第19話 少年、書架と魔術
真横にあった絵画は本棚だった。たくさんの書架がひしめき合っている。
「……ここ」
本好きにはたまらない。文学少年少女は必ずこの絵画が好きだ。きっと好きになる。立ち止まることは間違いないだろう。
事実、僕という本好きがこの絵画に魅入られている。
触れることに迷いは生まれなかった。
手を伸ばし、引き寄せる。
僕の真横ではウォルター氏が階段の絵をせっせと描いている。
「ここ、入りますね」
それだけ伝えて僕はなかに足を踏み入れた。
境界線を越える。
見えたのはひしめき合って沈黙を厳かに勤める書物の束。これまた油彩の本棚がそれらを受け入れて立っている。
「フランス語もある」
右から順になぞる。
見慣れない装丁の分厚い本たちが目の前に。
ヴォイニッチ手稿写本、作者不明。
胎内における誕生魔法、名もなきドラクル。
デルフォイの神託集、リジー・スィフト。
絵画による術式集〜鉛筆から油彩までの術式〜、レオナルド・ダ・ヴィンチ。
ネクロノミコン、フランス語訳写本、作者不明。
死神の肉体について、ヨアン・サンチェス。
灰色の魂魄、オウイン・ゼフィランサス。
ヴォイニッチ手稿写本をまず手に取ってみたけれど、フランス語でもラテン語でも、ましてや英語でもない謎の言葉が使用されていて読めなかった。しかも添えられている絵に関しても全く理解が及ばない。見たこともない植物に動物が、さも現実にいますよと言わんばかりに精密に描かれている。
頭がおかしくなる前に、僕はヴォイニッチ手稿写本を読むことをやめて本棚に戻す。
その隣のネクロノミコンはフランス語だ。僕はフランス語は苦手などで読むのを最初から放棄した。
気になるのは片っ端から手にとってみることにする。
特に油彩術式をもっと深く知りたかったので、レオナルド・ダ・ヴィンチ氏の絵画による術式集を手にする。有名な画家が残したとされる著作はいったいどんなものだろうか。
一頁目を開いて安堵。
タイトルは英語だけど、良かった……中身がイタリア語だったらどうしようかと思った。イタリア語は専門外だから。ドイツ語は少し、フランス語はまあまあ、ラテン語ができる。僕にはそれぐらいの語学力しかない。
レオナルド・ダ・ヴィンチ氏が著作した本は、まず彼の設計した乗り物や武器などのスケッチだ。隣にご丁寧にそれについての設計図とどんなものか、どのように使うのか、を事細かに記している。そのあとは彼の描いた作品たち。つまり画集が載っており、次は絵画による術式とは、を説く。
『絵画の術式とは極めるには膨大な時間が必要とする。事実、私はこれを為せるのに数百年以上費やさなければいけなかった。
大事なのは自身にとって合う描き方を見出さなくてはいけない。つまり、おかしなことに、完成に至る数式が人それぞれ違うのだ。私にとっての数式が油彩のように、我が千人のうちの数十人の弟子の数式が水彩ということもある。そして油彩は油彩で筆使いや技法で枝分かれしていくのだ。無論水彩、木炭、また別の描き方。
完成に至るまでの数式が少しでも違えば完成はできない。不発に終わるか、最悪な事態になるかは術者次第。
材質、色を使うのであれば絵の具の混ぜ具合、絵の具と特別な材質との配合、タッチ、塗る順番、筆の行く先……』
少しでも違えば術式は完成しない。これはとても有益な情報だ。
捲る。
部屋の建築方法。これは今僕たちが体験している。その方法で編み出されたのが広間にある絵画たちなのだろう。そしてここもそれによって作り出されたのだ。
動く生き物の生成。これも少し前に遭遇した。ホワイトチャペルまで、長い距離を走らなければならなかったのは、苦痛だったが。それすらも吹き飛ぶほどに恐ろしいものに出会ってしまった。油彩で造られた恐ろしい生き物。
思い出すだけで鳥肌が立つ。僕を捕まえて果たしてどうするつもりだったのか。
エヴァン師は僕の魂を珍しいと言っていた。なんのことだかさっぱりで、今もよく理解していない。
それにエヴァン師はとても、そう、あまり多くを語ってくれないのだ。
ジゼル嬢のときだってそうだった。もう少しうまい方法があったんじゃないか、頭の隅で堂々巡りを繰り返している。
今、師は僕のことを捜してくれているだろうか。
淡い期待、辛い不安が胸を過ぎる。
「それよりも出なきゃ」
僕は一通り、できるだけ術式を覚えることにした。そうすればニセモノのウォルター氏に、少しばかりの抵抗ができる。
そのなかで見つけたのが、油彩術式魂干渉。
これは生者には使用できないが、死者には可能だと記している。霊体に衣服を纏わせるのだ。そして思い通りに従属する。
思えばウォルター氏は透明がかった体に色のある衣服を着ていた。
言葉を上手く発することができないのはそのせいだ!
ニセモノはウォルター氏が口答えできないようにするために施したのだろう。なんという卑怯者か。
僕は解く方法を考えあぐねた。衣服を脱がすなど思いついたが、油彩の衣服に脱ぐという法則は存在するのかが、不思議である。しかも年上の男性の衣服を脱がすという行為は、どこか怪しいニュアンスを含んでいる。
「待って……。油絵って確か……絵の具を落とせる油があったよね」
床に本を置き、僕はまた本棚を目で漁ることにした。
見つけたのは油彩の手引きという初心者向けの本で、学園の美術教科の教材になっているものだった。
ここにあるとは驚きだ。
手に取って捲る。
捲る。
「あった、これだ!」
教材を閉じて放り出し、僕は書架の部屋を出た。
螺旋階段はすでに三回以上の高さになっており、一心不乱にウォルター氏が筆を走らせている。
「ミスター・ウォルター!」
僕は生まれてはじめて大きな声で人を呼んだ。広間の空気が震えて、我に返ったウォルター氏が目を見開いて視線を下ろした。
「あなたが自由に喋ることができる方法が見付かりました! ある程度終わったら下に降りてください!!」
返事を待たずして僕はもう一度物置の絵画に入った。後ろを黒妖犬がついてくる。
だいたい血液の瓶などがある戸棚を全て開けて漁る。
そして透明な瓶を見つけて、僕は歓喜した。
「あった! 剥離剤だ!」
筆などの道具を洗うために使われる油。
筆洗油。
これを抱えて絵画から出る。すでにウォルター氏は筆を持って広間の床に立って僕を待っていた。
「おまたせしました!」
「そ、そそ、そのててに、持ってるぅのおおは、もももしかして?」
「剥離剤です」
これをどう使うのか、と言いたげな顔のウォルター氏に近づき、僕は剥離剤の瓶を開けた。瞬間匂い立つ油の匂いに顔をしかめる僕と氏。
僕は戸惑いを隠せない彼の服の上に剥離剤を掛ける。
「お、おお、い?」
「動かないで」
慎重にゆっくり手首までかけて満遍なく掛けると、ポロポロと油彩で編まれた衣服は剥がれていく。
軽快な高い木材の音。剥離剤の池にポケットの中に収めていた筆たちが落ちてしまった。体の下には裸かと思いきや、しっかりと服が着ていた。
「なんてことを……!」
ウォルター氏の言葉が淀みなく、しゃっくり一つもなく、すらりと言えた。
数秒おいて彼は己の発した声に気づく。口元を押さえ、何度も声を漏らす。
「驚いた! 君、若いのに、僕にお喋りを取り戻してくれるなんて! すごいじゃないか。ははっ。喋れる!」
「それは良かったです」
「まさか着ている服が喋るのを邪魔していたなんて思わなかった!」
ウォルター氏はその場でうさぎのように飛び跳ねるほど歓喜する。
「そういえばね、君が物置に行っている間に、階段があそこまでいったんだ!」
指し示す先はステンドグラスの天井。
ウォルター氏の集中力と早い画力に、僕は改めて彼が歴史に名を残すに相応しい画家だと思い直した。
「これでたくさんの絵画の部屋に行くことができる。しかもステンドグラスを見たら、扉のハンドルがあった」
「それじゃあ、出られるかもしれないですね」
「ただね」ウォルター氏は困ったように眉尻を下げた。「あの扉は頑丈な鍵が掛かっているみたいだ。壊せるかもと思って割ろうとしたんだけど、無理だった。頑丈な何かぶつけないと難しい」
「……じゃあ、主人が帰ってこないと開かない?」
「マスターキーがない場合はそうなるかもね」
では脱出は絶望的だ。
「ただ何もしないってことはない。そうだろう、オスカーくん!」
どこか悪戯を思いついた子どものようにウォルター氏が笑う。口の端が思いの外上がって、楽しそうだ。今まで閉じ込められて、まともに喋れないように施されたのだ。ここで積りに積もった恨みを発散させたいのだろう。
僕の肩を抱き──冷たい感触がして縮みあがる僕を彼は無視した──、階段を登る。
「それに私が描かされた絵画のどれかに、マスターキーがあるかもしれないじゃないか」
「む、無数にありますよ。そういえば僕、あなたを閉じ込めた人に五番目の息子って言われたんですけど、意味わかりますか?」
「彼──確かドラクルって名乗っていたけれど」
ドラクルだって?!
胎内における誕生魔法の作者じゃないかっ。しまった、僕はあの本を一文字も読んでいない。
僕が後悔している間もウォルター氏は歩くことを止めない。
「アイツは異常だ。自分の子どもでもないのに連れてきて、化け物にしている。でも、今回は早いな」僕を見て不思議そう。「彼が子どもを連れてくるのは、長い期間が開くんだ。数十年単位だったり、百年だったり。君がくる前に女の子を連れてきていたのに、一年も経たずに君を息子として連れてきた。不思議だ」
その女の子はジゼル嬢だ。
エヴァン師たちに捕まったから、僕を連れてきたのか?
つまり、僕はジゼル嬢の次に吸血鬼にさせられるのだろうか。
そう考えがつくと心臓の底が凍えてしまいそうだった。
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