第16話 少年、決別と真相
「エヴァン!」
音楽教室の扉を開けて僕は怒声を響かせた。
教壇に立つエヴァン師が僕を見て口元を綻ばせる。
突然の乱入者に、音楽の生徒たちは眉を潜めて僕を睨んだ。中には僕を追い出そうと立ち上がった生徒もいたが、師がそれを制する。
「皆、それぞれのパートの練習を。そうだな、一通り合わせてやってみてくれ」
師はにこりと指示して僕を外に連れ出した。
その先は、僕とエヴァン師が初めて会った裏庭だった。背中を押す、師の右手を振り払い、向き直る。突然の僕の反抗的な態度に、首を傾げる。
何故怒っているのか分からないと言いたげなアメジスト。
「ジゼル嬢が昨日人を殺したのは本当ですか?!」
興奮を抑えきれずに詰め寄ると、エヴァン師は目を細めて首肯した。
「なんだそのことか」
冷たく告げられた一言に僕は一瞬固まってしまう。
僕の反応など予想していなかったみたいにエヴァン師は肩を竦めて目を逸らした。本当に僕が怒っている理由など分からないようだ。
怒りが頂天に達してしまう。
「人が死んだんですよ? どうしてそんなっ、もしかしたら助かったかもしれないのに!」
僕たちは見殺しにしたのではないか。
分かっていて、エヴァン師は昨日静観していたのか。
「オスカー。私は一言も被害者を出さないと言ってはいない」
宥めるように言われる。
まるで僕が聞き分けのない小さな子どもみたいではないか。
「けれども助けられたはずです!」
「いいや、できない」
「できたはずです! 分かっていたのではないんですか?! 死神なら! どうにか──」
「オスカー! 君に彼女の命を救うなんてできやしないんだよ!」
革手袋の右手が僕の口を抑える。頬に義手の指先が食い込んだ。これ以上の言葉を出させない、そう強い意志が込められていた。
突然のことに目を丸くしてエヴァン師を見上げる。
「死神なら助けられた?」
嘲笑うようにバリトンボイスが降り注ぐ。アメジストの瞳は責めるように鋭い。ルビーの義眼は濁っているように見えた。
「残念だがオスカーくん。死神が万能だと勘違いしているのは、今すぐ改めたまえ。確かに可哀想だったな。首を斬られて即死だ、ん? 痛みがない方がよかっただろう? それとも助けて彼女が行った先で暴漢に性的暴行された上に苦しみながら死ぬ運命をそのまま続行させて良かったか?」
ならどちらも助けてもよかったはずではないのか。
「どちらの運命も回避すればいいと思ってないか──この愚か者!」
雷の衝撃のような怒号が耳朶を打つ。
「人間はどこまでも勘違いして困る。死を司るから全部なんでもできると思っている。オスカー、君もその愚か者の一人だとは思ってもみなかった」
乱暴に僕を後ろに突き放す。
解放された口はわなわなと震えて何も反論できなかった。僕の胸は失望と喪失感でいっぱいで、混乱も頭を渦巻いて。
エヴァン師が遠く、音楽教室に戻る背中をただ黙ってみるしかなかった。
怒らせた。これは確実なこと。けれどもどうしていいか分からない。こうなったらもう、僕はいったい誰に縋ればいいのだろう。
両親を助ける希望は潰えた。多分。おそらく。
一人裏庭で僕は縮こまった。
木の幹に隠れるように座ってひっそりと息を止める。
止める。
止める。
止め……体が拒んで空気を求めた。鼻と口から鮮やかな冷たい空気を取り込む。息を止めるという行為は思いの外難しかった。言うのは簡単なのに。
「あ……」
胸ポケットにエヴァン師から貰った万年筆があることに気付く。返したほうがいいかもしれない。けれども今から返しに行くというのは、結構勇気がいるものだ。
改めて僕は万年筆を見下ろした。
あの人はこれが何でできていると言っていただろうか。昨夜はあまりにも色んなことが起こりすぎて記憶が混乱している。微睡みに近い夢だったような。
金色の文字でオスカー・ビスマルクと刻まれていることに気づいた頃だった。
ウォルター氏に会ったのは。
「やぁ、オスカーくん」
ウォルター氏は油彩道具一式を持ち出して裏庭にやって来ていた。
「外で絵を?」
「その通りだよ。いつも中に籠って筆を動かすばかりじゃ、キノコが生えてしまうだろう?」
「……それもそうですね」
僕の笑わない様子に気づいたウォルター氏が心配そうに覗きこむ。どこか柔らかくて、優しい包容力のある瞳が唇とともに微笑する。
「そう思ったんだけど、やめようか。おいで、オスカーくん。美味しいものをあげよう」
甘い誘惑に僕は縋りたくなった。沈んでいる心にウォルター氏という浮き輪がやってきている。何かに縋り付きたくて仕方ないほど、弱っていたのかもしれない。
信じていた大人に失望したばかりだ。
僕はウォルター氏に連れられて美術室の小さな小部屋に入った。準備室だろう。たくさんの画材が壁に設置された戸棚に収まり、小さな作業机は教材の塔の土台となってしまっている。
「さあ座って」
丸い椅子に勧められて素直に座る。
ウォルター氏は小さな冷蔵庫からミルクの瓶を取り出した。それを耐熱カップに入れ、鉄製の小箱の扉を引いた。中は二層になっており、下はビフレフト鉱石を入れて燃やし、上は皿や鍋とマグカップや薬缶を置ける小さなコンロだ。鉱石で温められたミルクを取り出すと瓶を取り出してティースプーン一杯の透明なものを入れた。匂いからしてラム酒。
マグカップから伝わるミルクの温かさにホッとする。
「少しだけラム酒を入れたんだ。温まってリラックスできるよ。でも、他の生徒には……」
お茶目に微笑んでウォルター氏は唇に人差し指を立てた。
「勿論です、ウォルター先生」
にっこりと微笑み返してラム酒入りのホットミルクに口をつける。五月だというのに真冬のように凍えてしまった体内が暖まるかのような気分になれた。
その横でウォルター氏は小型コンロの片付けを終えると、イーゼルを立て始めた。そしてまだ手をつけていないキャンバスを設置し、木炭を取り出す。迷いのない手の動きに僕の視線は釘付けとなった。
「頭の中に設計図があるんだよ」僕の心を見透かしたようにウォルター氏の唇が開く。
「だから、迷いなく描けるんですか?」
「そうだよ、君はいつも迷っているみたいだね」
とんでもない指摘に胸がどきりと鳴る。
「おいで。一緒に描いてみよう。君の迷いが晴れるかもしれない」
手招きする仕草にいつの間にか席を立っていた。ふらふらと足が覚束ないのはラム酒入りのホットミルクが、眠気を呼んでいるせい……。
真っ直ぐウォルター氏のもとに行けず、僕は戸棚に慌てて手をついた。
くらくらする。
思考がゆっくり歩く。
戸棚のなかに、何か見えた気がした。
「あれ……?」
またバランスを崩した僕は戸棚にあった油彩絵具の瓶を引っ掻くように落としてしまった。
パリン、パリン。
足元で割れて溢れる音。
匂いが、足元から登ってくる。
「すみません……」
瓶を拾おうとして座り込む。
割ったのは、真っ赤な絵の具だったらしく。
指先の感触に、僕の思考は突然疾走し始めた。
どくん、どくん、どくん、どくん……。
僕の心臓はとんでもなく早く鳴り響き始めていた。
油絵の具にしてはサラサラしている。これではキャンバスの上を簡単に滑ってしまうのではないか。
そして何より、鼻を突く鉄錆の匂い。前にも嗅いたじゃないか。
油彩ではない。
間違いなく、これは、血だ。
「う、ウォルター先生?」
ゆっくりと顔を上げると、彼は無表情で僕を見下ろしていた。瞳に感情はない。虚ろで、何も感じなかった。
「色彩を極めれば、真理が描ける。生命が宿る。これが私の魔法」
彼の手が僕の頬を撫でる。割れ物を扱うように、優しい。けれども、表情は無機質。
「五番目の我が子よ」
僕の体から重力が消えた。ような気がした。地面がポッカリと空いたのだ!
真っ暗な深淵が丸い穴の底から覗いている。そしてそこに吸い込まれるように僕の体は深淵へと落下した。
死ぬのかもしれない。着地と同時に僕の肉体は地面というものにぶつかってぐちゃぐちゃにされてしまうのか。
「あ、ああああああっ!!」
恐怖で言葉が出来なかった。出てくるのは悲鳴しかない。周囲は真っ暗で掴まるものはなにもなかった。手を伸ばして喘ぐも、空気にしか触れず、虚しくバタバタさせるだけ。
死ぬ。死ぬ。
死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。
パニックに陥っている時だった。
「わふんっ!」
耳許で犬の鳴き声がした。
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