第12話 少年、夜間と墓地

 僕はずっと寝ていたらしい。エヴァン師に起こされてベッド脇の時計を見ると夜中の十二時をちょうど時計の針が差していた。シンデレラの魔法が解けるように僕の夢現な視界はくっきりとした輪郭を思い出した。

 風呂を済ませたエヴァン師は、どこから持ってきたのか、革のトランクを横に置いていた。ところどころ傷がついている年季物で、大事に使われていないことだけは分かる。きっと手入れはほんの時々しかしてないはずだ。


「夜間講義だ」


 新しい別のシャツとズボン──でもしわくちゃなのは変わらない──の出で立ちの師は、僕を起こした理由をそう簡潔にまとめた。


 夜間講義。


 講義。


 ああ、そうだった。僕はこの人の弟子になったんだった。

 夢ではないかと思った。期待していた。

 両親が死んだのも。

 テオが殺人犯として拘留されていることも。

 全部元通り、はい夢でしたなんて。


 現実の過酷さに辟易して僕は身支度を整えた。夜のロンドンは寒い。鉱石街灯が夜を照らしているのに、どこか冷たさが生えている。あまりにも堅苦しいのかもしれない。


「着替え終えました」


 たくさん寝たことで視界も感覚も意識もはっきりしている。

 報告を終えると師は一つ頷いて背を翻した。開けたのは入り口の扉ではなく、窓。ここから出入りするつもりなのかと思ったのと同時に右腕一本で抱き上げられる。


「口を押さえておくように」


 まさか、おい、やっぱりクレイジーだ、この人。

 僕を抱えて師は窓辺から飛び降りた。躊躇いも気遣いも一切ない。あまりの恐怖に悲鳴は出ずに、音のない息が出るだけで僕は大地に降り立つ。


「よし」

「よしじゃないですよっ」睨みあげるが肩を竦むだけで師は謝罪などしない。

「夜間講義として外に出る。というわけで、上着はこれを着たまえ」


 渡されたのは喪服。


「夜間講義って今から葬式ですか?」


 否、と首を横に振る。


「墓参りだ」




 学園をこっそりと抜けて鉱石街灯の光を避けるように、僕たちはロンドン郊外を目指した。切り裂き魔の事件で警察と自警団、夜勤の男性たちばかりがメインで、女性たちはちらほらといるけど男性同伴だったりしている。

 師の宣言通り、ロンドン郊外の墓地に僕たちはたどり着いた。たくさん歩いたので入り口でつい座り込んでしまうと師がピーナッツバターを塗ったパンを差し出してくれた。


「ありがとうございます」


 受け取って齧るとピーナッツバターの甘さが口いっぱいに香ばしく広がった。


「墓地には知り合いが?」

「……いや、多分いない。いたとしても私のことなど忘れているだろう」

「では何故墓地に?」

「夜間講義と言ったろう?」

「墓参りとも言いましたから。てっきり知り合いがいるのかと」

「あとで分かる」


 パンを食べ終えるまで、僕を師はジッと待った。静寂のある墓地は静かで、一切光というものを拒んだ。墓地には鉱石街灯が入り口にしか設置されていない。そのあとは真っ暗で、ぼんやりと暮石の群衆が僕たちを見つめている。

 夜中の墓地は初めてだ。祖父母の墓参りをしたのは、確か両親が旅行に行く四日前だったはず。

 食べ終えて手を綺麗に濯いで来い、と言われて僕は墓地に備え付けられた公衆トイレに入った。


「幽霊なんていやしない……いやしないんだ」


 前にも言ったと思う。

 僕は幽霊がダメなタイプだ。

 例え鉱石電灯の明かりで照らされてもだ。少しばかりの暗闇があると気が引ける。ビクビクしながら僕はトイレの洗面台で手を洗い、足早に出て行った。生温い息が首筋に掛かったのは気のせいだと思う。信じたい。


 すでに墓地の内部に入っている師は僕を手招きしてから奥へと足を向かわせる。慌てて後を追っていくと、とある墓石の前で師は止まっていた。

 最近建てたばかりの新しい墓だ。

 師はその暮石の前でマッチを擦り、蝶の小さな群れを作り出した。光源となった蝶はその墓石の周りを飛んで刻まれた名前を照らす。


「──ジゼル・クレセント……? アントニオ先生の、娘さんの墓ってことですか」

「いかにも。そして現在ロンドンを盛り上げている切り裂き魔の墓だ」

「はぁっ?!」


 師は持ち出したテオの日記帳を見せる。


「ずっと不思議だった。テオが殺人犯の姿を確実に見ていたことは分かっていたし、気配もした。なのに化け物を見たと錯乱することもなく、警察に訴えることもなかった。まるで隠すように沈黙する」

「……それは、まさか、ジゼル嬢の姿を、見たからということですか?」

「そうだ」

「でも、ジゼル嬢はもう亡くなっていますよ?」


 有り得ない、と反論すると師は僕に向き合った。


「夜間講義の議題を吸血鬼と定めよう、オスカー」

「昼間辺りに話していた厄介者のことですか?」

「そうだ。吸血鬼の元は生者だ。彼らはあることをして人間から吸血鬼へと変化する」

「あることをですか?」

「この日記に正解は記されている」


 渡された日記には菫の押し花の栞が挟まっていた。もう一度友人の日記を覗いてしまうのは申し訳ないが、これも両親のためと思えば抵抗もなく捲れた。

 つい最近のこと。


──アントニオ先生の焦燥は深まるばかりだ。


 明確に、ただただ飾らぬ必要のない日記はありのままの苦しみと悲しみを僕に見せた。


──経過が芳しくないと言われたらしい。


 飲み込まれる。

 僕があとからずっと眠ってしまったのは、テオのあまりの感情さが襲ったから。


──ジゼルはもう余命が長くないと。


 ジゼル嬢の病態が悪くなる不穏な内容。


 飲み込まれる。


──彼女はいつも生きたいと言う。


 飲み込まれる──。


 文字が紙片から浮いた気がした。

 生き物みたいにふわりと浮いて僕の目の前で弾けた。

 インクへと弾けた文字はたくさんある。

 それが僕の周りを囲む。

 弾けたインクは黒から様々な色に変わった。


 立体的に、写実的にインクは形を作り始める。



 確実に、日記の文字たちは文章の軍は、僕を飲み込んだ。





『一緒にワルツを踊りたいわ、テオ』





 僕の耳に少女の軽やかで空気に溶けてしまいそうな声が届いた。

 真っ白な病室。

 暗闇の墓地はどこにもない。

 まるで僕は日記の世界に入り込んでしまったようだ。目の前にテオと女の子がいる。日記に記されている通り、少女の体は痩せこけて枝のように指が細かった。その今にも折れてしまいそうな手がテオの手に乗せられ、幾度か咳をしながら少女は弱々しく笑う。僕に背を向けて少女を見ているテオの背中が丸くなる。


『そうだね、ジゼル。今度お医者さまに聞いてみるよ』

『楽しみだわ。よく──良くなったら、ね、絶対エスコートしてね』

『勿論さ。……良くなったら、ね』語尾は弱々しく自信もない。


 風が強く吹いた。青い、空が高く見える。病院の庭だろうか、大きな建物に囲まれた中庭のベンチに、アントニオ氏、テオ、ジゼル嬢がいる。ジゼル嬢は車椅子に座りながらも、中庭の景色と外の空気に頰を紅潮させている。

 体調が良くて外出の許可が得られたのだろう。

 ジゼル嬢は嬉しさを隠しもせずにアントニオ氏とテオに甘えて振り回した。困ったように笑う二人の安堵の表情に僕の胸は締め付けられる。この後は言わずもがな、知っている。


 彼女は──。


『私、生きたいわ』


 ぼんやりと空を眺め、ジゼル嬢が穏やかにしっかりとした声音で呟いた。


『生きたい。だって、私、パパからワルツを習っていないわ』


 それは小さなことかもしれない。でもしっかりとした少女の心残り。


「ならどうして……っ」

 僕は抑えきれなかった。


──君は、君は、そんなこと言っておきながら!!


『この足で立って、楽しく踊りたい』


「自殺したじゃあないかっ!」僕は声を張り上げてジゼル嬢に詰め寄った。

 日記のなかの世界なのは確かかもしれない。ジゼル嬢たちは僕の存在に目もくれない。細い肩を掴もうとした僕の手は空をきる。


「君はっ! そんなこと言いながら! テオとアントニオ先生を悲しませたじゃないかっ!」


 どうしようもない怒りだ。でも許せなかった。

 そんな希望的観測を口にしておきながら、やっぱり辞めますみたいに撤回して。


「君は分かってない! 分かってないよ! 君はテオと先生を殺したんだ!」


 叫んで僕の思考はぐるぐると果てしない迷路に嵌る。

 僕の言っていることは、僕にも言えることじゃないか。

 僕だって、ジゼル嬢の気持ちなんて分からない。

 自殺する人の気持ちを完全に理解することは不可能じゃないか。


 ひどいじゃないか。


 分かり合えないけど、生きて欲しいと願ったんだよ、二人は。


 辛くても、そばにいてくれるだけで。


 僕がジゼル嬢に言うべきではない言葉であるということは理解していた。

 言うべき相手はまだ、まだ、僕は理解すべきではないと思考のなかで逃避した。




「戻りなさい、オスカー」




 闇夜を切り裂くバリトンボイス。

 僕は我に返った。広げた日記を両手に持ち、僕はジゼル嬢の墓石の前で立ち尽くしていた。


「エ、ヴァン、せんせい……?」


 アメジストとルビーの瞳が僕に注がれる。


「無意識のうちに視たようだな」

「視た?」

「魂の干渉、本来人間にとって異常とも言える現象を視るにはコツがいる。それを君は無意識にしたんだ」

「魂の干渉? 異常現象?」


 是、とエヴァン師は頷く。


「例えば幽霊、悪魔、天使などと言ったものは普通の人間では見ることはできない。勿論我々死神があることをすると無意識のうちに人間は認識を外す」



 人の群れのなか、歩いているとする。なんとなく目に引く者は少なからずあるだろう。

 美しい人。

 好みの異性や同性。

 目立つ衣装の人。

 気になるお店の看板など。

 それが無意識のうちに群衆の波に消える。だが、それに対して疑問など思わない。そして少しすれば、記憶から消去。



「人は無意識のうちにそれを我々にしているのだ。死という事象を無意識に、意識しないようにする。生きている者の本能が働くのだ」

「悪魔と天使、幽霊が普通に見えないというのもその、本能が働くから……?」

「そうだ。元から見える、などという人間はそれこそ本能が破綻していると言ってもいい。神経が過剰に研ぎ澄まされてしまっているんだ」


 議題を吸血鬼に戻そう。師は一輪の薔薇を墓に添えて身を翻す。


「吸血鬼になるには一つの儀式を行わなくてはいけない」

「それが、テオの日記のなかにあると……」

「君はもう知っているはずだ。日記のなかで散々ジゼル嬢に怒りを見せただろう」


 そのヒントで分かった。分かってしまった。

 ジゼル・クレセントが吸血鬼になった理由、儀式、それは。


「自殺、ですか」


 墓地の門の前のベンチに腰掛けて師はにこりと笑った。不気味なぐらいに。


「正解だ」

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