第8話 少年、油彩と遭遇

 先ほどの烏の大群のことをさしているようだ。油彩絵の具の匂いはまだ鼻腔にこびりついている。鼻をさすったが、取れそうにない。

 鉱石懐中灯をエヴァン氏は取り出した。僕のものだ。昨日の夜まで使っていた懐中灯のなかの鉱石は、もう小麦の粒ほどの大きさになっていた。長時間使用すると完全になくなってしまうが、一定時間休ませればまた大きくなって使える。

 アンティークテーブルの上にランプを置き、エヴァン氏は僕を見て唇だけで微笑んだ。


「君のご両親はドゥーバー海峡で亡くなられた」


 死の宣告は今まで大人たちよりも一番ショックを与えた。心臓を鷲掴みにしたような感覚。それが胸をざわつかせ、僕の目の奥を焼いた。熱い、が、涙が生成されることはなかった。


「そして君は……面白いね。ははっ。君のような人間を見たのは二度目だ」


 好奇心と探究心を秘めたアメジストの瞳が僕を視る。否、僕であり、僕でないものを見ている。特にエヴァン氏は僕の心臓の部分をじっくりと観察していた。

 何が見えているのだろうか。変な緊張が走る。

 想像力を働かせよう。

 僕はエヴァン氏の正体を考えることにした。少しでも気を紛らわすつもりで。


 さっき目の前で起こった事象を思い起こす。

 マッチの火で作られた蝶に猫。

 壁のように僕たちの進路を邪魔してきた烏。

 科学で説明できるようなものではない。その前に科学は僕の得意分野ではないからなおさら解明することはできないだろう。

 僕は率直な疑問を口にする。


「あなたは、魔法使いなんですか?」


 アメジストの視線が僕を射抜く。好奇心旺盛な光は消え失せ、興醒めしたように冷めていた。


「全く違うな。これが口頭試験ならば今の質問は減点対象に値する」


 不愉快極まりない、とエヴァン氏は吐き捨てる。魔法使いではないと言うのなら、先ほどの蝶や猫はいったいなにでできたものだというのだろう。

 僕の思考の海は完全に大荒れだ。

 理解不能。混乱して全く鎮まることがない。

 僕の様子にエヴァン氏は哄笑した。


「魔法使いなどというものは害悪でしかない」


 右手が左手の革手袋を外す。


「魔術師然り」


 次に右手の革手袋を。白金の義手が姿を晒す。


「錬金術然り」


 テーブルの上にどこから出したのか変わった陶器を乗せた。二つに綺麗に割った壺のようだが、内部は様々な大きさの受け皿がキノコのように付けられている。エヴァン氏は一番上の皿に木の欠片のようなものを置いた。マッチを擦り、火が欠片へと移る。乳白色の煙が欠片から溢れた。

 生き物のように下へ。下へ。受け皿に滝のように落ちていく煙は、床にまで溢れてしまった。僕の足元にまで煙とそして濃厚な香りは到達した。


「これは?」

「結界だよ、オスカー・ビスマルク。奴は入れない」


 真っ赤なクッションの背もたれにエヴァン氏は再び体を押し付ける。


「話を進めよう。簡単に言うと、君は魔術師に狙われている」

「はい?」

「そしてそいつは君の両親の死に関係している」

「え」

「そしてそいつは切り裂き魔と一緒にいる」


 簡単に言われすぎて頭のなかが大混乱だ。全くついていけない僕を、エヴァン氏は見兼ねたようにため息をした。

 ため息をしたいのは僕の方なのに。

 足を組み直すエヴァン氏に僕は今度こそ会話を成り立たせようとする。


「あなたは、何者なんですか?」


 エヴァン氏が目を丸くした。まさかこの質問が来るとは思わなかった、とでも言いたげに。


「想像がつくだろう」

「想像がついた言葉を一蹴されたものなので」

「……ふぅん。そうだったな」


 思い出した、とエヴァン氏は頷いた。そして真っ直ぐに僕を見つめて自身の正体を告げようと唇を開く。


「死神だ」


 魔法使いでもなく、魔術師でもなく、錬金術師でもなく。


 死神。


 脳内でこの言葉を反芻させる。今まで全く縁のなかった言葉である。神の教えでは死神は悪魔の一つであり、死という負の元凶的存在だ。そうカミングアウトされてはいそうですか、と笑顔で吞み込めるわけがない。

 死神ならば簡単に僕の命は潰えてしまうだろう。

 僕は慌てて椅子から立ち上がって部屋の扉を目指した。ガタン、と上等なアンティークチェアが倒れる音がしたが構わない。命の方が大事だからだ。


「待ちたまえ」


 ドアノブに手をかけようとした瞬間、エヴァン氏が声をかけてその手を握った。ゾッとするほど冷たくて痛い。無機質な感触だった。


「今は外に出るんじゃない、死ぬぞ」


 エヴァン氏の方に顔を向けると顎で一室の窓へと顎で差す。自然と視線は窓に移った。


「ひっ──」


 喉奥から声にならない悲鳴が漏れそうになる。


 ああ、窓に!


 見た瞬間、僕は釘付けになって硬直した。全身を恐怖が纏って離れようとしない。

 窓には異形がいた。人の形をした真っ白な体に四方に伸びた真っ黒な髪の毛。顔には一つだけ大きな目が瞬きをしながら窓の中を見ようとしている。まるで虫みたいだ。四つん這いになっているのかと思えば、恐ろしいことに足と思われる部分は腕の形をしており、器用に壁に付いている。

 奇妙なことに異形の色合いに既視感があった。

 目を逸らすことのできない緊張感に襲われている僕を無視して、エヴァン氏は焦った様子はなく窓辺の異形を観察しはじめた。


「素晴らしい」


 最初に出てきた言葉はまさかの賛辞。


「見たまえ、オスカー・ビスマルク。この異形は油彩術式を模倣した魔術だ」


 油彩術式。聞いたことのない名称だが、納得できた。奇妙な色合いの既視感は、油彩だからだ。あの油彩特有の厚塗りの色合いに、匂い。まさに油絵の特徴だ。


「油彩術式とは名前の通り油絵の具を使用する術式だ。例えば特別な材料を用意し、力を込めて犬を描くとする。すると出来がいいと犬が動き出す。本物のように」


 だが、と付け足す。


「模倣は模倣だ。魔術師は我々死神の術には到底及ばない」


 床の香木の煙が生き物のように、芋虫の形を成して異形が覗く窓に近づいてカーテンの代わりなった。

 エヴァン氏は立ち上がり、僕の前に立った。恐ろしく、不気味な男だ。


「さて、オスカー。選択の時だ」

「選択?」

「君は選ばなくていけない」


 一つ。エヴァン氏の義手の人差し指が立つ。


「この部屋から一人出てあの魔術に魂を奪われ、魔術師のモルモットにされるか」


 笑いながらゾッとすることを言う。

 二つ、中指が立つ。


「私の弟子になって両親の魂を救うよう努力するか」


 弟子?

 いやそれよりも。僕の両親の魂を救うとは。


 混乱している僕にエヴァン氏は手を差し出した。白金に光り輝く右手が、僕を誘う。


 パリン。


 逡巡している僕の耳に、ガラスの割れる音が聞こえた。見れば窓ガラスに油彩の異形が指を窓ガラスに食い込ませて開けようとしている。血走った目と合ってしまった。


「潮時か」

「し、潮時って?」まさか。まさかと思うが僕は希望を持って聞き返した。

「結界が壊れる」


 窓ガラスに亀裂が走る。煙の芋虫がそれを抑え込んでいるが力負けしているようだ。あの異形が窓ガラスを割ってこの部屋に侵入するのは時間の問題だろう。


「早く決めるんだ」もう一度手が差し出される。

「私の弟子になれ、オスカー・ビスマルク。君にはその資格がある」

「──」


 なんて荒唐無稽な話だろうか。

 死神が弟子入りしろと言ってくる。これにノーと答えたら私はモルモットにされてしまうのだと言う。本当ならば誰も信じないし、馬鹿馬鹿しいと笑うだろう。これは夢で、この部屋から出たら目が覚めて寮のベッドの上にいるのかもしれない。

 しかし。僕はエヴァン氏の手を握った。今度こそ躊躇いもなくしっかりと。

 取るべきだと思ったのだ。彼の話が嘘であろうとも、話が真実であるかを決めるのはこれからのことで、今虚偽だと判断するべきではない。

 可能性が少しでもあるなら縋りたかった。

 両親の死を受け入れらるかもしれないと、ちょっとした期待もあったのだ。

 手を取った僕を、アメジストとルビーの瞳が三日月に嗤う。


 この一瞬、この刹那、エヴァン氏は僕の師となり、僕は弟子になった。


 手を取ったと同時に窓ガラスは派手な音を立てて割れた。飛び散る破片のあとに油彩の異形が部屋に入ってくる。


「ひっ」

「さて、これで君を守る名目はできた。最初に講義しよう、オスカー」


 尻餅をつきそうだった僕を片手で支え、エヴァン師は左手を異形へと翳す。影から漆黒のヴァイオリンが現れる。美しいフォルムが、エヴァン師の「形成解除」という一言で様変わりした。

 滑りのある液体へと溶け出したヴァイオリンは別の形に変化する。ゆっくりと確かに。

 油彩の異形はその変化に警戒しはじめて僕たちとの距離を一定に取る。獲物の観察をされているかのようだ。


「目の前のこれが油彩術式でできたとしても、魔術師の魔術は全て我々の模倣だ」

「模倣?」

「そうとも!」


 ヴァイオリンの弦は緩み、留め具から離れた。留め具も同じく液体へと混ざり、硬質な形状へと姿を変える。弦は硬質なそれに埋め込まれ、個々の漆黒の物質を繋ぎ合わせた。ヴァイオリンのフォルム、デザインを踏襲した大鎌へと生まれ変わる。


「模倣とはすなわち贋作! 故によく見るといい。いかにも己が魔術から生まれたの言わんばかりの匂いと見た目を!」


 大鎌の刃はやはり漆黒で美しく尖っている。それを異形へと向けてエヴァン師は嘲笑を部屋に響かせた。

 馬鹿にされたと気づいたのか、異形は油絵の具の四肢を震わせた。部屋に油彩の匂いが充満する。

 あまりにも強い匂いなので鼻を抑える。

 空気を切る音がした。威嚇のようにエヴァン師が振るったのだ。瞬間、異形は後ろに生える両手をバネにして僕たちに飛びかかった。

 鎌を振るうのかと思ったが、師はその場にあったテーブルを蹴り上げて異形にぶつけた。鈍器の重たい音、重たいものが転げる音、そして鉱石懐中灯やあの香木を乗せた器が割れる音がした。


「懐中灯が!」

「安心したまえ。形あるものは壊れるものだ」

「なっ──」あれは父からの贈り物だというのに!


 安心できる要素など何一つない!

 ふざけるな、と言いたいところだったが、僕が口を開く前に異形がテーブルの下から這い出た。頭部が凹んでいるが、僕らに対する敵意は全く削がれていなかった。それよりももっと敵意が鋭くなっているような。


「贋作は贋作らしく朽ちるべきだ」


 底冷えのするバリトンボイスが場を支配する。そのあとに漆黒の大鎌からヴァイオリンの音色が響いた。美しく、艶かしく、そして凍えたかのような音色は空気を震わせる。呼応する。空気が。そして床に充満していた煙が立ち上がった。さっきまで芋虫のように動いていたというのに、乳白色の煙は蛹のように楕円形へと変わると羽化する。灰色へと様変わりして煙から現れたのは、枝のように細い女だった。

 細い体の女は背中を仰け反らせた。何もない真っ暗な両目から涙をただ流し、大きな口からはか細い声が嗚咽へと変わっていく。


「慟哭せよ!」


 エヴァン師の一言で真っ黒な両目がカッと今より見開いた。

 唇が開き、そこから啼泣が溢れる。

 一室を満たした啼泣は共鳴を果たす。窓ガラスが震えて割れた。

 甲高い聲が耳をつんざき、両手で塞ぐも簡単に入り込んでくる。

 音の侵入というよりも別の何かが入ってくるかのようだ。体が凍えてしまうのではないだろうかという恐怖。そしてこのまま──。


「オスカー!」

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