第21話 少年、書架と術式

 真横にあった絵画は本棚だった。たくさんの書架がひしめき合っている。


「……ここ」


 本好きにはたまらない。文学少年少女は必ずこの絵画が好きだ。きっと好きになる。立ち止まることは間違いないだろう。

 事実、僕という本好きがこの絵画に魅入られている。

 触れることに迷いは生まれなかった。

 手を伸ばし、引き寄せる。

 僕の真横ではウォルター氏が階段の絵をせっせと描いている。


「ここ、入りますね」


 それだけ伝えて僕はなかに足を踏み入れた。


 境界線を越える。

 見えたのはひしめき合って沈黙を厳かに勤める書物の束。これまた油彩の本棚がそれらを受け入れて立っている。


「フランス語もある」


 右から順になぞる。

 見慣れない装丁の分厚い本たちが目の前に。


 ヴォイニッチ手稿写本、作者不明。

 胎内における誕生魔法、名もなきドラクル。

 デルフォイの神託集、リジー・スィフト。

 絵画による術式集〜鉛筆から油彩までの術式〜、レオナルド・ダ・ヴィンチ。

 ネクロノミコン、フランス語訳写本、作者不明。

 死神の肉体について、ヨアン・サンチェス。

 灰色の魂魄、オウイン・ゼフィランサス。


 ヴォイニッチ手稿写本をまず手に取ってみたけれど、フランス語でもラテン語でも、ましてや英語でもない謎の言葉が使用されていて読めなかった。しかも添えられている絵に関しても全く理解が及ばない。見たこともない植物に動物が、さも現実にいますよと言わんばかりに精密に描かれている。

 頭がおかしくなる前に、僕はヴォイニッチ手稿写本を読むことをやめて本棚に戻す。

 その隣のネクロノミコンはフランス語だ。僕はフランス語は苦手などで読むのを最初から放棄した。


 気になるのは片っ端から手にとってみることにする。


 特に油彩術式をもっと深く知りたかったので、レオナルド・ダ・ヴィンチ氏の絵画による術式集を手にする。有名な画家が残したとされる著作はいったいどんなものだろうか。

 一頁目を開いて安堵。

 タイトルは英語だけど、良かった……中身がイタリア語だったらどうしようかと思った。イタリア語は専門外だから。ドイツ語は少し、フランス語はまあまあ、ラテン語ができる。僕にはそれぐらいの語学力しかない。


 レオナルド・ダ・ヴィンチ氏が著作した本は、まず彼の設計した乗り物や武器などのスケッチだ。隣にご丁寧にそれについての設計図とどんなものか、どのように使うのか、を事細かに記している。そのあとは彼の描いた作品たち。つまり画集が載っており、次は絵画による術式とは、を説く。


『絵画の術式とは極めるには膨大な時間が必要とする。事実、私はこれを為せるのに費やさなければいけなかった。

 大事なのは自身にとって合う描き方を見出さなくてはいけない。つまり、おかしなことに、完成に至る数式が人それぞれ違うのだ。私にとっての数式が油彩のように、我が千人のうちの数十人の弟子の数式が水彩ということもある。そして油彩は油彩で筆使いや技法で枝分かれしていくのだ。無論水彩、木炭、また別の描き方。

 完成に至るまでの数式が少しでも違えば完成はできない。不発に終わるか、最悪な事態になるかは術者次第。

 材質、色を使うのであれば絵の具の混ぜ具合、絵の具と特別な材質との配合、タッチ、塗る順番、筆の行く先……』


 少しでも違えば術式は完成しない。これはとても有益な情報だ。

 捲る。


 部屋の建築方法。これは今僕たちが体験している。その方法で編み出されたのが広間にある絵画たちなのだろう。そしてここもそれによって作り出されたのだ。


 動く生き物の生成。これも少し前に遭遇した。ホワイトチャペルまで、長い距離を走らなければならなかったのは、苦痛だったが。それすらも吹き飛ぶほどに恐ろしいものに出会ってしまった。油彩で造られた恐ろしい生き物。


 思い出すだけで鳥肌が立つ。僕を捕まえて果たしてどうするつもりだったのか。

 エヴァン師は僕の魂を珍しいと言っていた。なんのことだかさっぱりで、今もよく理解していない。

 それにエヴァン師はとても、そう、あまり多くを語ってくれないのだ。

 ジゼル嬢のときだってそうだった。もう少しうまい方法があったんじゃないか、頭の隅で堂々巡りを繰り返している。

 今、師は僕のことを捜してくれているだろうか。

 淡い期待、辛い不安が胸を過ぎる。


「それよりも出なきゃ」


 僕は一通り、できるだけ術式を覚えることにした。そうすればニセモノのウォルター氏に、少しばかりの抵抗ができる。


 そのなかで見つけたのが、油彩術式魂干渉。

 これは生者には使用できないが、死者には可能だと記している。霊体に衣服を纏わせるのだ。そして思い通りに従属する。

 思えばウォルター氏は透明がかった体に色のある衣服を着ていた。


 言葉を上手く発することができないのはそのせいだ!


 ニセモノはウォルター氏が口答えできないようにするために施したのだろう。なんという卑怯者か。

 僕は解く方法を考えあぐねた。衣服を脱がすなど思いついたが、油彩の衣服に脱ぐという法則は存在するのかが、不思議である。しかも年上の男性の衣服を脱がすという行為は、どこか怪しいニュアンスを含んでいる。


「待って……。油絵って確か……絵の具を落とせる油があったよね」


 床に本を置き、僕はまた本棚を目で漁ることにした。

 見つけたのは油彩の手引きという初心者向けの本で、学園の美術教科の教材になっているものだった。

 ここにあるとは驚きだ。

 手に取って捲る。

 捲る。


「あった、これだ!」


 教材を閉じて放り出し、僕は書架の部屋を出た。

 螺旋階段はすでに三回以上の高さになっており、一心不乱にウォルター氏が筆を走らせている。


「ミスター・ウォルター!」


 僕は生まれてはじめて大きな声で人を呼んだ。広間の空気が震えて、我に返ったウォルター氏が目を見開いて視線を下ろした。


「あなたが自由に喋ることができる方法が見付かりました! ある程度終わったら下に降りてください!!」


 返事を待たずして僕はもう一度物置の絵画に入った。後ろを黒妖犬がついてくる。

 だいたい血液の瓶などがある戸棚を全て開けて漁る。

 そして透明な瓶を見つけて、僕は歓喜した。


「あった! 剥離剤だ!」


 筆などの道具を洗うために使われる油。

 筆洗油。

 これを抱えて絵画から出る。すでにウォルター氏は筆を持って広間の床に立って僕を待っていた。


「おまたせしました!」

「そ、そそ、そのててに、持ってるぅのおおは、もももしかして?」

「剥離剤です」


 これをどう使うのか、と言いたげな顔のウォルター氏に近づき、僕は剥離剤の瓶を開けた。瞬間匂い立つ油の匂いに顔をしかめる僕と氏。

 僕は戸惑いを隠せない彼の服の上に剥離剤を掛ける。


「お、おお、い?」

「動かないで」


 慎重にゆっくり手首までかけて満遍なく掛けると、ポロポロと油彩で編まれた衣服は剥がれていく。

 軽快な高い木材の音。剥離剤の池にポケットの中に収めていた筆たちが落ちてしまった。体の下には裸かと思いきや、しっかりと服が着ていた。


「なんてことを……!」


 ウォルター氏の言葉が淀みなく、しゃっくり一つもなく、すらりと言えた。

 数秒おいて彼は己の発した声に気づく。口元を押さえ、何度も声を漏らす。


「驚いた! 君、若いのに、僕にお喋りを取り戻してくれるなんて! すごいじゃないか。ははっ。喋れる!」

「それは良かったです」

「まさか着ている服が喋るのを邪魔していたなんて思わなかった!」


 ウォルター氏はその場でうさぎのように飛び跳ねるほど歓喜する。


「そういえばね、君が物置に行っている間に、階段があそこまでいったんだ!」


 指し示す先はステンドグラスの天井。

 ウォルター氏の集中力と早い画力に、僕は改めて彼が歴史に名を残すに相応しい画家だと思い直した。


「これでたくさんの絵画の部屋に行くことができる。しかもステンドグラスを見たら、扉のハンドルがあった」

「それじゃあ、出られるかもしれないですね」

「ただね」ウォルター氏は困ったように眉尻を下げた。「あの扉は頑丈な鍵が掛かっているみたいだ。壊せるかもと思って割ろうとしたんだけど、無理だった。頑丈な何かぶつけないと難しい」

「……じゃあ、主人が帰ってこないと開かない?」

「マスターキーがない場合はそうなるかもね」


 では脱出は絶望的だ。


「ただ何もしないってことはない。そうだろう、オスカーくん!」


 どこか悪戯を思いついた子どものようにウォルター氏が笑う。口の端が思いの外上がって、楽しそうだ。今まで閉じ込められて、まともに喋れないように施されたのだ。ここで積りに積もった恨みを発散させたいのだろう。

 僕の肩を抱き──冷たい感触がして縮みあがる僕を彼は無視した──、階段を登る。


「それに私が描かされた絵画のどれかに、マスターキーがあるかもしれないじゃないか」

「む、無数にありますよ。そういえば僕、あなたを閉じ込めた人に五番目の息子って言われたんですけど、意味わかりますか?」

「彼──確かドラクルって名乗っていたけれど」


 ドラクルだって?!


 胎内における誕生魔法の作者じゃないかっ。しまった、僕はあの本を一文字も読んでいない。

 僕が後悔している間もウォルター氏は歩くことを止めない。


「アイツは異常だ。自分の子どもでもないのに連れてきて、化け物にしている。でも、今回は早いな」僕を見て不思議そう。「彼が子どもを連れてくるのは、長い期間が開くんだ。数十年単位だったり、百年だったり。君がくる前に女の子を連れてきていたのに、一年も経たずに君を息子として連れてきた。不思議だ」


 その女の子はジゼル嬢だ。


 エヴァン師たちに捕まったから、僕を連れてきたのか?

 つまり、僕はジゼル嬢の次に吸血鬼にさせられるのだろうか。


 そう考えがつくと心臓の底が凍えてしまいそうだった。

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