったよ、待ってくれよ、少しは!

 内心悪態をつきながら僕は絵画のなかに飛び込んだ。

 ギュッと目を瞑り、また襲ってくるだろう吐き気に備えた。

 絵画と広間の空間の境界線を越えただろうその時、あの胃を握りしめる感覚はやってこない。さっきのウォルター氏の言葉が今になって理解できた。慣れたということかもしれない。それか、ここの絵画たちが僕という異物を許したのかも。

 僕の体は境界線を越えて絵画のなかに入ったあと、固い床に強かにぶつかった。冷たく、僕の頬の温度が吸い取られてしまいそうになって体を起こす。


「いたた……」


 僕の手に紙の感触。

 新聞紙だ。髪質と色からして真新しいもの……かと思ったら日付は一九三〇年代のもので、かの有名なアーサー・コナン・ドイル氏が見事に殺人事件の冤罪を暴き、真犯人を突き止めたという華やかな見出しが載っていた。流石はシャーロック・ホームズシリーズを手掛けた人だ。僕には知的な小説は書けない。

 新聞の紙切れは何かを包んでいたのだろう。

 改めてなかを見ると収納されているもの以外の壁、床、戸棚は油彩でできたものだった。入って早々ウォルター氏が戸棚を片っ端から開けていた。

 端にある真新しい筆を数本。ポケットのなかへ詰め込む。そして次の戸棚を開けた。僕も気になって一緒に覗く。


「これって、全部、血?」


 あの美術室のニセモノが使っていた部屋の戸棚にあった同じ瓶。

 なかには濃い赤錆色の液体。ウォルター氏がその瓶を迷いなく、一つ手にする。


「そのなかに入っているのって……」


 間違いなく僕の予測通りだろう。

 困ったように彼は、僕の続く言葉を予想して頷いた。間違いなく中身は血液だ。それもおそらく、間違いなく人間の血だと。


── 油彩術式とは名前の通り油絵の具を使用する術式だ。例えば特別な材料を用意し、力を込めて犬を描くとする。すると出来がいいと犬が動き出す。本物のように。


 エヴァン師が確かにそう言っていた。特別な材料とは人間の血、だったのか。

 力を込めて、出来がいい、と。

 油彩術式とは高度な技術なのだろう。


 興奮を覚えるとはまさに今のこと。未知の世界に触れているという自覚がようやく追いついた。

 ついつい僕の手も血液の瓶を掴んだ。

 もしかしたら、僕も使えるのではないだろうか、と淡い期待を持って。


 その間にもウォルター氏は戸棚を漁っては絵の具の瓶を回収し、ポケットをパンパンにさせていた。あまりにもたくさん持っていこうとするので心配に見ると、大丈夫だと笑って聞き取りにくい口籠もりながらも言うので荷物についてとやかくいうのは止めることにした。

 部屋を出てまた広間に出る。

 不思議なことに広間に僕が吐いたと思われるものは跡形もなくなっていた。


「こここ、ここは、い、生きてるるるるから、そうじ、しなくてて、いいって……」


 それを聞いて僕の顔が引きつった。

 つまりそれって、僕たちは生き物の胎内にいるということではないのだろうか。真っ青になる僕に、ウォルター氏は目もくれずコートのポケットから先ほどの物置から漁った筆と血、絵具を床に広げた。絵の具のなかに血を迷いなく数滴垂らして混ぜ込む。血の色が入って赤みを増すかと思いきや全くそういったことはなく、透明になって絵の具に染み込んだ。

 筆にたっぷりと混ぜた絵の具を含ませて繊細なタッチが空中にて広がる。迷いがない、最初は青系統にラフを描く。そしてその上にブラウン系統の絵の具で思った以上の速さで仕上がっていく。

 ウォルター氏の手によって描かれ、創られていくのは、見事な木製の螺旋階段もどき。それがウォルター氏の頭ほどの高さまででき、彼が僕を見た。

 登ってごらん、と語るその瞳に後押しされ、僕は一段目の前に立つ。

 大人が二人分通れるぐらいの螺旋階段は急ごしらえのために造られたので手すりに関しては適当だ。そして油彩術式の為せる技なのだろうか、螺旋階段には必ずあるはずの支柱がない。


 まずは手すりを掴む。

 ブラウンの手すりが指先に触れる──掴める。

 次に右足を一段目へ。

 靴越しに感じる固い一段目。

 確実に登れる。

 確信して体重を階段に委ねた──僕の体はバランスを崩すことなく、油彩でできた階段の一段目にいる。


 足元を小さくなった黒妖犬が通った。


「う、うう、うまくいったね」


 手が届かないと思っていた絵画がすぐ真横にあった。

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