第14話 少年、座学と実技
「──!」
老人の言葉をスイッチに、僕はベッドから起き上がった。昨夜玄関の役割も担った窓から朝日が差し込んで、あらゆる生き物を起こしはじめた。
まだ気だるい体をベッドから降ろし、支度をする。
この学園の授業は、進んでいる方だ。だからこそ、この制服に憧れた。
鏡のなかにずっと憧れていた制服を着た僕が写る。深い紺色のブレザーの制服はとても清楚だ。有名なイートン校の制服よりは安い方だけど、十八歳まで通学するとなると成長するたびに買い揃えなくてはいけなくなるので結構な額になることは間違いない。
「……これとはもう、おさらばかぁ」
退学したら真っ先に制服はボランティア団体に寄付しよう。まだ小さいから、すぐに別の制服が必要になるかもしれないけれど。
夢の内容があまりにも悲しいものだったので、朝から僕の気分はいつもより沈んでいた。
赤い竜が鉱石に貫かれて生き絶えるなど。とてもショッキングな光景だ。何より、英国人にとって虹色のビフレフト鉱石は国の象徴であり、我等が財産。それが命を絶やすという暗示にも見えてゾッとした。
あまりの気分の沈みように、流石に周囲は何も言えずに気まずそうに通り過ぎていく。昨日までとうってかわって穏やかに一日が終わる。
苦手なクリケットでは自然と見学するように言われた。数学は意地悪な教員に当てられることもなかった。ラテン語はよく出来ていたと思う。ノートには一言素晴らしいと赤鉛筆で記されていたし。
一番充実した一日だった。
部活動に入っていない僕は放課後を図書室で過ごす。存分に図書室の蔵書を退学までに一頁でもいいから読みたかったから。
吸血鬼を題材にした怪奇小説を数冊手にとって隅っこで読む。めくるたびに鳥肌が立つのを感じながら、なんとか吸血鬼ドラキュラを読んだ。
はじめは優しい人だったのに、それがまさか吸血鬼となって襲ってくるだなんて、これを一度体験してしまったら、僕だったら周りが怖くなって仕方なくなる。十字架とにんにく、聖水の三つを宅配で入手して部屋の周りを完全防備したくなる。
読み終えた頃には太陽が空のスープに溶けていく頃合いだった。
図書室の先生が僕にそろそろ出て行けと言わんばかりに見てくる。申し訳なくて僕は慌てて図書室を後にした。
ウォルター氏と出会ったのは、学舎から寮へと向かう途中。その途中に美しい落葉樹の並木道があるので、それのスケッチを美術部の生徒たちにさせていた。
「やあ、オスカー」
「こんにちは、ウォルター先生。スケッチですか」
「時々は外の空気を吸いながら描くのも悪くないと思って」
柔和にしわを作って微笑むウォルター氏につられて僕も笑みを浮かべる。
「先生は公募に出品はなさらないんですか?」
「教えるのが性に合うのかもと思っているところなんだ。才能がある子を見つけ、育てる。これは素晴らしくて難しい偉業だ」
「ですが、先生は有名な画家じゃないですか。先生の作品、本屋で拝見しました」
今でも個展を開かないかどうかの誘いが、ウォルター氏にたくさん来ていると風の噂で聞いた。絵画集まであるくらいだ。つい本屋で立読みしてしまったが、華美過ぎない絵画というものもいい。ただ珍しいカラーものなので高価で、学生の僕には買うには至らなかった。
僕の賛辞にウォルター氏は微笑んで首を横に振る。
「今の絵は昔とだいぶ技法が変わってきたんだ」
現在のウォルター氏の絵。これはとても興味を深める。
「今度スケッチでもいいので見せてもらってもいいですか? 先生の今の作品がどんなものなのか、気になります」
「……今度、なら」
昔と絵柄が変わったことを本人はとても気にしているようだ。歯切れの悪い複雑そうな声音。しかしそう言われると気になるのは人間の性。
にっこりと笑って返し、僕は寮室に帰った。
「おかえり、オスカー」
待ってました、とエヴァン師が微笑む。窓が開いているのでまたそこから入ったようだ。僕の机の椅子を占領し、黒革の分厚い本を読んでいる。
スペルが重なり合った表紙を見ると、ラテン語で「死」というタイトルだった。簡潔的なタイトルの本を無造作に机に置く。
「今からラテン語の座学を行う」
師の無情なる宣言。
学んでいるというのに一から教えてやろうと師はやる気だ。
「ラテン語はすでに授業でやってますけど……ここでは必須項目なんですよ?」
「それがどうした。さあ、座りたまえ。最初の課題はこの本の翻訳だ」
黒革の本を指差す。
改めて僕はなかなかの分厚さだ。翻訳への道のりはとても長い。やる気は低迷気味。それでも師は微笑むばかりでやれ、と言う。
こんなことってあるのか。
だいたい、今日は吸血鬼ジゼル・クレセント嬢の捕縛ではなかったのか。
なんだか出鼻を挫かれた気分になって黒革の表紙を開く。最初の一文はこうだった。
「死よ、平等なれ」
一頁目を贅沢に占領するこの文句に、胸の奥が潰されそうになった。
果たして本当に平等だろうか。
一点の淀み、インクのように滲む疑問。
続きを急かされてまた捲る。今度はたくさんのラテン語がひしめき合っていた。
「
死のはじまり、死の先立ちが記されている。
僕はラテン語の文字を指でなぞりながら諳んじる。
「生命の原初は死の原初なり。……はじめに生命が、次に死が、生まれた。生命のはじまりが大樹なれば、死は根元、大地、落葉。──生命は数多あれど、死は五つからはじまった。根元から最初に生まれしは
「総じて六つの死を死祖と呼ぶ。翻訳に間違いはない、見事だオスカー。ラテン語の科目に加点しておく」
師がにこりと目だけ笑う。隣に立って冷ややかなバリトンボイスで翻訳を制止した。
「魂は常に神や悪魔、上位の存在によってよく弄ばれた。魅入られた者は連れ去られ、嫌われた者は身勝手に狂わされた」
次の頁は見開きになっていて挿絵が添えられている。黒いペンだけの着色なしの挿絵はリアルだ。美人が家族の目の前で天使たちに攫われる図、男が悪魔によって好き勝手に生きたまま解剖される様、人生を狂わされたのか笑いながら放蕩する男女など。一度見たら忘れられないほどのショッキングな挿絵だ。
僕が目を逸らす前に次の頁が開く。今度は文字だけのようだ。
「……次はここを翻訳するように。宿題にしよう。そろそろ時間だ」
「時間……?」
「座学は以上だ。次に課外実技に入る。今回は恵まれているぞ。吸血鬼の捕縛を直に見ることができるのだから」
「……楽しそうですね、エヴァン先生」
「実は言うと興奮している」
やはり死神ってどこかズレているんじゃないだろうか。
僕は一抹の不安を覚えて外に出る支度をはじめた。
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