第15話 幕間──少女困惑
日の沈まぬ帝国の都市ロンドン。夜を迎えた瞬間に光る鉱石灯がロンドンを照らす。暗き場所などどこにもないと言わんとする様相の下を人々が歩く。
何をしに行くのかシルクハットの紳士が、恋人同士はディナーをしに、使い古した服装の男は長い労働のあとの帰宅。もしかしたら酒場に行くのかもしれない。ポーカーをサンドウィッチ片手に興じるのかも。女性の社会進出で女性用の娯楽施設は増えている。
なのだが、若い女性たちはそのロンドンを歩く様子はない。少し前までは一人で堂々と歩く姿があったものだ。友人の若い女性と一緒に朗らかに冷めた空気を飛ばしていた。
今、若い女性は一人歩きが出来なくなってしまった。
切り裂き魔の存在がそうさせている。それに会ったらどうなるか。
喉を切り裂かれ、心臓と子宮を奪われてしまうのだ。
──嗚呼、恐ろしき!!
きっと大きな男に後ろから抱かれ、青白き息で殺すと囁かれ、そして喉を愛撫するが如く!
それよりも一切何も言わず、何も見ることもなく、気づかぬまま首を切り裂かれるのだろうか。腕に自信のある女性でも殺された。次はお前だ、レディ。そう言われているかのような気がしないでもない。
正体は分からない、目撃者はいるが、皆が口を揃えて言う。
──スモッグが現れて見ることができなかった、と。
スモッグなど、一九世紀の産物で今はないと言うのに。とにかく犯人は未だ捕まっていないというのが現状だ。
新聞記者は利益のことを考え、専門家たちをそれぞれ雇い、様々な憶測と見解を求めては新聞に記載して売り払った。
まずは医者が疑われ、数件の病院の先生が患者たちとの絆を破綻させざるを得なくなった。次に女装癖の男性が疑われ、更に差別の色は濃くなった。またその次は、王室を疑う者も現れた。
しかし、正体はもう、この世にいない者である。
見当違いな推理を載せた新聞雑誌を無造作に闇に捨てた。関心は全くない。
新しい白いネグリジェのフリルの広がり具合を見てはうっとりする。
ジゼル・クレセントは狩場に現れた。鉱石によって貧富の差は縮まったものの、ホワイトチャペルの奥深くは闇の巣窟である。娼婦や孤児、ホームレスから抜け出すことは難しい。そしてそれを一定数の大人たちは見て見ぬ振りをする。だから誰かが死んでも娼婦たちは自分の体を売るしかない。
「売るしかないなら、貰ってもいいでしょう?」
極端な爆論であるが、ジゼルに罪悪感はない。最初の一人でとうに捨てた。温かい血を啜る時の快楽と言ったら、なんともいえないほどの美味。
思い出すだけで喉の奥が渇く。
渇いて渇いて、血を求めはじめる。
ジゼルの周囲からスモッグが立ち込める。纏いながら、ステップを軽やかに踏みしめた。
クイック。
ターン。
クイック。
小さな裸足は確実に前へと進み、路地を歩く女へと近づく。
美味しそうな女の人だ。
ジゼルは舌舐めずりをして背後から近づいた。
可哀想に、一人でいるからいけないのだ。
距離を縮めてスカートの裾を握る。鮮やかな飾りをつけた帽子の女性がジゼルを振り向いた。あどけない少女の登場に不気味さを感じながら、女性は母性を笑みに浮かべた。つられてジゼルの笑みが深まる。ただのその可愛らしいネグリジェの袖口から覗くのは鋭利な刃物。
「ちょうだい」
ちょうだいよ。
いいでしょう、あなたもどうせ死ぬんだから。
悲鳴をあげようとした女性の首を一閃。ただの子どもとは言えない鋭さが彼女の動脈を確実に正確に切り裂いた。声も出せず、血の噴水を溢し、女性は地面へと倒れようとする。それをジゼルは受け止めてホールドした。ダンスを踊るために。
クイック。
ターン。
「いただきます」
未だ溢れる血を啜ろうと唇を寄せる、が。
ジゼルの周囲のスモッグが、突如として晴れた。
「きゃあああああっ!」
悲鳴があちこちから聞こえる。
ジゼルはキョトンとして周囲を見回した。見ている。皆が、こちらを。見て、各々の反応を見せている。
「あれ……ホワイトチャペルじゃない?」
狩り場であったホワイトチャペルからジゼルは出ていた。腕のなかの女性をよく見れば娼婦ではない。
「え……? ええ??」
突然の景色にジゼルはキョトンと首を傾げる。
目前に警官が数人、震えながらも、ジゼルへと距離を縮める。
「切り裂き魔が出た!!」
「応援を呼べ!!」
「……」
まずい。
ジゼルは走り出した。心臓と子宮を回収する予定だったが、その余裕はない。
「逃げたぞ! 追え! 追えーっ!!」
鉱石灯の星空を笛の音が駆け巡る。
警官たちがジゼルを追いかけた。吸血鬼の肉体のため、捕まることは決してないが、あまりにも五月蝿い。完全に振り切るには。
小さな足に力を込める。
振り切るには、全力を出し尽くせばいいだけ。
大きくジゼルの体は跳ねた。
「なっ……!」
警官たちは口をぽかんと開けて、己が目を疑った。建物の壁を蹴っては上へと軽々と上がっていくジゼルの体。見た目は華奢な娘だというのに、人間離れした力を見せつける。あんな芸を見せるなど、サーカスぐらいではないか。
「ば、かな、私は夢を見ているのか?」
「れ、レイモンド巡査! どうやって追いましょう?!」
「……相手は子どもだ、すぐ体力を消費する!」
レイモンド巡査は冷静になろうと考えた。さっきまで彼が追っていたのは、浮浪児の掏摸だったのだ。人がいるのだから犯罪は必ず起こる。浮浪児ならば尚更手を汚してしまう。生きるために。憐憫を持ちながら赤毛の掏摸を追いかけたが、突然のスモッグに襲われた。
そして晴れたと思ったら、血が目の前で飛んでいた。おかげで制服には赤黒い染みがへばりついてしまった。
娘と数歳離れた少女がナイフを手に女を切っていたなど。
落ち着こうとしてレイモンドの身が震える。彼は見逃さなかった、ジゼルが死体をホールドして無邪気に笑う顔を。無垢で、容赦がない。
レイモンドたちが追うべきは、赤毛の浮浪児から切り裂き魔へとすり替わった。逃げていった方向へと走る。
衝撃的な展開に、レイモンドたちの頭のなかにあった赤毛の浮浪児は、存在ごと書き消えた。
一方ジゼルは警察官たちを撒いたあとも追われていた。約束の場所であるホワイトチャペルの墓地を目指す前に蝶の大群が襲ってきた。炎に輝く蝶たちは羽ばたくたびに、炎の鱗粉が溢れてジゼルのネグリジェを焦がす。
「あああああっ!」
怒りでジゼルは大きく悲鳴を上げた。ナイフで切り刻もうとしても蝶は簡単に避ける。ひらひらと舞って予測がつかない。
「ああっあああああっ!!!」
気に入っていたネグリジェを台無しにされた。そして鬱陶しい。怒るには十分だ。羽根を切り刻んでそれから胴を踏み潰す。ジゼルはこの蝶の大群をそうすべきだと怒り狂った。
子どもゆえの癇癪を起こす彼女の背後を、赤毛の少年の姿をした殺気が飛び込んだ。
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