第17話 少年、工房と画家
ふわふわなものに包まれている。多分高級な毛皮。柔らかくて僕の顔の肌には、チクチク刺さることもなく包んでくれている。物理的な包容力にこのままうっとり埋れていたい。
このまま……。
「わふっ!」
耳許で大きな鳴き声。
目を慌てて開け、声の方を振り向く。斜め右隣。声の主はいた。黒い毛並みの大きな体躯、マーガレット色の瞳を覆う長い睫毛。ふわっふわな毛並みはどうやら漆黒の大きな犬だった。
僕が立ち上がると犬も立ち上がる。
「わ……」
四つ足で立つと思った以上の大きさに驚く。目の前の犬の頭頂部が僕の肩ぐらいの高さにある。あまりにも大きすぎないか。
「もしかして、
昔からの伝承を思い出す。母が寝物語の際に教えてくれた。死の先触れとして現れる、不吉な黒犬。目の前の犬がまさしくそうかもしれない。僕はそうだと確信していた。この子から溢れるスピリチュアルなオーラが溢れており、ただの犬とは思えない。
何より、現在の状況は僕にとって非常に
というか僕は生きてるのか?
生きてるならここから脱出して警官に伝えなければいけない。
ウォルター氏に落とされた先は、不思議な空間だった。深淵だと思った底は人工物で形成されている。壁紙のない剥き出しの壁──ぐるりと見回せば十角形に形成されている室内だと気づく。窓や扉は何処にもない。天井は高く、巨人でなければ手が届かないだろう。
天井から明かりが降り注ぐので十分見える。目が光で眩むまいと手をかざし、観察をする。アーサー・コナン・ドイル著のシャーロック・ホームズシリーズを読んだ影響かもしれない。といっても僕はかの探偵みたいに頭がいいわけでも、知識があるわけでも、観察眼が鋭いわけでもない。なのですごくがっかりしたことに、出口らしき場所は見当たらなかった。
落下したから上に行けばいいという考えは浅はかだった。上に登る階段は見当たらず、もし行けたとしても、天井に扉らしいものはない。あるのは素晴らしいステンドグラス。それがアーチ状に作られている。
そして──宙に浮く絵画たち。
サイズは統一されているかのように僕と同じぐらいの大きさだ。それが糸も何もないのに宙に浮いているのだ。綺麗に整頓されているわけでもなく、無造作に天井から床に至るまで浮いているだけ。
「ここって……」
眠気はもう向こうに飛んでいった。
なにより一番気になったのは、僕のことをウォルター氏が「五番目の息子」と言っていたことだ。そして真っ赤な血──絶対にあの瓶の中身は血だ。
そう思うとゾッとした。
あの狭い空間で僕は、前に僕を襲った魔術師とともに過ごしていたのだ。もしかしたら、いや、確実にジゼル嬢を操っていた魔術師。それが僕を息子と呼んだということは、僕をどうするつもりだろうか。有り難くもない想像力が働く。
まさか、僕をジゼル嬢と同じ吸血鬼にさせるつもりじゃないだろうか。
そして僕に同じことをさせるつもりでは──?
また背筋が冷える。
「逃げなきゃ……エヴァン先生に知らせなきゃ」
あの暴言を交わしたばかりで助けを求めるのは、気まずいけど。
じっとしているのも危ない気がした。何よりウォルター氏に捕まる確率を減らさなければならない。
とにかく壁を触って一周する。ざらざらな感触ばかり。触ってみても何も起こらないどころか隙間風も感じなかった。極東の島国大日本帝国にはあると聞いた隠し扉らしきものはないようだ。
そうなると浮いている絵画に目がいくしかない。
改めて僕は絵画を調べることにした。まずは手近にある木の額縁に触れる。
「……ウォルター先生と違うタッチだ。でも、これって先生の前からある作品の作風と一番近い。なんだろう……」
またすぐ近くの絵画を見る。これは微妙に配色と筆の動きが違う、先生寄りの絵。
「別人の絵だ。魔術師は二人?」
「わふんっ」
隣にいた黒妖犬が一鳴きして僕から離れる。
「え、何? 何かあったの?」
突然の行動に戸惑っていると、黒妖犬は今度は僕の方に向き直るとまた近寄ってくる。
なんだろうと思っていたが、近づいてくる黒妖犬に僕は腰が抜けそうになった。
何故なら、とんでもない速さで僕のもとに、走ってくるからだ!
ラグビー選手もこいつにタックルされたらひとたまりもないだろう、黒い巨体が迫ってくる!
「ま、まっ、待って!」
もう避けられない。
僕は目を瞑って来たる衝撃に身構えた。
……
……
……あれ?
待っても僕のもとにあの黒妖犬の毛玉はやってこなかった。残念のような、違うような。
「わふっ」
驚いていると近くから生温かい吐息と鳴き声。恐る恐る目を向ける。
「ひぇ……っ!」
なんと僕の持っていた絵画から、黒妖犬が顔を出していた。大きな舌をベロッと出して、ニコニコ笑う姿はただの大きな犬。不吉な、という言葉は全く覚え浮かばない。
首から下は絵画に埋まっている。
「嘘だろ」
「わぅんっ」
低く鳴いて黒妖犬が僕の腕をパクンと噛んだ。悲鳴をあげてしまう僕のことなんか素知らぬふりで絵画のなかに引き摺り込む。
「ぎぁっ!」
空間に僕は投げ出された。
絵のなかに入るとき、どんな感覚だったと思う?
気持ち悪い感覚だった!
胃をギュッと掴まれて吐瀉を促すような。とにかく、気持ちが悪い。
「飛行船の、上昇と、昇降機に乗ったのが、合わさった、感じ、する……ぉえ……」
「むふぅん?」
「……気持ち、悪く、ないの……」
見れば元気そうにお座りしているではないか。異なる種族だからなのか、生まれながらの違いを見せつけられているような。
気持ちの悪さを口にすると、明らかに「なんで微妙に例えるんですかねー?」という目で見てくる。
「周りから生意気って言われない?」
思ったことを言ったら僕から目を逸らして黒妖犬は立つように促した。図星のようだ。
仕方ない。僕は黒妖犬から視界から外し、立ち上がる。
広がった視界は予想外だった。
ロンドンのどこにでもあるフラットの一室がそこに広がっている。立ち込める油彩の匂い。レースのカーテンが揺れている。手前に脚の細い簡素なベッド、布団はぐしゃぐしゃで使用した形跡がある。
壁紙は剥がれかけている。
誰かの部屋のようだ。奥がまだあるらしく、仕切りのように真っ赤なカーテンがどっしりと垂れていた。隙間から灯りが溢れているのが見えた。
「嘘だろう……」
問題はそこではない。
壁、床、天井、家具、揺れるレースのカーテン。
全てが油彩絵画で出来ている。
肌触りは油彩だが、手が汚れることはない。
確かに油彩。なのに、手触りは本物のようだ。
「これがエヴァン先生の言っていた油彩術式?」
唖然となる。
エヴァン師が未熟だと言っていたが、素晴らしい
繊細な技術に感嘆が溢れる。
その時だった。奥へと続く空間を切っていた真っ赤なカーテンが、気怠げに動いたのは。
「だ、誰だ……?」
「!」
低い、男の声。エヴァン師とは違って萎びたかのよう。
カーテンから覗いた顔は、恐れていたウォルター氏ではなかった。
げっそりと痩せこけた真白な顔で猫背。薄らと透明なのが一番の特徴だ。服はちゃんと色があって、着ている。そしてその上に絵の具が飛び散って汚れている。赤に、白に、黄に、青、などなど。
男は目を瞬かせて僕と黒妖犬を交互に見た。
「き、君、ほ、ほほ、本当に、誰?」
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